邪馬台国と「鉄の道」
著/小路田泰直 洋泉社歴史新書y 903円
日本近代史が専門の著者が、大胆な発想で古代史をひも解いている。目的は「近代の前提となる強固な社会は如何にして形成されたのか」を探るためだ。それには、「倭国大乱」を防ぐため共立された邪馬台国の卑弥呼から始めるべきだ、として、鉄を示す神や神社、地名から古代の交易圏を類推している。
吉野ケ里遺跡が有明海に近い内陸部にあるのは、朝鮮半島・大陸に通じる博多湾、輸出用の硫黄や貨幣に使える貝を産する南九州と、近畿へ通じる宇佐への交通の要衝だったからだ。
邪馬台国の場所では著者は畿内説を取る。西に偏った北九州だと中央集権的な専制国家になるが、近畿だと30余国との適度な距離から連合的な封建国家になれるからだ。
そして、魏志倭人伝に書かれた旅程の読み方を、瀬戸内海ではなく日本海を通り、丹後半島の由良川から加古川に抜け、大和に至ったとする。確かに、方角的にも記述と合い、両河川を使う路は標高も低く、鉄にかかわる地名が多い。同様の発想から、神武東征も事実で、北九州から大和への中心の移動だったとする。
大和で王権が女王から世襲の男王に移るとき、女王は祖霊として守ることで、王権の安定化を図った。それが、神宮皇后の八幡神で、著者は八幡三神の真ん中に鎮座する姫大神(ひめおおかみ)は卑弥呼だとする。
北九州に日本の最初の中心ができたのは鉄を産する朝鮮半島に近いからで、それが大和から近江に移るのは、鉄が次第に国産化されたからだ。伊吹山周辺には製鉄遺跡が多く、長浜の大友は戦国時代、堺と共に鉄砲の生産地となる。継体天皇も琵琶湖西岸の製鉄集団に支えられていた。
さらに、天武天皇による古事記の編纂と神話の創造は、賞味期限切れになった始祖霊を、「神と融合させ、正当化し直すことだった」とする。神との接点に皇祖神として天照大神が設けられたため、卑弥呼は正史から消されてしまうが、人々の記憶にはしっかり残っている。
25通の手紙で読む龍馬の肉声
著/木村幸比古 祥伝社新書 840円
有名な「姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打殺、日本を今一度洗濯いたし申候」の手紙は文久3年(1863)6月29日、坂本龍馬が姉の乙女に宛てて出したもの。長文で、冒頭には「大事なことを書いているので、決しておしゃべりしないように」と方言交じりで注意しているのも面白い。泣き虫の龍馬に剣術や水泳を教えてくれた男勝りの姉を、龍馬は母のように慕っていた。
同年5月10日、長州は関門海峡を航行していた米商船を砲撃し、無謀な攘夷戦を始めた。以後、数次にわたって砲撃を続けたが、長州は外国軍の手厳しい反撃を受ける。龍馬が怒っているのは、幕府が攘夷戦で破損した外国艦を横浜で修理してやったことだ。そこで雄藩を誘い、幕府を倒そうと言っている。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」はまさに龍馬の成長物語だが、まともな学問をしたことがないながら、勝海舟や桂小五郎(木戸孝允)、西郷隆盛などと交わることで、龍馬は最先端の知識と知恵を吸収していく。それが薩長同盟や大政奉還、新生日本の骨格を示した船中八策へと実っていったのである。
龍馬の第一の魅力は明確な国家観に立った構想力と行動力、ベンチャー精神だが、それ以上に、家族や女性に対する底抜けの優しさがたまらない。
慶応2年(1866)にはやはり乙女宛てに、お龍との薩摩・霧島への新婚旅行について、ユーモアあふれる手紙をイラスト付きで出している。著者は「百数十通の手紙でこれに優るものはない」と評価。龍馬は手紙で寺田屋事件に触れ「この龍女がおればこそ、龍馬の命は助かりたり」と回想する。
霧島温泉に泊まった翌日、二人は有名な「天(あま)の逆鉾(さかほこ)」を見ようと霧島山に登る。「馬のせこへまでよじのぼり、この所に一休みして、またはるばると登り」、逆鉾を見ると「これはたしかに天狗の面なり」「大いに二人が笑いたり」と楽しそうに記す。ちなみにこの2人の旅が日本初の新婚旅行とされる。
李朝滅亡
著/片野次雄 彩流社 3,675円
日韓併合100年の今年、日本人として読んでおきたい本が新装再版された。1994年に新潮社から出たものは原稿の3分の2ほどで、貴重な写真も掲載されなかった。歴史小説では、1枚の写真のほうが万言より雄弁なことがある。今回、雑誌に初出当時の写真がほぼ収録されている。
日本では、例えば『坂の上の雲』が人気で、日清戦争は文明の戦争、日露戦争は国民の戦争などと思われていて、どこで戦われた戦争かは、ほぼ抜けている。日露開戦からわずか13日目に結ばれた日韓議定書に、「大日本帝国政府は、(略)軍略上必要の地点を臨機収用することを得ること」とあるのは、日本軍が韓国の国土で自由に活動できるということだ。そんな状態になった国を一般的には保護国と言う。
外交上の文言は上品だが、例えば長谷川好道朝鮮駐剳軍司令官が出した軍律を見ると「軍用船、軍用鉄道に害を加えたる者は死刑に処す」と露骨だ。
日本が朝鮮国(後の大韓帝国)に開国を迫り、両国の間で最初に結ばれた日朝修好条規には、「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有せり」と、文言上は当然のことが書かれている。だが、その意味は、当時、朝鮮が宗主国としていた清との宗属関係を断ち切らせるものであった。
そして、伊藤博文が主導した1905年の第二次日韓協約では、日本政府の外務省が韓国の外交を監理指揮し、その利益を保護する、としている。つまり、韓国は自主的な外交権を失ったのである。1910年の日韓併合はそれを一歩だけ進めたことにすぎない。
公式文書をたどるだけでも、「日本は明治の初めから韓国を侵略しようとしていた」という隣国の過激な人たちの主張が、無理からぬものと思えてしまう。歴史には多様な解釈が可能で、常に現代の時点から見直されるものだ。その意味では、すべての歴史は現代史なのである。せめて韓国の人に、日本人は歴史を知らないと言われないよう、本書を精読したい。
奈良の都
著/笹山晴生 吉川弘文館 2,415円
2010年に遷都1300年を迎えた平城京の“光と影”が、歴史学者の手で正確に描かれている。光は、律令制と仏教による国造りが達成され、天平文化が花開いたこと、影は、その矛盾が貴族の権力闘争などによって露呈し、災害や病気の蔓延なども加わり、農民の多くが疲弊したことである。
律令制と仏教に基づく国造りは聖徳太子に始まり、その時代に中国に派遣され、帰国した留学生らが起点となって大化の改新を起こし、その主役である天智天皇から、壬申の乱を経て天武天皇へと権力が移り、本格的に動き始める。その完成者が聖武天皇と光明皇后で、象徴とも言えるのが東大寺大仏であろう。
東大寺は全国の国分寺の総本山として建立され、国分尼寺のそれが法華寺である。聖武天皇が大仏造立を思い立つのは、河内・智識寺の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を見たからで、同寺のように信仰ある人々(智識)の手により造立されたいと願った。しかし、一方ではすべての富と権力を掌握する天皇としての専制がなければ達成できない、巨大事業でもあった。
インドで興った仏教は本来、個人の救済を目指す宗教だが、アショーカ王のインド統一を機に護国仏教の側面が強まり、それが中国、朝鮮を経て日本にもたらされた。しかし、仏教の本質を天性の宗教性で察知したのが聖徳太子で、その流れは行基などによる仏教の大衆化として奈良時代に現れ、大仏造立に行き詰った聖武天皇が行基の力を借りたことから、後の鎌倉仏教誕生への大きな流れとなる。
当時の寺は今の大学に当たり、外人僧を含む多くの僧が最先端の学問を学んでいた。論理学や心理学もこの時代に渡来する。縄文時代からの日本人の感性が、知的刺激によって言葉に紡がれ、万葉集などに結実したのである。生きた知識や技術、信仰を持つ渡来系氏族の活躍も見逃せない。
遷都1300年のイベントでは、その光だけが強調されたが、むしろ影を学ぶことで歴史理解は深まることを、本書は教えてくれる。
日韓併合
著/片野次雄 彩流社 3,675円
日韓併合100年に際しての菅直人首相の談話の是非を論じる前に、日韓併合条約そのものを読んでおく必要があるだろう。
第一条は韓国の皇帝(純宗)が韓国全部に関する一切の統治権を、日本の皇帝(明治天皇)に譲与すとあり、第二条で日本の皇帝がそれを受諾し、全韓国の併合を承諾すとなっている。つまり、韓国が申し入れてきたので、日本がそれを受けた、という文脈だ。
併合条約が結ばれると、日本国民は歓喜し、韓国民は悲憤慷慨した。それから36年の“日帝時代”が隣の国にあったことを、日本人は記憶し、心に刻むしかない。未来志向で友好を進めるにせよ、過去の事実は消えないからだ。
前著『李朝滅亡』に続く時代を一つの歴史物語として書いた本書は、日本人の知らない話が次々と出てくる。日本の要人に対する爆弾テロのような事件が数多く起こった。
明治の元勲、伊藤博文の暗殺者、安重根が韓国の国民的英雄という逆転現象も、近代の日韓関係を反映している。独立万歳を唱え続けながら獄死した少女、柳寛順が“朝鮮のジャンヌ・ダルク”と呼ばれていることも、多くの日本人は知らないだろう。光州では中学生たちが大規模な抗日運動を起こしている。
人は自分が見たいと思うものしか見えない。とりわけ、自分の関与がほとんどない国の歴史となると、いいとこ取りだけしたくなる。しかし、少し経験を積み、視野が広がると、自分に都合の悪いことも認めることが、新しい自分の創造になることに気づく。そうやって両国は、それぞれの自画像を描いていくしかないのだろう。
だから著者は、歴史的事実を因果関係を付けながら書き並べ、肉付けは控えめにとどめている。それらの是非を判断するのは読者ですよ、と。日韓の歴史認識は共有できなくても、事実の共有はできるし、する必要がある。そんな成熟した日韓関係への基本図書として、本書が読まれることを期待したい。
長宗我部
著/長宗我部友親 バジリコ 1,890円
史上初めて四国統一を成し遂げたのは長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)。著者はその末弟・親房(ちかふさ)から数えて17代。家に伝わる史料から、一族2000年の栄光と挫折を生き生きと描いている。
秦の始皇帝を遠祖とする長宗我部氏は、例えば秦元親(はたのもとちか)などと名乗り、秦氏であることを誇りとしていた。秦氏で有名なのは秦河勝(はたのかわかつ)で、聖徳太子を助け物部守屋(もののべのもりや)を討った功で信濃国を賜り、平安京遷都でも活躍するが、保元の乱で秦能俊(よしとし)が崇徳上皇側につき、後白河天皇側に敗れたことで、土佐に移り住んだ。その時から長宗我部と名乗るようになる。
秦氏の特徴は織物や土木・金属技術に優れていながら、中央での政治的地位をあまり求めないことにある。地方豪族としての賢明な生き方で、蘇我氏などと違い、それが血脈が続いた理由だろう。
戦国大名として頭角を現したのが国親(くにちか)。その原動力が、見所のある農民を武士に採用した一領具足(いちりょうぐそく)だった。そして、子の元親の代で土佐を統一し、織田信長に対抗して本州へと攻め上ろうとしたが、後を継いだ豊臣秀吉に敗れ、臣下となることで土佐一国を安堵された。
大きな誤算は、元親の嫡男・信親(のぶちか)が秀吉の島津征伐に従った豊後・戸次川(へつぎがわ)の合戦で討ち死にしたことだ。代わりに元親が後継に選んだのが、なぜか末弟の盛親(もりちか)。彼は関ケ原の戦いで、元親と徳川家康との親交から家康に親書を送るが、使者が行く手を阻まれ、仕方なく豊臣方に付く。敗戦後、盛親は家康に土佐藩を取り上げられ、京都で浪人に。さらに、大坂の陣に出陣して敗れ、斬首されて長宗我部家の本流は滅ぶ。
土佐に入ってきたのは山内一豊。一領具足の抵抗に悩まされながら、外来者を上士、長宗我部に連なる者を下士とする厳しい身分差別を設け、270年支配する。そのうっ憤が幕末に爆発したのが、「龍馬伝」につながる物語だ。
本書を書き終えた著者は、「血脈連綿」を感じた、と言う。それを芯に置くのが、明治までの日本人の生き方だった。
戦国大名の婚姻戦略
著/渡邊大門 角川SSC新書、819円
戦国大名は戦ってばかりいたわけではない。彼らが愛読していた『孫子』にも、「戦わずして勝つ」ことが最善とされていた。彼らは外交戦略を駆使し、同盟関係を結び合い、そこで裏切らないことの証として使われたのが婚姻だ。その典型が、浅井長政と織田信長の妹・お市の方との間に生まれた浅井3姉妹の末っ子・江(ごう)である。
美濃の斎藤氏と対立していた尾張の信長は、近江の浅井に同盟を持ち込んだ。長政は、湖南の六角氏の娘を離縁してお市の方を迎え、名前も賢政(かたまさ)から信長の1字を取った長政に変えている。そこまでしながら、長政が信長に反旗を翻したのは、以前から盟友関係にあった越前の朝倉氏が信長に攻撃されたからである。
同盟が破綻すると妻は実家に帰るものだが、長政とお市の方は相思相愛で、信長との戦争の最中に江が生まれている。長政が自決した後、母と姉妹は信長の元に引き取られた。
信長が本能寺の変で倒れた後、お市の方は柴田勝家と再婚し、姉妹と北の庄城に入った。勝家が豊臣秀吉に滅ぼされると、お市の方は夫に殉じ、姉妹は秀吉の元へ。そこから秀吉の婚姻戦略が始まる。江は水軍を持つ知多半島の佐治一成に、2女の初は近江の名家、京極高次に嫁ぐ。そしてお市の方の面影を映す長女の茶々(淀殿)は秀吉の側室となった。
ところが、佐治が徳川家康に寝返ったため、秀吉は江を離縁させ、養子の秀勝に嫁がせた。秀勝が朝鮮出兵で病死すると、今度は実子・秀頼の将来を託すため家康の3男・秀忠と結婚させたのである。17歳の秀忠に江は23歳と6歳も年上だが、江は2男5女を産み、長男は3代将軍家光に、5女和子は後水尾天皇の皇后となり、明正天皇を産んだ。
女たちは男の政略に従いながら、淀殿は長政の菩提寺を京都に創建し、江は信長と長政の血を徳川と皇室に残した。比較的自由な立場の初は、徳川と豊臣の調停役として活躍している。最後に勝つのは女なのかもしれない。
古事記を読みなおす
著/三浦佑之 ちくま新書 924円
古事記と日本書紀はこれまで「記紀」などとして一体のように扱われてきたが、日本書記にはわずかしかない出雲神話が、古事記では25%も占めるなど大きな違いがあることはつとに指摘されていた。それを著者は一歩踏み込んで、全く別の立場の歴史書だと断言する。
「古事記の記述は過去に向いており、七世紀初頭の推古天皇で下巻を閉じるという構成からみて、聖徳太子と蘇我馬子とによって編まれたという始原の歴史書『天皇記・国記』へ回帰しようとする歴史認識が認められます。そしてその内容からは、日本書記が標榜する律令的な認識とは別の世界観が浮かびあがります」などと。
例えば、国譲り神話の記述では、日本書紀が、どこまでも勝利した側の論理で語るのに対し、古事記は、制圧された側の神々の無念さを込めて語っている。古事記がそうなった理由を著者は、「語り」の論理が働いているからだと言う。多くの場合、「語り」は滅んでいった側に身を置いて語られるものだからだ。平家物語も、滅ぼされた平家の悲しみを語り伝えたので、あれほど人々の心を打ったのだろう。そこには「弔い」の気持ちもある。
さらに著者が指摘するのは、大和王権成立以前にあった日本海文化圏の豊かさだ。これは1980年代以降の発掘によっても裏付けされている。出雲神話から読み解けるのは、出雲・筑紫(北九州)・高志(こし 北陸)・州羽(すわ 諏訪)を結ぶ文化と交易の歴史。それらを分断したのが、大和を中心に成立した律令国家だった。東海道、北陸道、山陽道など、大和を基点に直線的に整備された道路により、中央集権的な国家体制が整えられていった。
古事記の「序」は9世紀に書かれたもので、7世紀には成立していた本文とは分けて見る必要があるというのは著者年来の主張だが、さらに作者を太安万侶とすることにも疑問を呈している。古代天皇制や国家の成立は重要だが、それとは別の歴史もあったことを示唆し興味深い。
光秀奔る
著/家村耕 教文館 文芸社 1,575円
天正10年6月2日、本能寺の変で明智光秀が主君・織田信長を討った理由について、㈰信長から受けた度重なる屈辱に対する怨恨㈪古い家臣も役に立たなくなると無慈悲に追放し、戦では多くの無辜の民も殺戮する信長への失望㈫自ら天下を取ろうとする野望㈬朝廷をないがしろにする信長から天皇を守るため——など諸説があり、戦国史最大のミステリーである。
著者の見解は㈬をメーンに、日本を平定した後は、朝鮮、明に攻め入ろうとする無謀な信長を排除するため、朝廷と京の町衆が工作したとするもの。豊臣秀吉や徳川家康も密偵からの情報で光秀の動きを掴んでいたが、どんな方法でも信長が死ねばいいと思っていた、という。明確な史料が残されていないため、小説家が自由に想像の翼を広げられる。そこに現代社会の問題が反映されていることで、読者の興味を引く。
日本の近代を開いたとされる信長の人気が高いことから、これまで光秀は主殺しの逆心として評判が悪かった。ところが近年、領内統治に優れた行政手腕を発揮したことや、一夫一婦制を守った妻煕子(ひろこ)との純愛、篤い勤皇の思想などから、再評価されつつある。本書もそれに沿ったもので、菩提寺とした坂本・西教寺(さいきょうじ)に戦死した家臣の菩提を弔った際、上下の区別なく平等に扱ったことなど書き込まれている。
比叡山のふもとにある天台真盛宗総本山の西教寺は、信長の叡山焼き討ちで本堂など失うが、後に坂本城主となった光秀は、その再建に尽力している。宗祖真盛(しんせい)が越前の朝倉氏に仕えていた時、そこを訪れた真盛の教えに触れ共鳴したからだという。
もっとも、その優しさが豊臣秀吉との戦では敗因となる。地の利からすれば合戦の地は近江にすべきだったが、御所のある都を守るため山崎にした。しかも、あいにくの雨のため得意の鉄砲が役に立たなかった。
歴史の常識を覆しながら展開する物語に、著者の考えや斬新な視点が見えて面白い。
近代日本の戦争と宗教
著/小川原正道 講談社選書メチエ 1575円
明治の日本にとって最大の課題は、近代国民国家の創生であった。中でも難しいのは国民の形成で、「自分は日本国民である」という感覚を人々が共有しなければならない。現代では戦争は悪とされるが、近代国家の国民形成に最も貢献したのは戦争で、国民軍はナポレオン戦争のフランスに始まる。もう一つは人々の心を扱う宗教で、戦争と宗教は車の両輪のように、近代国家の国民をつくり上げてきた。それは、日本でも例外でなかったことを、本書はよく解説している。
国学に後押しされた戊辰戦争に、神職は自ら武器を手に新政府軍に参加し、最大の信者数を誇る西本願寺も、物心共に強力に応援した。これには、長州西本願寺派に強力な指導者、島地黙雷(もくらい)がいたことが大きい。後に島地はヨーロッパを視察し、政教分離を取り入れた明治の宗教政策にも積極的にかかわる。一方、徳川家とのつながりから出遅れた東本願寺も、その回復に努めた。
殺生を禁じている仏教が戦争に協力するのは矛盾のようだが、真宗はこれを昔からの真俗二諦(しんぞくにたい)論で解決した。出家者としては戦争を否定するが、世俗人としては忌避すべきでなく、むしろ天皇に中愛を尽くす善なる行為だ、と。ほかの宗派もほぼこれと同じで、日清・日露戦争になると布教僧を派遣し、軍人の布教をはじめ葬儀など行った。「死ぬのが恐ろしければ南無阿弥陀仏と唱えながら進め」と教えられた部隊が強かったというのは、一向一揆の歴史を想起させる。
仏教界の国策協力の背景には、急速に勢力を伸ばすキリスト教に対する脅威があった。そのキリスト教界も、義戦論を展開して政府に協力したのは同じだった。北村透谷や内村鑑三の非戦論は広がらなかった。
興味深いのは、ロシア戦争をロシアが人種間戦争、宗教戦争だと宣伝したのに対し、政府はニコライ主教を保護したことだ。文明国としての自負が当時の日本にはあった。大正から昭和にそれがどうなったか、次作を期待したい。
外務省革新派
著/戸部良一 中公新書 924円
2007年に公表された富田メモで「(靖国神社に)A級が合祀されその上 松岡、白取までもが」と、昭和天皇に名指しで不快感を示されたのが松岡洋右と白鳥敏夫。松岡は国際連盟脱退時の外相で、白鳥は日独伊三国同盟を推進した元イタリア大使である。
満州事変当時、外務省情報部長だった白鳥は、活発な言論活動を展開し、外交の革新を目指す若手外務官僚によって外相に推されるなど、いわゆる外務省革新派のリーダー的存在だった。本書は、軍部よりも激しい皇道外交を唱えた外交官たちがどうして生まれ、大戦に向かう日本でどんな役割を果たしたかを、白鳥を中心に検証している。
昭和6年に起きた満州事変は、中国をめぐる大正11年のワシントン会議以降の国際秩序に反旗を翻したもの。これを歴史的な構造変化ととらえた若手外交官は、日本独自の世界観、哲学に基づく外交の転換を求め、具体的には外務省人事の刷新と機構改革を訴えた。国際協調路線の幣原外交は、事変の衝撃によって転換され、幣原に批判的な廣田弘毅、重光葵、有田八郎らが主導するようになる。
さらに、天皇機関説をめぐって昭和10年に国体明徴運動が起こると、国粋的な世論が高まり、外交にも影響を及ぼすようになった。勿論、中国に関する門戸開放・機会均等・主権尊重を基本とするワシントン体制に最も批判的なのは陸軍である。外務省革新派は、そうした世論や軍部の圧力を背景に、次第に省内に影響を及ぼすようになり、やがて松岡外相が辣腕を振るうようになったのである。
白鳥は当初、欧米の植民地主義を批判し、皇道に基づく日本がアジアの盟主となって解放を勝ち取ることが「世界新秩序」だと論じた。しかし、やがて南進論に傾き、東南アジアの豊富な資源を手に入れることで欧米勢力に対抗するという、もう一つの植民地主義を擁護するものとなった。常に現実的であるべき外交が理想を掲げるときの危険性を、戦前の日本外交の失敗は示唆している。
明治天皇という人
著/松本健一 毎日新聞社 1995円
日清・日露の大戦を経て日本が欧米列強の最後列に加えられ、近代国民国家として認められるに至った最大の功績は、明治天皇にあると言えよう。著者は、余り伝えられていないその肉声に迫ろうとしている。
日露戦争が始まった明治37年、明治天皇は「こらはみな軍(いくさ)のにはにいではてて翁(おきな)やひとり山田もるらむ」の御製を詠んでいる。旅順攻略戦で多くの戦死者が出ながら、国民の間に厭戦の声は起こらず、この歌が発表されると、人々は天皇の聖徳を感じ、それぞれの仕事に励んだという。天皇と国民との心のつながりが、生まれたばかりの明治という国を支えてきたことが分かる。
16歳で維新を迎えた明治天皇は、西郷隆盛や岩倉具視、大久保利通、伊藤博文らと共に、新しい国づくりに臨む。彼らが描く立憲君主国という体制で、天皇が果たすべき役割、体現すべき人格を、驚くほど意欲的に吸収していく。明治憲法の検討会にも積極的に出席している。その真剣さの余り、明治21年の枢密院開院式に当たり、そこでの勅語案を伊藤(枢密院議長)が前日に届けたのに激怒している。自分はロボットではないとの意思表示だろう。
早期に洋装を取り入れながら、執務を終えると和装に戻ったように、明治天皇は東洋的な君子と開明的な立憲君主の両面を一つの人格に統合していた。それ故、日清戦争の開戦の詔勅を発しながら、「朕の戦争にあらず」と言い、平和を求める本心を示している。日露開戦に際しても、「四方(よも)の海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」と詠った。
日露戦後の歌「国のためたたれずなりし民草にめぐみの露をかけなもらしそ」などから、著者は明治天皇を「日本における天皇本来の<祈るひと>」だと言う。
明治天皇の人格によって矛盾を含みながらも機能していた明治憲法が、明治天皇はじめ元勲たちの退場により、統帥権干犯問題のような機能不全をきたすようになるのが、明治の終わりだった。
帝国陸軍
見果てぬ「防共回廊」
著/関岡英之 祥伝社 1785円
チベットに続いてウィグルで紛争が起こるなど、中国の西域がきしみ始めている。これを宗教否定の共産主義と仏教、イスラム教との戦いと見ると、ハンチントンの言う「文明の衝突」になる。戦前の日本陸軍に、内モンゴルから東トルキスタン(ウィグル)、チベット、アフガニスタンを結ぶ「防共回廊」の構想があったことを、機密公電などにより明らかにしたのが本書。著者の「アジア三部作」完結編だという。
傀儡政権とされる満州建国の目的の1つに、防共があった。当時、ソ連はモンゴルを共産化し、さらに満州、中華民国に触手を伸ばしていた。満州が共産化されると、朝鮮、日本とその波は押し寄せてくる。これに対して陸軍が危機感を強めたことは想像に難くない。
満州を建国した日本は、五族の1つにモンゴルを入れ、融和を図っている。軍だけでなく、民間人の笹目恒雄など私財を投じて日本語塾を開き、モンゴルの若者を留学させ、京大などで学ばせている。軍では後に総理大臣になる林銑十郎陸軍大臣が、欧州留学でのイスラーム体験から、彼らが確信的な反共であることを知り、防共回廊の構想を暖めていた。
軍が目指したのは、日本主導による内モンゴルと東トルキスタンの中華民国からの独立だ。彼らは漢民族の傲慢な支配に反発していたし、一国で欧米に立ち向かっている日本に好意的だったという。
歴史にもしは禁句だが、防共回廊がもし実現していれば、中国も北朝鮮も成立せず、「なんという多くの人命が失われずに済んだことか」と著者は慨嘆する。構想実現のため軍が放った多数の工作員は、関東軍参謀・田中隆吉による稚拙な失敗と、日本自体の敗戦により見殺しにされた。
現在の日本は戦前の大アジア主義のような構想力を失っている。一方、軍拡に余念のない中国は上海協力機構を設け、イスラーム勢力を「テロとの戦い」の名目で抑えようとしている。もう一度、戦前に学ぶ必要がありそうだ。
