■File.25 「愛は国境を越えて」
望月カズ  Kazu Mochizuki
(東京都出身 1927〜83)
厳寒のソウルで、家の玄関先に捨てられていた女児を抱く47歳のカズ 昔の面影を残すソウル市鐘路区仁寺の骨董品街の路地裏。かつて望月(永松)カズの小さな理髪店は、このような路地にあったといわれる

  「これで駄目なら帰ります――」。1971年、韓国名誉勲章授賞式の日、大統領府の衛視に下駄履きをとがめられた望月(旧姓永松)カズは毅然と語り、和服にモンペ姿で大統領から冬柏章を受けた。
 この異例の受賞は、望月カズが戦後の瓦礫の中でたった一人、日本女性の身でありながら、孤児たち133人を育て、日韓親善の架け橋となったことによる。そしてカズは“38度線のマリア”と韓国の人々から呼ばれた。
 1927年(昭和2年)、東京の杉並に生まれたカズは、父親の顔を知らないまま、4歳で母と満州へ。2年後、愛する母親を亡くし、わずか6歳でまさに天涯孤独の身に。農奴として転売されながら、満州の荒野を放浪。17歳の時、北朝鮮で出会った永松氏夫妻の厚意で、形だけの養女となり、ようやく日本国籍を取得。
 翌年、終戦を迎え、いったんは日本へ帰るが、焦土と化した祖国に絶望。再び満州をめざす。が、北緯38度線を越えることができず、ソウルに留まる。そして50年6月25日、韓国動乱の戦渦に巻き込まれる。銃火の下を逃げるカズの目の前で、胸を撃たれた一人の女性が倒れた。その腕には、血まみれの男児が。カズは見捨てることができず、思わず男児を抱きしめた。
 こうして女一人生きて行くことさえ困難なソウルのバラックで、孤立無援の奮闘が始まった。肉体労働を重ね、露天の理髪業をし、夜は軍手を作り、豆炭を売り、時には自らの血を売ってまで次々と増え続ける孤児たちを育てる。
 63年、理髪師の資格を取ったカズは、いつしか“愛の理髪師”として有名になり、翌年ソウル名誉市民賞を受け、手記『この子らを見捨てられない』が出版されるや評判となり、同名の映画が制作、上映された。この映画(邦題『愛は国境を越えて』)は、日本でも上映され、多くの人々に深い感動を与えた。67年、韓国の独立記念日(光復節)に、第一回光復賞が、日本人望月カズに与えられた。日本からは76年、吉川英治文化賞を受けている。
「転んでも転んでもダルマの如く立ち上がれ」 
が口癖。卑屈な生き方を嫌い、甘えを許さなかったカズは、ダルマの親子の絵を描いて壁に貼っていた。その精神は日本人としての誇りだった。いつも和服にモンペで通し、端午の節句には遠慮なしに鯉のぼりを翻した。富士山を見る日を待たず、波乱に満ちた56年の生涯を閉じた。
「温室の花の如く育てず、いかなる暴風雨でも耐え得る根の深い木に成長させようとされた」。残された子どもの一人は、葬儀で涙ながらに手紙を読み上げた。


■File.26 「日本は世界の為に」
内村鑑三  Kanzo Uchimura
(群馬県出身 1861〜1930)

内村鑑三の肖像(石川光哉画) 内村鑑三の書/
新緑の高崎公園の片隅にひっそり建つ、「Ifor Japan ,Japan for World…」の鑑三の言葉が刻まれた記念碑

「二つのJ」――Japan(日本=東洋)、とJesus(イエス=西欧)の一致。ここに宗教家であり教育者であった内村鑑三の精神が凝縮されている。
 鑑三が「二つのJ」追求で生み出し、世界に向けて英文で書いた『代表的日本人』『地人論』などによって、世界は未知の国だった東洋の新興国・日本を識った。J・F・ケネディ米大統領もまた、この本で知った上杉鷹山を「最も尊敬する日本人」として挙げた。
 鑑三は、幕末の万延2(1861)年、高崎藩の下級武士の長男として誕生。明治7年、13歳で東京外国語学校(後の東大予備門)に入学。17歳には、開校したばかりで学費のいらない札幌農学校へ転入学。ここでクラーク博士に会い、キリスト教に入信。それはまた「二つのJ」を巡る苦悩の始まりだった。
 若き日の鑑三は、ダーウィン進化論の挑戦を正面から受けとめ、進化論とキリスト教との科学的統合を求めた。明治14年、農学校を首席で卒業。開拓使として3年間働き、水産生物学の研究に大きな業績を挙げ、次いで農務省へ。日本の水産行政の草創期を飾る成果を残すが、結婚の失敗などから退官し、米国へ渡航。
「第一に人となること、さらに愛国者となること」
 これが鑑三の留学の目的だった。まずは精神薄弱児施設で奉仕活動に精勤し、親友・新渡戸稲造も学んだアマスト大学でキリスト教の真髄に触れ、“悟り”を得る。「余は日本の為、日本は世界の為、世界は基督の為、そして全ては神の為」と。その成果を胸に3年半の留学を終え、帰国。時に鑑三27歳。
 希望に燃えて教壇に立つが、現実の日本は内村の期待を裏切るものだった。内村の主張は受け入れられず“国賊”と迫害を受け、新潟・北越学館、東京は明治女学校、東洋英和学校、第一高等中学、大阪・泰西学館、熊本英語学校と、転々とする。軍国色が濃くなり、ついには教職を辞し、文筆生活に入る。
 基督者になることにより、逆説的に日本人としての自覚を得る過程を英文で書いた『余はいかにして基督信徒となりしか』などをはじめとする多くの著書を発表。内外の知識人に多大な影響を与えた。
 鑑三はまた、日本の「天職」を東西両文明の「媒介者」であるとし、仏教、キリスト教など世界宗教を生み出した東洋の精神文明に基づく「宗教改革のし直し」を主張。教会(組織)によらない無教会派(聖書中心の信仰)を貫き、晩年は日本の滅亡を憂え、世界平和を唱え続けた。
 「人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を」
 鑑三はこう言い残し、69歳の誕生日の翌日昇天。鑑三が真に評価されたのは、没後15年経った敗戦という“亡国”の後であった。



■File.27 仏教精神で西域(シルクロード)探検
大谷 光瑞  Kohzui Ohtani
(京都府出身 1876〜1948)
大谷光瑞(徳正寺所蔵) スタインや大谷探検隊が発掘した、中国・新疆ウイグル自治区のトルファンにあるベゼクリク千仏洞

 西洋列強が競ってアジアを浸食していた19世紀末、各国は国策で中央アジアへ探検隊を送り、略奪まがいの発掘を行った。これを見かね、私費で探検隊を組織、多くの文化財をアジアに遺した先人がいた。没後50年を迎えた大谷光瑞師である。
 宗祖親鸞の血統を受け継いだ、浄土真宗の本願寺派第22世法主。宗教家でありながら、広い視野を持った光瑞は、早くから世界に目を向けた。「宗教は実践的なもの、念仏ばかりを唱えていてはならない」と主張。これに対し「僧侶は静かに死者の霊を弔っていればいい、力業のまねごとはいけない」と反対が多かった。
 しかし光瑞は、先祖の親鸞に似て強情我慢、図太い闘志にあふれていた。欧米列強の餌食にされようとしているアジアに対し、手をこまねいて眺めているわけにはゆかぬと、弱冠22歳で行動を起こす。まずは1899年(明治32年)、清国を視察。さらに清から帰国するや、インドからヨーロッパ各地を巡り、英国へ留学する計画を発表。またしても反対を受けるが、父、明如は、「これから一山の統率者ともなろう男が、外国のことを知らなくてどうする。大いに見聞を広げてくるがいい」と力強く応援。
 光瑞が英国に到着したころ、世は中央アジアへの探検熱に沸いていた。露のクレメンツに続いてスウェーデンのヘディン、英国のスタインなどが次々に出発。光瑞はいても立ってもいられなくなる。
 何しろ西域は、古来、東西文化の交通路であり、仏教の栄えた地域。埋もれている古経、仏像、美術品は西洋人にとって未開人の土俗研究の素材に過ぎず、信仰の対象でも先聖の遺宝でもない。これを思想史的に解読できるのは、東洋人が最もふさわしいはず。が、当事者の清国は疲弊の極にあり、とても余裕はなく、探検隊を傍観するのみ。
 もはや日本しかない。だが、近代国家の体を成したばかりで、文化事業に多額の国費を割く余裕はない。誰かがやらねば…。若き光瑞には宗教的熱心と、本願寺という巨大な財を動かす力がある。数百万信者の布施を人類遺産のために使う…。決意は固まった。
 3年の準備の後、光瑞一行は西域探検に踏み出す。1902年(明治35年)から12年間、三次にわたる探検が行われた。持ち帰った文物は、現在、韓国・国立中央博物館、中国・北京図書館、旅順博物館、日本・龍谷大学、東京博物館などに分散。
 探検に巨費を費やした光瑞は、負債問題の責任を取り、38歳で宗主の座を退く。その後、東南アジアで農園を経営し、地域発展に寄与する一方、多数の書を著し、昭和23年、73歳で亡くなった。
 中国・新疆ウイグル自治区の博物館内には、「外国魔鬼」と表示、スタインらと共に光瑞の写真が掲示されている。中国にとって探検隊は、泥棒なのだろう。だが結果的に、探検隊が持ち出した文物は、文革時、宗教を否定する紅衛兵らによる破壊の惨禍から逃れることができた。功罪相半ばす、というところか…。


■File.28 日本とトルコの架け橋
山田寅次郎  Torajiro Yamada
(群馬県出身 1860〜1957)

トルコ服を着た山田寅次郎  寅次郎が献納した鎧兜と陣太刀が展示されているトプカプ宮殿の「帝国の門」(イスタンブール)

トルコ殉職者記念碑(和歌山県串本町)
 アジアとヨーロッパの接点、トルコのイスタンブール。その観光名所トプカプ宮殿には、日本の鎧兜と陣太刀が陳列されている。説明文には「日本の戦国時代の末期、大坂夏の陣の時に用いられた武具で、山田寅次郎氏よりオスマン土耳古帝国皇帝に献納されたもの」とある。この献納は、明治23年(1890年)の“事件”が契機だった。
 この年、オスマン帝国皇帝の命で、トルコ戦艦『エルトゥルル号』が、約1年間の航海を経、横浜港に到着。明治天皇への表敬と日本との修好が目的だった。天皇への謁見を終え、オスマン・パシャ提督一行が『エルトゥルル号』で帰国途中、台風に遭遇。艦は和歌山県の樫野崎沖で座礁。提督以下581人が艦と運命を共にし、助かったのはわずかに69人(後日、日本政府は、生存者を巡洋艦で送還)だった。
 この悲劇の報に、上州沼田藩家老の次男に生まれた山田寅次郎24歳は、義侠心に燃え、全国を東奔西走、義援金を集めた。その額5000円(現在の1億円に相当)。そして外務大臣に「義援金をトルコで直接手渡しては」と勧められ、遭難から2年後、トルコへ。この日本人の善意に、トルコ国民は大感激し、日本に感謝した。
 寅次郎は、スルタン・アブデュルハミド2世に拝謁し、家宝の鎧兜と陣太刀を奉呈。スルタンの勧めで、陸軍士官学校の日本語教師に。後のトルコ共和国初代大統領ケマル・アタチェルクも教え子の一人であった。アタチュルクは「建国の父」と国民から慕われ、全土に銅像が建てられている。
 寅次郎には、もう一つの顔があった。茶道宗偏流8世家元である。博愛心に満ちた行動派で、漢学、外国語、詩文などに通じ、日本の美術品、植物類、鳥類などをトルコに持ち込み、日本文化の紹介にも尽力。ちなみに茶道を海外に紹介したのは、彼が最初だった。
 さらに訪土した日本の皇族、政治家、軍人らをトルコ政府要人に紹介するなど、国交がなかった当時、“民間大使”の役割を果たす(外交関係が結ばれたのは大正13年)。また、寅次郎は日露戦争時、イスタンブールに滞在し、ロシア黒海艦隊の動静を監視、本国に通報するなど活躍。
 その後、寅次郎は、大阪に設立された日土貿易協会の理事長に就任し、日土協会の設立にも参画。昭和3年、寅次郎はトルコとの友好の動機ともなった、エルトゥルル号殉難者の弔魂碑建立にも尽くすとともに、「土耳古殉職士卒追悼祭」を挙行した。以後、五年ごとに式典は続けらている。
 記念碑は和歌山県串本町の大島にあり、戦後にはトルコ記念館も建設。館内には、寅次郎の遺品などが展示されている。親日国で知られるトルコと日本との親善友好は、寅次郎の力に負うところが大きく、名実ともに両国の架け橋となった。昭和32年、91歳の天寿を全うし、波乱に満ちた生涯の幕を閉じている。


■File.29 ライフワークは日韓親善
金山 政英  Masahide Kanayama
(東京都出身 1909〜97)
日韓の架け橋となった金山政英 国交回復直後、金山は反日感情渦巻く中で活躍。写真は韓国カトリックの総本山・明洞大聖堂の夜明け(ソウル市内)

「原子爆弾という強力な兵器を誇示して、日本人に戦争を止めさせようとするなら、富士山の火口にでも放り込めばいい。日本の象徴である富士山が吹き飛べば、無条件降伏をするだろう。なのに広島と長崎に落として、何万人、何十万人という罪もない人々を殺した――実にけしからん!」
 バチカン使節官顧問のカンドウ神父は、第二次世界大戦中、特異的にバチカンに居留し続けた日本の外交官・金山政英から、原爆の報告を聞き激しく怒ったという。同神父は金山の恩師だった。旧制高校時代の金山は、救癩病院で奉仕するクリスチャンの姿に感動し、受洗。このカトリック信仰が外交官としての活躍の場を広げた。
 戦後間もない1952年、マニラに赴任。モンテンルパ刑務所には、明日にも処刑されかねない日本人戦犯108人がいた。金山の着任直前に、14人が処刑されていた。当時、金山の助力で慰問した歌手・渡辺はま子は、「最後に『モンテンルパの夜は更けて』の大合唱になったが、刑死された戦友を思い、声にならなかった…」と語っている。
 カトリック国フィリピンに、バチカン時代の知己・バニヨッチ師が駐在中だった。金山は同師の協力で大統領に捕虜釈放を嘆願し、全員釈放を実現させた。
 1909(明治42)年、東京に生まれた金山は、34年に東大を卒業、外交官試験に合格し、駐仏日本大使館へ。以後、ジュネーブ、イタリア、マニラ、ホノルル、ニューヨーク、チリ、ポーランドと廻り68年、韓国へ。
 この年は、国際勝共連合の創立年。同連合との関係はこの時に始まる。その前年に日韓基本条約が調印されたばかりで、最初の難題となったのが、日帝時代の糾弾が常だった3・1独立記念式典への参加問題。
「過去の過ちを悔い、これを越えて新しい善隣関係を打ち立てていかなければならない日本大使が、いつまでも韓国民の感情を刺激するのを恐れて出席しなければ、韓国政府と国民はどう受け取るだろうか」
 不測の事態を懸念する周囲の反対を押して金山は、全てを覚悟し参加。その誠意が通じ、歓迎された上、日帝時代の悪政に言及されることもなかった。この体験がその後の人生を変えた。
 退官(72年)後、「ライフワークは日韓親善」と、日韓親善協会、日韓文化交流協会、日韓トンネル研究会など数々の団体の要職を務め、幾度となく訪韓。同国から絶大な信頼を受けた。愛娘も韓国人と国際結婚。
 最後の仕事となったのは、かつて日本軍に樺太(サハリン)へ連行されたまま残留し、生活苦にあえいでいる残留韓国人夫人たちへの支援だった。そのための無料老人ホームは、93年に落成に漕ぎ着けた。97年11月1日、金山は世界平和を祈りつつ88歳で永眠した。




■File.30 世界を魅了した“画狂人”
葛飾北斎
Hokusai Kastushika
(江戸・東京出身 1760〜1849)
辞世が記された北斎の肖像画 代表作・富嶽三十六景『神奈川沖波裏』

 人類の生み出した最も卓越した画家の一人――美術史家ルイ・ゴンスは、1883年に浮世絵師・葛飾北斎を絶賛(『日本美術』)した。150回忌の今年4月、海外からの参加者120人を含む、約400人の北斎研究家が、北斎と因縁の深い長野県の小布施町に結集した。4年に1度の国際会議「第3回国際北斎会議」に参加するためである。
 北斎の人気は衰えを知らない。関連の著作は「世界で5000点以上を数え、北斎だけのものが300点」と1993年にモース氏が報告。もちろん日本語のものが多いが、仏、英、独、伊、露、蘭、スペイン、ヘブライ、チェコ、ルーマニアの諸語による。さらに論文は500点以上、展覧会は当時で65回を数えている。
「北斎こそ、浮世絵の真の創造者であり、民衆画家の創設者」とゴンクールは称え、ゴッホは他の浮世絵を真似しながらも、北斎の名だけをあげた。西洋では、北斎は浮世絵の代名詞であった。北斎の世界初の展覧会は、1890年に英で開催。日本ではその10年後、フェノロサらによって開かれた。
 1856年、輸入陶器のパッキングとして詰め込まれていた日本の未知な画集に目を留めた、フランスの銅版画家F・ブラックモンは、その優れたデッサン力と軽妙さに驚愕。彼は芸術家仲間に自慢げに吹聴して回った。その画集こそ『北斎漫画』。北斎の名は西欧中に広がり、印象派の画家たちに多大な影響を与えた。
 北斎は1760年、江戸は本所に誕生。幼少時、貸本屋で働き、暇を見ては貸本の挿絵で絵の勉強。14歳から彫刻を学び、19歳で当時、役者絵の第一人者・勝川春草に入門。翌年には、早くも勝川春朗の号でデビューする天才ぶりを示す。
江戸の趣を今に伝え、観光客でにぎわう浅草の浅草寺境内。終焉の地となった遍照院や墓のある誓教寺も浅草にある
 しかし、秘かに狩野派の画法を学んでいることが師に知られ、33歳で破門。以来、土佐派、淋派、洋風画、中国画などを積極的に学び独自の画境を築いた。
 北斎は、獲得した名声や画風に安住せず、新たな創作への挑戦を続けた。90年の生涯に93回も転居を繰り返し、画号(ペンネーム)を30回以上も変えた。自らを「画狂人」と名のった北斎の刻苦勉励さは、91年の生涯中、何度も画風を変えた20世紀の天才ピカソも及ばないほどだ。
「天、我をしてあと10年の命を保たせよ。いや5年でも生き永らえられるなら“真正の画工”となることができるのだが…」
 北斎は臨終の床にあっても、なおもこう呟きながら黄泉へ旅発った。辞世の句は「飛と魂でゆくきさんじや 夏の原」。夏の原っぱを人魂となって気散じに行こう、だった。



■File.31 世界人を体現した「現代の三蔵法師」
鈴木 大拙  Daisez Teitaro Suzuki
(石川・金沢市出身 1870〜1966)
鈴木 大拙(貞太郎) 現在は石川近代文学館となっている旧制四高跡(金沢市内、中央は四高青年像)。大拙や西田幾多郎らがここで学んだ

 仏教について知識のある人なら、「ダイセツ」の名を知らぬ者はないほど、世界で最も著名な仏教学者の一人。だが、鈴木大拙(貞太郎)という人間の真髄は、学者としてよりも、それを超え、禅に依って「世界人」として生きたスケールの大きな人格にある。
 1959年、晩年の大拙は、ユニークな神学を説き鮮烈な生涯を駆け抜けた、ユダヤ系フランス人の女流思想家シモーヌ・ヴェイユの著書を繙き、数十年も前に書いた自著が引用されていることに驚く。工場での劣悪な労働環境の中でヴェイユが直観した「労働者にとって必要なのはパンよりも詩情である」という断片に、自らの説く「妙」の世界があることを発見した。大拙にとって、この「日常に詩を見ること」こそ宗教にほかならず、そこには洋の東西もありえなかった。
 加賀藩家老の本多家に仕える侍医の家系に5人兄弟の末子として生まれた貞太郎は、小学1年にして父を亡くし、翌年には兄を失い、生活に困窮し学校を辞した。しかし、仏教の信仰篤い母に励まされ、独学で旧制第四高等中学校に入学。英語と文章力に非凡な才能を示した。その母も、貞太郎20歳にして急逝、四高も中退せざるを得ず、小学校の英語教師などを務めた。不幸のどん底で、貞太郎の心の支えとなったのが、四高時代の恩師、北条時敬が熱っぽく語った鎌倉円覚寺での参禅修行だった。母の死後、東京に遊学しながら円覚寺に赴き、北条が教えを受けた今北洪川老師、続いて同寺を引き継いだ釈宗演について修行の日々を送った。この間、東京帝大文科大学哲学科選科を修了し、「大拙」という号が師の宗演から与えられている。
 語学に長けた大拙が世界へと飛翔するのは1893年、宗演がシカゴでの万国宗教会議に出席した際、師の講演する原稿の英訳を任されて以来のこと。師の薦めで1897年に渡米。イリノイ州オープン・コート社に入り、道教など東洋学関係の出版に携わり、一躍学界にその名が知れ渡ることになる。1909年帰国し、東大、学習院大などで教鞭を執り、21年からは大谷大教授を務めた。その間米国人女性ビアトリスと結婚。39年夫人の没後鎌倉に移り、松ヶ岡文庫を建て、96年の生涯を閉じるまで、大拙は終生「現役」として精力的な執筆・講演活動を行った。
 大拙の残した業績は、欧米に禅仏教思想をわかりやすく広めたということにとどまらない。彼は、神秘思想家スウェーデンボルグの邦訳を手掛けた草分けでもあり、東西の宗教の違いを越えて、霊的世界への関心を示した。「日本人と霊性」をテーマとした『日本的霊性』は、「日本崩潰の重大原因は日本的霊性自覚の欠如」とした、いわば終戦間近の日本で書かれた恐るべき警世の書であり、今日の日本社会にも十分通じる内容を持っている。
 四高時代の学友、藤岡作太郎・西田幾多郎と併せ「加賀の三太郎」と称される鈴木大拙。その没後「現代の玄奘三蔵」と時の円覚寺管長・朝比奈宗源が呼んだのは、言い得て妙である。



■File.32 西洋に名を馳せた初の邦人科学者
桂川甫周  Hoshuh-Kuniakira Katsuragawa
(江戸・東京出身 1751〜1809)
光太夫の証言からロシア風俗を甫周が書き留めた『漂民御覧之記』と『北嵯聞略』
桂川氏歴代の墓と顕彰碑は神奈川県伊勢原市の上行寺(東京・芝より移転)にある

 江戸時代、日本におけるヨーロッパ科学の学統は、南蛮医学→蘭方(オランダ)医学と続く医家が主流であった。中でも代々、徳川将軍の侍医(蘭医学)を務めたのが桂川氏である。初代は森島邦教と言い、長崎・平戸の嵐山甫安に師事した。業成って後、京都の「嵐山から流れ出る桂川」にちなんで森島を改め、桂川甫筑を名乗ったという。
 鎖国時代の日本はオランダを通じヨーロッパとつながっていた。長崎・出島に駐在するオランダ商館長は、定期的に義務として江戸参府をしていたが、一行には必ず医師が随行した。その度に、江戸の蘭方医はオランダ人医師と接触、情報を交換したり、教えを受けたりしていた。
 桂川家四代の甫周国瑞(くにあきら、又はくによし)は宝暦元(1751)年、三代国訓の長男として生まれた。
 1776年、長崎に赴任していたオランダ商館医ツンベルグ(実はスウェーデン人)が定例の江戸参府を行ったとき、甫周は同僚と共に面会した。これはツンベルグの旅行記『日本紀行』に記録されている。桂川氏は代々優秀な医師を輩出していたが、ツンベルグは特に甫周の優秀さを見込んで、できる限り熱心に指導した。
 家訓として肖像画を残さなかったという甫周。その人格・学問的能力の一端は、杉田原白の『蘭学事始』にうかがえる。『解体新書』の翻訳に参加し、同書には「官医 東都 桂川甫周世民閲」と明記されている。ヨーロッパ関連の出版は、学術書といえどもキリスト教との関係が問題とされる時代であったが、将軍家侍医の桂川氏の名があったことは、出版公認の強力な後ろ盾となった。
 さらに、甫周の後裔も活躍。明治期には西欧の化学書を訳述、教科書として使われた。桂川氏は、いわば“日本近代科学の父”であった。
 甫周を指導したツンベルグは帰国の後、『日本植物誌』『日本植物図譜』という名著を刊行、ヨーロッパにおける日本学の大家、そして当代第一級の世界的科学者となった。
 寛政四(1792)年、ロシアはアダム・ラックスマンを正使として漂流民・大黒屋光太夫を送還すると共に、通商を求めた。同時に、桂川甫周に宛てたアダムの父キリル・ラックスマンの書簡も手渡した。キリルはツンベルグの弟子で、ヨーロッパでも高名な植物学者であった。
 思いもかけず、甫周の名は、ツンベルグの諸著作を通し、「日本を代表する科学者」としてヨーロッパ中に知られていたのだ。キリルは、同じ科学者として、手紙を書いたのである。つまり甫周は、オランダ人を仲介として、ヨーロッパ学術の世界に連なっていたことになる。
 今でこそ日本では忘れ去られているが、桂川甫周こそは、まさに史上初めてヨーロッパに知られた日本人科学者であった。



■File.33 南海の“ミスターASEAN”
稲嶺 一郎  Ichiro Inamine
(沖縄県出身 1905〜89)
インドネシア服を着た稲嶺 沖縄戦最大の激戦地となった沖縄本島南端にある摩文仁の丘から、遠く東南アジアへ続く東シナ海を望む

 沖縄本島中部、東シナ海に面した浦添市に沖縄国際センターがある。1985年の設立以来、122カ国から3000人以上の人々が技術研修に訪れ、日本を好きになって帰国。本土にも同様の施設が12カ所あるが、研修員がカルチャーショックを受けたり、中には日本に批判的になる者が出るといわれる状態に比べ、格段の成果を上げている。その原点は、東南アジアの人々から、「ミスター・アセアン」と呼ばれた沖縄人・稲嶺一郎の溢れる熱情にあった。
 明治38(1905)年、稲嶺一郎は沖縄本島北部のサンゴ礁の海と山に囲まれた貧しい村の農家に生まれた。父は稲嶺が4歳の時、南米ペルーに移民。母も12歳の時に父に呼ばれペルーへ。わが子にはしっかりした教育を受けさせたいという父の願いで、稲嶺は父の長兄に引き取られ、そこで育てられ、学校へ通う。
「稲嶺家は三司官(琉球王府の総理大臣級の役職)だった。先祖に負けないよう偉くなれ」
 伯父の励ましで熱心に勉強した稲嶺は、東京の早稲田高等学院、早稲田大学へ進学。この頃、父が病死。稲嶺少年を不憫に思った親戚は、借金をしてまでして学費を工面。暖かい支援に涙しながら、夜警をし、奨学金を受けながら苦学。世界恐慌下の昭和4年、最高倍率の満鉄(満州鉄道)に合格する。
「いくら寒くても水は凍らねば0度以上のはず!」
 南国人の稲嶺は、零下18度の冬、冷水浴で体を鍛え、仕事に邁進。さらに満鉄青年同志会を結成し、アジアの平和等について研究。幹部候補生として2年間の欧米視察旅行に浴し、その後もアジア・中東視察の特命を受け、国際感覚は磨かれていった。
 帰国後与えられた任務は、タイへの満鉄事務所の開設だった。時は第二次大戦の最中。タイ、ビルマ、インドネシア等で7年間暮らし、各国の独立運動家たちと親交を深める。彼らは戦後、各国の指導者となった。
 インドネシアで終戦を迎え、侵攻してきたオランダ等の連合軍に遭遇。350年間オランダの植民地だったインドネシアの独立を助けるため、日本軍の武器、弾薬、食糧等を秘かに提供し、助言を与え、独立戦争を支援。だが、これが発覚し、刑務所に1年余り投獄される。獄中では気力を失ったインドネシア人に聖書の黙示録を聞かせ、勇気づけた。このようにして友情による人脈が築かれ、稲嶺はミスター・アセアンと呼ばれるようになる。
 昭和25年、沖縄に帰った稲嶺は、郷土の復興と国際親交に汗を流す。石油会社を設立し、収益を産業振興、奨学金制度、国際親善などに投入。さらに参議院議員としてアセアン諸国を巡った稲嶺は、沖縄をアジアの玄関にと、国境を越え、心と心の絆を深める、国際交流の拠点作りに専心する。国際センターの設立に漕ぎ着け、稲嶺の心が世界の若者に引き継がれ、長男・恵一は、沖縄県知事として沖縄の顔となった。
 平成元年、世界を舞台に活躍した稲嶺は、昭和の終焉と共に逝く。享年84歳。




■File.34 「欧州統合案の母」
青山 光子  Mitsuko Aoyama Coudenhove-Kalergi
(東京都出身 1874〜1941)
中年期の青山光子 ウィーン郊外、女帝マリア・テレジアの別荘があったシェーンブルン庭園。丘に見えるのは、皇帝軍を讃えたグロリエッテ。右後方に、「社交界の花」と讃えられたクーデンホーフ・ミツコの墓がある

 単一通貨ユーロの発進によって、欧州は統合へ大きな一歩を踏み出した。それは80年前に提唱された「パン(汎)・ヨーロッパ」構想の実現を意味する。この「欧州合衆国案」を唱えたリヒャルト・クーデンホーフの母こそ、初めて西洋の貴族と結婚した日本人女性・青山光子であった。
 青山光子は、明治維新により江戸が東京と改称されて間もない明治7(1874)年、東京・牛込の商家に生まれた。光子18歳の冬、彼女の眼前で乗馬中の外国人が氷に脚を取られ馬ごと転倒。彼女は即座に救助し、手厚く看護した。この「異人」は、オーストリア=ハンガリー帝国外交官ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵だった。
 クーデンホーフ=カレルギー家は、ヨーロッパ屈指の名門貴族。二人の間にロマンスが芽生え、民族と身分を越え、周囲の反対を押して結婚。今から100年以上前、それは前代未聞のことで、新聞等で世界中に伝わった。光子は日本の国際化の黎明期、世界の桧舞台で、存在をかけて異文化と渡り合うことになった。長男ハンス、次男リヒャルトに恵まれた後、オーストリア本国から夫への帰国命令が。日本を離れるに際し、皇后陛下の招待を受け、お言葉を賜った。
「そなたは日本人の代表だからいかなる場合でも、大和撫子の本分を忘れぬように」
 光子は「どんなことがあっても、陛下のこのご命令に従おうと固く決心した」と語っている。事実、死の瞬間まで忘れることはなかった。
 オーストリアに渡って14年。しきたり厳しい生活に耐え、伯爵夫人としての地位を固めた光子に不幸が襲う。夫の急逝だ。32歳で未亡人になった光子は、クーデンホーフ家を守り、7人の子供たちを女手一人で育て上げた。
 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、三男ゲロルフは兵士に志願。光子はこの時、日本の敵国だったオーストリア軍の司令部におもむき「息子を前線に行けるようにしてくれ」と頼んだ。
「これこそ日本人だ! 他の母親は息子を前線に行かせないでくれと頼むのだが…」と司令官に感激された。
 オーストリアは戦争に敗れ、クーデンホーフ家の資産は没収、一家は追放された。その惨禍の中で次男リヒャルトは、世界平和を願い「パン・ヨーロッパ」を提唱し、自ら運動を展開。チャーチルなどの大政治家や著名な文学者、思想家、哲学者、宗教家などがこぞって賛同し、日本の鳩山一郎も、リヒャルトの本を翻訳出版している。リヒャルトは、昭和42年に日本で鹿島平和賞を受賞。ノーベル賞最有力候補にも挙がったが、共産党嫌いが災いしてか、受賞を逸している。
 リヒャルトが有名になり、光子は「欧州合衆国案の母」「EEC(現EU)の祖母」と呼ばれた。晩年の光子は、次女オルガとともにウィーン郊外で慈善運動などをしながら余生を送ったが、一度も帰国することなく、真珠湾攻撃の直前の昭和16年、脳卒中で死去。ウィーン郊外のかつてマリア・テレジア女帝の夏の別荘シェーンブルン離宮の近くにある、ヒーツィング墓地に設けられたクーデンホーフ家の墓で静かに眠っている。




■File.35 人類を救った研究の鬼
北里 柴三郎  Shibasaburo Kitasato
(熊本県出身 1853〜1931)
“カミナリ親父”北里柴三郎 柴三郎が私財を投じて建てた北里研究所は、後に北里大学や附属病院などが設立されて今日に至っている(東京・港区白金)

「私は幾多の重要な研究を共にしたが、彼の明晰な頭脳と不撓不屈の忍耐に対し益々信頼の念を深くした」
和服姿のコッホ夫妻

 明治41年、日本を訪れた北里柴三郎の師コッホは、彼を絶賛した。柴三郎が不眠不休の研究の末に発見した破傷風の血清免疫療法は、近代医学に革命をもたらし、人類を救ったのだった。
 柴三郎は幕末の嘉永5年(1853年)、肥後国(熊本県)北里村の庄屋に生まれた。武士を夢見ていた柴三郎は、維新後、大阪に開校された陸軍兵学寮に行こうとする。が、両親に反対され、熊本医学所病院へ入れられる。「医者と坊主は男子一生の仕事に非ず」と、軍人になる夢を捨てない柴三郎にオランダ人教授マンスフェルトは「志を曲げるわけにゆかぬが、今日一日を無駄に過ごすべきでない。まずこれを見たまえ」と、顕微鏡を示した。それをのぞき、息を呑んでいる柴三郎に教授は語りかけた。
「その目に見えない細菌が食べ物を腐らせ、人間を病気にさせる。欧州ではペストで何千万もの人々が死んだ。それも細菌の伝染だった…」
 18歳の柴三郎の魂は激しく揺さぶられ、思わず「先生、私を指導して下さい!」と師の手を握り、彼の一生が決まった。その日から寝食を惜しんで勉強に専念。マンスフェルトが帰国すると、書生奉公で金を蓄え21歳で上京。働く傍ら受験勉強し、東京医学校(後の東大医学部)に合格。仕事を続けながら勉学に励み31歳で卒業。伝染病撲滅のため、薄給の内務省衛生局に就職した。
 3年後、念願のドイツ留学へ。下宿と研究所を往復するだけで研究に専念。コレラ菌を発見したコッホの課すテーマに、研究の鬼となって取り組む。それまで誰も成し得なかった破傷風菌の純粋培養に成功し、北里の名は一躍世界中に広まった。さらに治療法の研究に没頭、ついに免疫血清療法の基礎を確立。続いてベーリングとジフテリアを共同研究し、連名で論文を発表する。10年後ベーリングはこれによりノーベル賞を受賞。もし柴三郎がドイツに留まっていれば、その栄誉に与ることができたはずであった。
 明治24年、留学期間を終えた柴三郎は、米国で好条件の招請を受けるが、これを断って帰国。伝染病の予防と治療を行う研究所をつくる意向に、衛生局長の後藤新平が賛同し、福沢諭吉は私費を投じて芝公園に研究所を建ててくれた。
 以後、柴三郎は研究、ワクチン製造、診療、伝染病の予防防疫に、国内外で活躍し、後進を育てた。愛の鞭を振るう柴三郎は“カミナリ親父”と呼ばれたが、門下からは北島多一(ハブ毒の血清療法)、志賀潔(赤痢菌の発見)、そして野口英世など、幾多の人物を輩出。大正3年に時の首相・大隈重信と対立して研究所を辞めると、彼を父のように慕う全職員もこれに追従。柴三郎は自力で港区白金に北里研究所を設立した。
 日本医師会の初代会長に選ばれ、健康保険法の制定などに尽くした柴三郎は、昭和6(1931)年、80歳で永眠。北里研究所創立50周年の昭和37年、柴三郎の「開拓、報恩、英知、実践、不撓不屈」の精神を建学理念に、北里大学が設立された。



■File.36 台湾発展の基礎を敷く
後藤 新平  Shinpei Gotoh
(岩手県出身 1857〜1929)
後藤新平の手による上下水道や道路、建築物は台湾発展の基礎となり、現在も使われている(工事中の台北の道路)

中国服を着た後藤新平
「当時、下水溝の装置として理想的なものとして台北のごときものは少ない。これは後藤民政長官の発案による」と、台湾でのインフラの先進性を現地の人自らが誇りにしている(謝森展・著『台湾回想』)。
 後藤新平は幕末の安政4年、水沢藩士の子として岩手県水沢市に誕生。9歳で小姓として城主に仕えるが、翌年、戊辰戦争で幕府側について敗北。被占領下の屈辱的体験が、後に新平の植民地政策で生かされることになる。
 福島県立須賀川医学校を出て医師になり、24歳で名古屋病院長に。実績が評価されて衛生局官僚に抜擢され、32歳にはドイツへ留学。衛生統計調査を習得し、北里柴三郎と共にコッホの許(もと)で細菌学を学び、帰国後、衛生局長に就任。
 明治28年、日本は日清戦争で清国から割譲された台湾の統治に手を焼いた。反乱などでうまく行かず、2年間に3人の総督が替わり、台湾放棄論や売却論まで出る始末。最後の切り札として児玉源太郎を総督に任命。児玉は言った。
「台湾をやれるのは、私と君だけだ」
 この一言で40歳の新平の心は決まった。民政局長になった新平は、「内地の法律で縛りつけるのはダメだ。台湾の習慣を尊重せよ」と主張。官僚の抵抗をよそに彼らが作った法律の8割を廃止し、大胆な行革を断行した。
「世の悪は、藩閥、学閥、派閥だ。人物や実力を見ず出身や学歴、親分子分の関係で人を見るようではいかん」
 新平は意見を持たない役人を嫌い、身分や肩書きの上下を問わず各分野の専門家の意見を聞いた。役人に厳しく、民衆には優しく接し、かつて被占領民だった新平は、反乱者たちの気持ちが分かった。ゲリラの一団の「投降式」を行い、周囲の反対を無視して単身参加し、大々的に報道。以後、ゲリラの投降が相次ぐ。
 清国は台湾を支配していた200年間、産業投資をほとんど行わなかった。そこで新平は「台湾を近代化すれば利益を生む。公債を発行してその資金で、鉄道、港湾、水道等を整備し輸出入を活発にすれば利払いや元金償還は困難でない」と主張し、政府首脳と激論の末、この大事業を遂行させた。国際的商業港を完成させ、台湾に莫大な利益をもたらす。
 さらに並行して縦貫鉄道を完成させ、台北市内には幅約40m、片側6車線という、東京にもない道路を敷く。総督府官邸、博物館などの近代建築を建て、それらは今も使われている。そして「伝染病の予防は上下水道の設置から始まる」と、東京よりもずっと早く上下水道を完備。産業振興でも砂糖を台湾の中心産業にし、日本からの補助金を受けず財政的に独立させ、今日の台湾発展の基礎を築いたのだった。
 日露戦争後、満鉄総裁に就任。優秀な人材が集めて育成し、後の日本の指導者が育つ。2年後満鉄の所管を条件に逓信大臣を拝命。南米行路を新設し、電話交換の機械化(大正13年に実現)や鉄道の広軌化(50年後新幹線で実現)などを主張するが、官僚などの抵抗で実現しなかった。その後内務大臣や東京市長を歴任。関東大震災には災害に強い都市計画を立てるがこれも各方面の反対で頓挫。かろうじて昭和通り、日比谷通り、晴海通り、隅田公園などが実現したのみ。
 新平は右は北一輝、左は大杉栄まで多くの人士に援助。多額の借金を残して71歳で死去。その結果、麻布の邸宅は人手に渡り、現在、新平が心血を注いだ中国の大使館が建っている。