朝鮮で聖者と呼ばれた日本人
著/田中秀雄 草思社 税込2100円
戦前、朝鮮金融組合理事を務めた重松髜修(まさなお)が“聖者”と呼ばれたのは、「事業は愛の実行である」として「同胞相愛のために」農村の発展に尽くしたからだ。同胞とは日本人と朝鮮人のこと。平壌の東、約40キロにある江東、地元に多いクリスチャンはまさにそう感じたのだろう。
日韓併合の翌明治44年に松山中学から東洋協会専門学校(現拓殖大学)に入学した高橋は朝鮮語を専攻、桂太郎校長は「宣教師のような気持ちで海外に出て行くように」と訓示した。
大正4年に卒業、朝鮮総督府の官吏になった高橋は、土地調査の仕事を経て金融組合へ。朝鮮の財政改革のために乗り込んできた目賀田種太郎が作った、農民の信用組織だ。李氏朝鮮時代、農民は苛烈な収奪と高利にあえぎ、働く意欲を失っていた。
三・一独立運動で右足に大怪我を負うが、回復した高橋が始めたのは、「卵から牛へ」を合言葉に、副業に鶏を飼い、卵で貯金すること。日本から白色レグホンを導入し、受精卵を産ませては、農民に分け与えた。
高橋に応じたのは、固陋な旧世代に失望していた村の若者たちだ。鶏を増やして貯金し、大学へ進む者も出てきた。江東での13年間で農村改善に成功した高橋は、高松宮殿下から銀製花瓶を下賜される。
そんな高橋を作家の島木健作が訪ねている。島木の勧めで俳句もたしなむ高橋は『朝鮮農村物語』を著す。島木は「春風駘蕩たる和気がおのずから満つる」ような人だと高橋を評している。
組合教育部長をへて敗戦前、国民総力朝鮮聯盟の実践部長を務めたことで戦後、高橋は逮捕される。ところが、彼を取り調べた検事は、卵預金で早稲田大学を卒業した農村青年だったという。
無一物になって妻と娘の待つ愛媛に帰った高橋は、また5羽の鶏を飼うことから生活を始める。美しい日本人を発掘した著者に感謝したい。
増補・新版 谷川雁 革命伝説
著/松本健一 辺境社 2,100円
生誕100年の今年、著書の復刻が進められている保田與重郎(よじゅうろう)が戦前の日本浪漫派の代表なら、谷川雁(がん)は戦後浪漫派の代表と言えよう。近年、著者は「原郷(パトリ)」という言葉をよく使い、日本人のアイデンティティーを論じているが、それは谷川の言う「原点」「根の場所」に通じる。飛躍を承知で言えば、その「根」から切れてしまっていることが、現代日本人を不安に、そして軽薄にさせているのではないか。
近代日本人は合理主義とロマン主義の間を彷徨して来たように思う。著者はそれを同世代の二人の作家に凝縮させ、司馬遼太郎が「あるがままに見よ」というリアリズム派なら、谷川雁は「美しいものを見ようと思ったら目をつぶれ」というロマン主義派である、と語る。ともに悲惨な戦争を体験しながら、司馬は散文家になり、谷川は「死んでも言葉は残しておける」として詩人になった。
共産党で活動しながら除名された谷川の詩が、最も影響を与えたのは全共闘だった。アジア型農本主義のような谷川の詩が、マルクス・レーニン主義の彼らの心を捉えたのは、人間の原点において共鳴し合う部分があったからだろう。それは徹底した自己否定の果てに残る確かなもので、そこからこの国を、自分自身を再建していこうという「革命の論理」だ。
そこで問題は、1960年代に谷川は「私の中にあった『瞬間の王』は死んだ」と書いて、文壇を去ったことだ。「詩がほろんだことを知らぬ人が多い。……この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆらする可能性を前提にするわけにはいかなくなっているのである」と。語りかける対象を見失い、詩作をやめた谷川は、伝説の人となったまま、95年に没した。
会社勤めの経験もある著者は、ロマンだけで社会が動くとは思っていない。しかし、ロマンがないと人は生きる意味を見失う。昭和が残した課題とも言える谷川と司馬をつなぐ作業を、戦後世代の著者がしているように思う。
青山栄次郎伝
著/林信吾 角川書店 1,785円
今から80年前、第一次世界大戦後の混乱の中、ヨーロッパ統合を提唱し、運動を起こしたのが青山栄次郎ことリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵。東京・牛込の町娘・青山光子を母に、オーストリア=ハンガリー二重帝国代理大使のハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵を父に、東京で生まれた。もっとも2歳で家族とウィーンに移ったので、日本での記憶はほとんどない。
苦労話では、政府公認の国際結婚第1号の光子のほうだろう。渡欧の際、皇后より「大和撫子の本文を忘れぬよう」との言葉を賜った。3男が志願兵になった時には、最前線に送るよう軍に直談判し、「これこそ日本だ」と陸軍参謀次長を感動させている。
栄次郎が民族的・人種的偏見を持たなくなるのは、ウィーンの貴族学校で多彩な国籍の学友と交わったことが大きい。中にはインド人や中国人もいたという。国民国家の成立はナポレオンによるフランス国軍の創設によるとされるが、以後、ヨーロッパはナショナリズムの衝突が激しくなり、第一次大戦が勃発する。
そうした国家の弊害を乗り越える思想が、ウィルソン米大統領の国連構想とレーニンの社会主義だった。しかし、大戦後の講和会議には反映されず、当時、哲学を学んでいた栄治郎は「どちらもヨーロッパ国家主義の旧勢力に敗れた」と書き残している。
そして1919年のある日、地球儀を眺めていた栄次郎は、不意に世界のブロック化という発想を得た。ヨーロッパが一つになれば、各国が国益を守りつつ協調することが可能になる、と。思索を重ね、23年に書き上げたのが『パン・ヨーロッパ』で、記録的なベストセラーになった。
公職追放中の鳩山一郎が同書を翻訳し、出版したのが1953年。一郎が感銘したのは「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」という栄次郎の理念だった。孫の鳩山由紀夫首相には、どう受け継がれているのだろう。
図説 聖徳太子
監修/千田稔 青春新書 1,187円
古代日本を歴史地理学から研究している著者が、日本という国のグランドデザインを最初に描いた聖徳太子の全容を、豊富な写真とイラストで分かりやすく解説している。遷都1300年祭に沸く平城京も、太子に始まる大和王権の到達点というのが著者の持論だ。
太子は蘇我氏の出身で、仏教受容をめぐり物部氏と対立したとされるが、近年の調査で物部氏の本拠地からも飛鳥時代の寺院の遺構が発見されたことから、実態は朝廷内の実権をめぐる権力闘争との見方が強まっている。太子が仏教を統一国家の精神的基盤としたのは、豪族たちが祀っている氏神が、時には争いの原因になっていたから。外来の高等宗教で、理論的に整備されている仏教により国内の融和を図ろうとした。
当時の朝廷を呪縛していたのは、任那日本府を新羅に滅ぼされた欽明天皇の新羅征討の遺勅だった。太子は実弟の来目皇子を将軍に遠征軍を派遣するが、皇子が筑紫で病没し、続く異母弟の当麻皇子を後任とする軍でも、皇子の妻が没する災いに見舞われ、結局、新羅追討は中止してしまう。しかし、これは激動の東アジアを見据えた太子の平和外交への転換でもあった。
その現われが遣隋使の派遣で、太子は隋や新羅、百済に倣い、律令制度による国の骨格作りに取り組む。冠位十二階は、世襲による氏姓制度ではなく、優れた個人を官僚に抜擢するもので、豪族たちの連合政権から統一王権への移行を目指すもの。憲法十七条は、輪の精神を中心とする官僚たちの心得を説くものだった。
太子の描いた国の形はその死後、大化の改新や壬申の乱などの動乱を経て徐々に実現されていく。太子一族の死が悲劇的だったこともあいまって、観音菩薩の化身という太子信仰が広まる。それを確立したのは聖武天皇の光明皇后で、大衆に及ぼしたのは親鸞。さらに太子は学問や技術の祖と仰がれるようになり、太子講が各地に誕生する。その和の伝統は今も続き、日本人を根底から支えていると言えよう。
江(ごう) 姫たちの戦国 上・下
著/田渕久美子 NHK出版 各1,680円
来年のNHK大河ドラマの原作。江は浅井長政の三女で、母は織田信長の妹・市。長政が信長に滅ぼされた後、信長の弟の信包(のぶかね)に引き取られる。やがて覇権を握った豊臣秀吉によって、江は佐治一成の妻に、次姉の初は京極高次の妻に、長姉の茶々は秀吉の側室・淀殿となり、それぞれ波瀾万丈の生涯を送る。
江は豊臣秀吉により一成と離縁させられた後、豊臣秀勝の妻となり、娘をもうけるが、秀勝は出兵先の朝鮮で死亡。その後、徳川家康の三男・秀忠の正室となり、千姫を頭に徳川家光・忠長など2男5女を産んだ。政略結婚の駒として秀吉に使われながら、娘・和子が後水尾天皇の后となり、明正天皇を産むなど、自ら運命を切り開いていった強い女性である。
「篤姫」でブームを起こした著者は、江に現代女性の生き方を重ねながら、女の幸せとは何か、巧みに問い掛けている。3姉妹の中で最も信長に似た女性として江を描き、「私は自分の思うまま、信じるままに生きようとしました。でも何ひとつ叶いません。ならば、天の作り出す流れに、おのれの意志をもって乗ろうと決めたのです」などと語らせる。これは、秀忠との最初の夜、夫に語った言葉。
クライマックスは、豊臣秀頼の母となった姉と徳川との大坂城をめぐる戦い。初が和解を仲介するが、大津城の京極高次は結局、徳川に付き、関ケ原の戦を徳川優勢に導く。母・市に似た誇り高い性格の淀殿は、豊臣の威信を守るため秀頼と共に果てる。
女性ならではの創作が面白い。例えば、強引な家康の下で育ち、すべてに投げやりな性格になった秀忠を「江なら変えられるかもしれない」と家康に語らせる。茶々は、大嫌いだった秀吉が次第に哀れに思えるようになり、その愛を受け入れ、子を産むことで美しく変身していく。夫婦関係の参考にもなりそうだ。
崇源院(すうげんいん)と呼ばれるようになった江は今、東京・芝の増上寺にある徳川家霊廟に、秀忠と共に眠っている。
河合栄治郎
著/松井慎一郎 中公新書 1029円
1960〜70年代に企業の社会的責任を唱えて哲人的財界人と言われたのが木川田一隆経済同友会代表幹事(東京電力社長)だ。木川田が理想主義的な経営を目指すようになったのは、東大で河合栄治郎の薫陶を受けたからで、河合が当初、農商務省で労働問題を担当したように、木川田も労働問題の解決に取り組むべく東電に入社している。
弟子の木村健康(たけやす)東大教授が「人生の師でもあった」と述べている河合は、山田文雄、土屋清、関嘉彦、猪木正道ら教え子だけでなく、丸山眞男や南原繁、美濃部達吉など思想を異にする人たちからも評価された。丸山は学生時代、河合の二・二六事件批判の論文に感動している。帝国大学新聞に載った同論文は、ファシストを批判すると同時に、それを生み出した陸軍の責任を追及し、軍が武器を民衆に向けるのなら、民衆の武装も認めるべきだとの大胆な内容だ。舌鋒の鋭さから「戦闘的自由主義者」と呼ばれる河合は、昭和初期の教養主義を代表する著書『学生に与ふ』で、若者に多大な影響を与えた。
河合の人格・思想を形成には、東京・千住の商家に生まれ、温かい家庭で自由に育ったことが大きい。旧制中学では私立校でいじめに遭い、府立三中に転校したが、同校のリベラルな学風に馴染み、人間としての深みを増した。思想的に大きな影響を受けたのは徳富蘆花で、一高では新渡戸稲造校長に私淑している。さらに内村鑑三の元でキリスト教を学ぶようになるが、人間の欲望を悪と見なす贖罪信仰に限界を感じ、矢内原忠雄らとは別の道を歩むようになる。東大に進んだ河合の恩師は「衆民主義」を説く政治学の小野塚喜平次で、彼の指導で労働問題に関心を深めていった。
河合の思想は、人々が社会的な役割を果たしながら人格の完成を目指すことで、理想的な社会ができるというものである。日本社会から理想が、それを生み出す教養が失われたことが、今の閉塞感の原因かもしれない。新書ながら充実した評伝となっている。
伊藤博文
著/伊藤之雄 講談社 2940円
1841年、長州に生まれた伊藤博文は維新の志士として活躍し、初代首相など首相を4回務め、明治憲法制定の中心となり、1909年に韓国人・安重根(アンジュングン)の狙撃で68歳の生涯を閉じた。本書は没後100年の昨年末、伊藤の本格的評伝として出版されたもの。
明治日本の形成に多大な功績を残しながら、伊藤には政治理念のない軽佻浮薄(けいちょうふはく)な人物という評価が付きまとう。吉田松陰が周旋家と評したように、木戸孝允や大久保利通、岩倉具視など実力者の間を巧みに渡り、32歳で参議兼工部卿になるなど権力を駆け上ったことがその一因。「箒(ほうき)」とあだ名されたほど多くの女性と関係したことも、メディアに格好の批判材料を与えた。
ところが、伊藤をよく知る木戸は32歳の伊藤を評し「剛凌強直(ごうりょうきょうちょく)」つまり、強く厳しく正直な性格だと述べている。松陰が周旋家と言ったのは人に好かれ、交渉が上手だからだ。イギリス留学で英語力を付けた伊藤は、長州の外交役となってアーネスト・サトウらと親しく交流し、そこから欧米への理解を深めている。さらに米国に留学し、英国、ドイツで憲法の構想を練りながら、近代日本の青写真を作り上げていった。
日本が近代国民国家となるには憲法制定が不可欠だが、西欧の憲法を真似ただけでは機能しないことを知っていたのは、伊藤だけだった。「伊藤の憤りは、イギリス風の憲法を理想とする大隈重信や福沢諭吉、民権派も、ドイツ風を目指す岩倉具視や法制官僚の井上毅(こわし)ですら、……憲法が簡単にできると思っていたことだった」と著者は言う。
西欧の君主機関説を導入し、明治天皇もそう教育したことが、国民宗教を持たない日本が国民国家になれた最大の要因だろう。まさに伊藤は、日本という国のかたちを創った人物である。老齢になって初代韓国統監という苦労を引き受けたのも、山県有朋系陸軍・官僚が主導する領土拡張を抑えるためだったことは、日韓併合100年の今、見直されるべきだ。
やめないよ
著/三浦知良 新潮新書 777円
今年44歳、現役最年長Jリーガーのキング・カズが、2006年から10年まで綴ったエッセー。タイトルのごとく「タイミングを計って引退するなんてことは、もはや僕の選択肢にはない」と言う。
年齢から、「終わるのが近いことは確かだな」と感じ、それは恐怖感でもある。「筋肉に覆われていた間接が、筋肉が落ちて、もたなくなるんじゃないか」など。だから、どこまで行けるか、「ある意味で未知の領域を歩いている」と。
しかし、出場時間が減っても、練習時間は変えない。「まあいいや、なんて思ったことは一度もない」という真摯さでサッカーに向かっている。それがキングと呼ばれるゆえんだろう。
サッカー選手として一番焦ったのは30歳のころ。パフォーマンスが落ちて、日本代表にカズ不要論が起こっていた。その危機を、付け過ぎていた筋肉を落とし、量より質を意識した練習に切り替えることで乗り切る。そして40代。「大丈夫かな」とファンを心配させつつ、でもなぜか期待される、ミステリアスな領域に踏み込んだ。
カズを育てたブラジルの強さは、生活を賭けているから。「日本はまだ部活動の延長を脱していない」と。ブラジルで悩んでいたころ、「考え、悩め。でも前に出ろ」と諭されたという。ミスをすれば、若い選手も手加減されない。もっとも選手には、失敗を気にしないたくましさがある。
「どこまでやれるかわからないけれど、とにかく今日を一生懸命、精一杯やる」という生き方は、今の日本人に一番欠けていることかもしれない。
カフカ ブーバー シオニズム
著/中澤英雄 オンブック 3,150円
『変身』などにより20世紀を代表する実存主義の作家とされるカフカのシオニズムとのかかわりを、作家活動中期の1917年に書かれた未完の短編「万里の長城」(著者翻訳で収録)を踏まえ論じている。
カフカは1883年、プラハのユダヤ人商人の家に生まれ、チェコ人に囲まれて育つ。親子の間ではドイツ語だが、子守や使用人はチェコ語、彼の文学的な志向を理解しない父、母との疎遠な関係から、カフカは子供時代からアイデンティティが混乱していたという。
反ユダヤ主義の高まりに応じてシオニズムが興ってくると、熱心なシオニストの友人に影響され、カフカもユダヤの民族性に目覚めるようになる。ドレフュス事件をきっかけにヘルツルが始めたシオニズムは、政治的なイスラエル建国運動で、精神性は二の次にしていた。彼の死後、運動の中心になったブーバーはむしろ共同体を重視し、運動を通しての宗教的な発展を展望する。もっとも、当時西洋社会に同化していたユダヤ人は、反ユダヤ主義を煽るとして警戒していた。
カフカはブーバーに接近しながらも、彼のシオニズム理念には批判的で、それが「万里の長城」に表現されている。著者によると、カフカにおいて「バベルの塔」は神の高みを求める人間の精神性を意味しており、その塔ができるには長城という基礎が必要だという。ところが、同作では長城は部分的にしか築城されず、一向に円環を成さないので、塔の基礎とはなり得ない。
長城になぞらえたユダヤ人の宗教性の多くを、カフカは東欧から来たイディッシュ劇団から学んでいる。「屋根の上のバイオリン弾き」もその演劇から生まれたもので、家族を重要な構成要素とするカフカの小説に大きな影響を与えた。
その後、一旦熱が冷めるが、1924年に亡くなる前、カフカはパレスチナに移住を計画するほど熱心になる。しかし、著者は「カフカにとってパレスチナは『空想』の中でのみ存在しえた場所なのかもしれない」と言う。
評伝 若泉敬
著/森田吉彦 文春新書 945円
米軍普天間基地の移設問題をめぐり民主党の鳩山政権が崩壊した直後、NHKで「密使 若泉敬 沖縄返還の代償」が放映された。1972年に「本土並み・核抜き」で実現した沖縄返還の背後に、「有事の核持ち込み」を認める「密約」が日米首脳間であり、その草案を作った佐藤栄作元首相の「密使」若泉敬は、終生そのことを悔いていたと結論づけられていた。
確かに、96年に66歳で亡くなるまで、何度も沖縄へ足を運び、すい臓がんに侵された体で慰霊と遺骨収集を続けた姿を、そう読み取ることもできよう。しかし、遺作となった『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を読むと、若泉が悔いているのは密約ではなく、むしろ、戦争で失った沖縄が外交交渉で返還されたことが、日本人の安全保障への無関心を増大させたことである。何よりも志を重視する若泉は、自らの命を削った行為の結果が、日本人の志を貶めてしまったのではないか、と自問自答している。
評伝である本書は、若泉の生い立ちから学問、思想形成、そして実践する国際政治学者としての活躍、宗教への回帰とも言える晩年を、共感をもって描いている。敗戦の日に、なぜ神風は吹かなかったのかと大人たちに尋ね回る若泉少年は、以後の活動を連想させる。同郷福井の橋本左内に傾倒したのもうなづけよう。
核を持つ中国が台頭する東西冷戦下の世界で、日本が真の独立国としての存在を発揮する道として、若泉は核軍縮平和外交を提唱する。それを福田赳夫自民党幹事長(当時)らに説いていた中で、沖縄返還交渉が浮上し、消極的な外務省とは別のルートを開くため、首相密使に抜擢されたのである。若泉は豊富な国際人脈を生かし、見事期待に応える。若泉の持論は、福田首相の全方位平和外交として、さらに発展した。
若泉は晩年、福井の自宅に伊勢神宮の分社を設けている。67年にトインビーを案内して参拝したのがきっかけだという。保守思想の実体を見るようで、胸を打たれる。
江(ごう)
波瀾と愛憎の生涯
著/中島道子 世界文化社 1750円
春日局を主役に『火輪・家光の生母お江与の方と、春日局』を書いた著者が、今度は江(お江与の方)を主役に本書を著した。二度の敗戦と豊臣秀吉による政略結婚の波瀾を体験しながら、将軍の御台所(正室)として世継ぎを産み、天皇家をはじめ主要大名と5人の娘の縁組みを通して絆を強め、太平の世の礎をつくったからである。
徳川家康が、江の伯父、織田信長を討った明智光秀の家臣の娘、春日局(斎藤ふく)を竹千代(家光)の乳母に選んだわけを、著者は「江と大奥のためによかれ」と思ったからだとする。次男の国松(忠長)を自分の手で育てた江には、やがて国松を将軍にとの思いが芽生え、それを望む勢力が形成される。お家騒動の火種だ。大河ドラマでは、この辺りがどう描かれるかが一つの見所となる。
結局、長子相続の原則を家康が立てたことで、混乱は未然に防がれる。加えて家康は、聡明な国松より茫洋とした竹千代の方が将来性があると見た、との読みは興味深い。忠長は駿府藩主となるが、後に乱行するようになり、江の死後、自害させられた。
ふくは伊勢参りの途中、駿府の家康に会い、竹千代への将軍継承を願い出たとの説が一般的だが、著者は家康はふくに会っておらず、託された手紙を見ただけだとする。聡明で一途だが、野心は持っていない女性として描く。
二条城でふくに会った家康は、光秀の敗北により辛酸をなめ、さらに身勝手な夫に自ら三行半を突きつけ、子供を連れて家を出たふくのような女性こそ、女ばかりの大奥を治めるには必要だと考える。そんなしたたかなふくに手を焼きながら、江自身が正室として成長していくのである。
1989年に大河ドラマ「春日局」が放映されたころは、キャリアウーマンが女性の星だったが、「家庭も仕事も」の時代の今は、江の方が注目されるのだろう。女流作家ならではの細やかな心理描写で、女性心理の勉強にもなる時代小説になっている。
江の生涯
徳川将軍家御台所の役割
著/福田千鶴 中公新書 税込840円
2代将軍徳川秀忠の6歳年上の正室は織田信長の血を引いて気が強く、多産で、夫は側室を持てなかった——という浅井三姉妹の末娘、江の常識を、本書は覆す。数少ない史料を読み解き、時代背景や当時の将軍正室に求められた美徳などを根拠に、江戸時代のトップレディーの生涯を、著者は生き生きと描いている。
これまで、江のことが話題に上るのは、二男の家光をうとんじ、三男の忠長を偏愛したことで、家光の乳母・春日局と女の戦いを繰り広げたことくらいだ。それも、春日局が直訴したことで家康が乗り出し、家光への将軍継承を決めたので、評判を上げたのは春日局で、江は惨めに敗北している。
しかし、御台所と呼ばれた徳川将軍の正室の中で、将軍の生母として崇敬され、33回忌まで営まれたのは江だけ。将軍正室の役割を全うするのが、いかに難しかったかが想像できよう。家光以後は、はくを付けるため京都の高貴な公家から妻を迎えているので、彼女たちに大奥を束ねることなど不可能だっただろう。唯一の例外と言えるのが13代家定の妻・篤姫だ。
正室の役割は、(妾腹を含め)世継をもうけ、重要な親戚、大名、家臣との間に贈答儀礼を尽くすことで、そのため、将軍の生活の場である大奥を統括しなければならない。戦国から江戸への変化の時代に、都風と田舎風の長所を兼ね備えた理想の女性を江は演じた、と著者は言う。
秀忠との間に2男5女という多産も、江の実子は千、初の2女と忠長の1男だけで、それ以外はほかの女性の子だと論証する。確かに、家光の誕生日を江の死後10年まで明らかにしなかったこと、前田利常に嫁がせた子々(ねね)への対応などは、それを傍証している。
だからと言って、著者は江を貶めるのではない。むしろ、「流されているようで流されない、しなやかさをもつ生き方」をした女性だと評価している。彼らも将軍の子として世に出し、それなりの道を歩ませることで、正室の役割を果たしたからだ。
マルガリータ
著/村木 嵐 文藝春秋 1575円
著者は故司馬遼太郎氏の最後の秘書を務めた40過ぎの女性で、今は同氏夫人・福田みどりさんの個人秘書をしている。父親がテレビ時代劇の監督だったことから、時代劇大好きの“歴女”となったという。
本書は、1582年にローマ教皇のもとに派遣された天正遣欧少年使節の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルの物語。8年後、キリスト教が禁教になっていた日本に帰国した4人の少年のうちミゲルだけが自ら棄教したとされる。21歳で洗礼を受けた著者はこれに疑問を持ち、ミゲルは本心では棄教していなかったとの立場で物語を書き上げ、第17回松本清張賞を受賞した。
タイトルの「マルガリータ」はスペイン語で真珠を意味し、女性の名前に多く使われる。本書では、ミゲルの妻・珠に夫のことを語らせているので、そう名付けたのだろう。
帰国した4少年と聚楽第で対面した豊臣秀吉は彼らに仕官を勧めたが、4人とも断っている。これは史実だが、本書では秀吉がミゲルに目をかけ、「一人くらいは棄教しないとおれの面目が立たない」とささやきかけている。教皇の方が日本の関白より上になってしまうからだ。ミゲルにその可能性を感じた秀吉はそう誘いをかけると同時に、彼に砒素を盛り、手足の動きに障害が出るようにしている。そのこともあって、ミゲルは他の3少年と共にアモイに渡り、司祭になる道に進むことを断念した。歴史的には、これがミゲル棄教の原因とされている。
棄教したミゲルは幼女の頃から彼を慕っていた珠と結婚し、肥前国大村藩に仕えるが、切支丹たちに迫害され、過酷な生涯を送る。その道を彼が敢えて選んだのは、日本人を殉教させないためだった。それは、殉教をよしとするカトリックに疑問を感じた欧州での体験から4少年が誓い合ったことで、彼らの心は最後まで一つだったとする。
宣教師同士の派閥争いに日欧の文化摩擦、信仰と政治の関わりなどを交え、現代的な課題としても興味深く読める。
中央公論特別編集
三島由紀夫と戦後
編/中央公論編集部 中央公論新社 1680円
「日本」がなくなる─三島の予言。
全共闘の隆盛など、反米反政府運動が「正義」のように映っていた最中の1970年11月25日、自衛隊市ヶ谷駐屯地に、ノーベル賞候補作家・三島由紀夫(1925~70)率いる「楯の会」メンバーらが立て籠もり、自衛隊員に「決起」を促すも、受け入れられず割腹自殺。いわゆる「三島事件」である。
三島は市ヶ谷の自衛官らを前に、怒号や野次に掻き消されつつ訴えたのは、自衛隊と憲法の問題だった。有事の際に生命を賭して国家を守るはずの自衛隊が、虫揮法ではできれば存在しない方がよい厄介者と見なされている。自らの存在を否定する憲法を護るという矛盾を解消するために、決起せよと。
公私共に親しく三島由紀夫の「弟分」とも言えた石原慎太郎都知事は、「懐かしい人」として中央公論の1冊では直近のインタビューと全集未収録の対談が掲載されている。冷ややかな石原氏の三島観と文学評が印象的。家が悪趣味だとか、三島の態度がどこか芝居がかったものだったという、愛憎相半ばする心象が吐露されたインタビューだ。
自ら政治家となった石原氏は、政治家を信じようとしない“軍事オタク”の三島に、よほど違和感を感じたのだろう。それでも、核問題や憲法問題について語り合ったこと、共通の友人であった村松剛が三島の言動に「自決するのでは」と案じていたという。さらにノーベル賞作家の川端康成が市ヶ谷の凄惨な現場に遭遇して以降、奇異な言動が目立ったことなどを述懐している。その意味では作家同士のつながりを改めて知らしめ
る1冊となっている。
現実の政治と乖離したという意味での「観念」をそのまま生きた人として吉田松陰とオーバーラップするという司馬遼太郎の文章も興味深い。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぼな、ニュートラルな、中間色の、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」─以上は「果たし得ていない約束」と題し産経新聞に発表された「三島の予言」と見なされる一節だ。
冷戦終焉以後に定着した、国際盲献はカネだけという日本の悪評を、三島は恐ろしいまでに予見していたのだ。
証言 三島由紀夫・福田恆存
たった一度の対決
共著/持丸博・佐藤松男 文藝春秋 1700円
保守派知識人の代表的存在だった福田恒存(つねあり)(1912~94)と三島とが本気で語り合った『論争ジャーナル』での対談を軸に、両者の若き「弟子」とも言える2人が40年の時を経て証言したのが、持丸・佐藤両氏の著書。石原氏が三島を半ば茶化して
いるのに比べ、天皇制や重罪法問題など重厚で中身の濃い議諭が展開されている。
三島は全共闘学生らと論争するなど、考え方こそ真逆でも学生の「行動力」を買っていたところがあった。だが、いざ東大・安田講堂が「落城」すれば自殺者が出ると警察に進言したものの、結局老婆心に終わり、学生らの「覚悟」のなさと自らの言動への無責任ぶりに幻滅したという。
しかしながら重要なのは、三島が憲法の姑息な解釈がまかり通る政治にある意味で絶望し、自らの命に換え訴えた「憲法改正」は今日、改正世論の高まりと相まって、現実的なイシューとなった。その意味で三島の「檄」は、主権国家として真っ当な内容を先駆的に訴えたと評価できよう。
『憂国』などに明らかな三島の2・26事件へ共感に評価は分かれようが、東大で精緻な法体系を学んだ三島だからこそ、有事法制の存在しない憲法の抱える矛盾とそれを苦しい解釈で糊塗する欺瞞に、彼の美学は我慢がならなかったのではないだろうか。
北一輝
日本の魂のドン底から覆へす
著/岡本幸治 ミネルヴァ書房 3150円
戦後、進歩的文化人の代表者・丸山真男が「日本ファシズムの教祖」と呼んで以来、酷評されてきた北一輝の見直しが進んでいる。背景には、いわゆる東京裁判史観からの脱却や北の著作の刊行がある。そんな北の全体像を知る好著が、岡本幸治氏の『北一輝』。
二・二六事件の思想的主導者として、死刑に処された北は、「天皇を衣を被った社会主義者」の危険思想家と断じられた。だが、処女作『国体論及び純正社会主義』をはじめ『支那革命外史』『日本改造法案大綱』の三部作などを読むと、むしろ現実を踏まえた近代的民主主義者であることが分かる。
例えば、明治期に普通選挙の導入を主張し、言論報道の自由をはじめ人権の保障を唱え、個人の能力の伸長を掲げ、国家が個人の内面に立ち入るような国家主義を弾劾している。さらに、明治政府の国体論を正面から批判し、「天皇の国民」から「国民の天皇」への転換を主張した。つまり、象徴天皇制であり、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)のほうがむしろ北を評価したという。
対外的にも、近隣諸国の権利を重んじて帝国主義的な振る舞いを自粛せよと説き、日本は道義国家たれと主張し、エスペラント語の学習など、帝国主義時代の次に世界連邦の実現を目指している。
だからといって理想主義のロマン派かというとそうでもなく、社会主義に心酔しながら、日露戦争における幸徳秋水や内村鑑三の非戦論は厳しく論難している。今そこにあるロシアの脅威を取り除かないで、社会主義も何もないからだ。その意味では、現実主義的な国家国民主義者だと言えよう。亡国の危機に際しては、国民よりも国家が優先される、と。
二・二六事件では、北はいくらかの将校に思想的影響は与え、支援したりしていたが、実際の行動には関与しておらず、しかも民間人を死刑にするのは異常だった。すべて、国民の非難が上層部に及ばないようにとの、軍の意向からだった。しかし、北はむしろ死刑判決を是とし、変更しないよう要望し、従容として死に就いた。彼の思想を実現するだけの人も戦略もないことを知り、死んで思想を生かそうとしたのか。
今の日本に北が投げかける課題を、著者は「混迷する世界に文明史的貢献のできる、精神文化を伴った東洋型現代化の探求だろう」とする。
真の指導者とは
著/石原慎太郎 幻冬社 903円
司馬遼太郎は幕府洋学教授から長州藩軍司令官に転身し、明治陸軍の礎を築いた天才的軍略家・大村益次郎を描いた小説『花神』で、官軍の勝利は一般的に当然視されるが、兵力の数からも装備からも実は、幕府軍よりかなり劣勢にあったと記している。後に木戸孝允(桂小五郎)が「革命家は数多く出たが、長州に一人の大村が出なければ、堆新はならなかった」と述べたゆえんである。
長州の軍事的天才といえば、同郷の菅直人首相が尊敬する奇兵隊の高杉晋作の方が高名で人気も高い。だが、大村は新政府の基盤の脆弱さを誰よりもよく知り、藩解体と武装解除の上で、中央政府の下に統一された軍を構想した。江戸幕末の開国から維新への一連のプロセスはそもそも、国防に関しての開国か攘夷かという熾烈な路線階争であったが、大村のいわば軍制革命によって、それまでのプロセスが完成されたと見なすことができよう。
「政権交代」で登場した民主党政権は、「官軍気取り」だが、その内実は、維新直後の明治政府よりも遥かに脆弱だ。幕末に威嚇によって結ばされた不平等条約撤廃に心を砕いた外交官は、坂本龍馬の秘書官だった陸奥宗光であった(陸奥の努刀によって外交上の「攘夷の完成」が成されたと見てよい)。
しかし、「奇兵隊内閣」を自称する菅政権は、桂や高杉のような「攘夷派」ではく、アヘン戦争以後欧米列強に租借名義の侵略を許した清朝末期のようだ。明確なビジョンもなく国防論を忌避し、場当たり的政策に右往左往するのは徳川幕末期に近い。
“日本一うるさい有権者”からファーストレディとなった伸子夫人が幻冬舎で出した「辛口エール」の新書(『あなたが総理になって、いったい日本の何が変わるの』)がメディアで話題となっているが、ここで採り上げたいのは、一部に首相待望論が囁かれる石原慎太郎都知事のリーダー論で、タイトルもずばり「直球」の「真の指導者とは」だ。
政治家や作家はもとより、特にすぐれた財界人との交流が自らのリーダーシップ形成に大きく寄与したことを述懐している。
石原知事は自民党反田中派(親台湾・反中共)の若手議員を糾合した「青嵐会」の命名者で、同会から清和会(福田~安倍~三塚派)に属したが、いわゆる戦前無謬派ではなく、戦前の是々非々を振り分ける。その石原氏もルパング島から帰還した小野田寛郎さんがブラジル移住した逸話とその真意を紹介している。
伊藤博文
知の政治家
著/瀧井一博 中公新書 987円
明治元勲の知られざる姿
従来、初代首相であり、明治憲法制定と国会開設に携わった「明治の元勲」と称される伊藤博文。だが、アカデミズムの間ではすこぶる評価の低い研究対象だった。しかも「日韓併合」の黒幕と目され、安重根の凶弾に倒れた思想なき現実主義の政略家と見なされてきた。
新書『伊藤博文』の著者は、兵庫県立大教授を務める気鋭の明治憲法学者。瀧井氏のアプローチは、そうした従来の伊藤のイメージを払拭する力作である。元々、暗殺で生涯を閉じる伊藤にとっては皮肉なことに、吉田松陰の下で攘夷思想を叩き込まれ、英公使館の焼き討ちを実行した「テロリスト」出身であった。その「攘夷かぶれ」を改める転機となったのが、井上馨らいわゆる「長州ファイブ」としての密航による英国留学経験であり、列強の軍事利力の脅威を見せつけた薩英戦争だった。伊藤は松陰門下でも、高杉晋作・久坂玄瑞といったリーダーの後塵を拝する立場だったが、次第に政治家として頭角を現す。
また、明治憲法成立に関して、伊藤の果たした役割よりも、実質的にその下で起草した井上毅を学術的には重視する傾向にありながら、著者はあえて伊藤の憲法に対する希求ぶりを虚心に伝えている。
ここで著者は、日本の「歴史・公民」(教科としての)教育における「俗説」を退ける。それは明治憲法の元となったものは古い「政治学と国家論」であり、庶民の 「自由民権」運動の方が「進んでいる」と見なす観点である。だが伊藤は渡欧経験から既にルソーの「自由民権」思想は18世紀の古めかしいものであり、19世紀はむしろ国民国家と国民精神(ナショナリズム)の時代であることを伊藤は見抜いていた、とする点は、実に目から鱗の議論と言える。その意味ではフランス革命の功罪をどう見るかにも関わる問題だ。
しかし、時を同じくしてドイツとイタリアがまさに「国民国家」へと統一されて間もない「時代の趨勢」というものを肌身に感じたはずだ。その意味で著者は「反動政治家」のレッテルを貼って事足れりとする考えに与しない。
さらに、立憲政友会の立党の真意は、国会開設と政党政治の黎明期にあって、むしろ党利党略の政治抗争が続いた反省を踏まえ、政治理念と政策立案を担うシンクタンク的組織として「政友会」を構想していたという説も斬新だ。
そして「晩節を汚した」とも言われる併合前夜の韓国との関わりについても、最初か
ら併合を目的に韓国統監として乗り込み、併合をお膳立てしたという通説にも反論、「保護国化はやむなし」としてはいるが、殖産興業と教育近代化を達成し、上下両院による議会制度を設ける最大限の自治を認める構想を持っていたことを、明らかにしている(遺稿メモ)。これに加えて著者は、「議会制度が根づいた暁には、韓国再独立の道が開かれ真の日韓同盟が築かれるとの伊藤の夢が託されているように思えてならない」と敷衍する。伊藤のみに明治日本の負の部分を担わせるのではない、公正公平な議論をする上で欠かせない文献として、本書の価値は決して低くないだろう。
岩崎弥太郎
「会社」の創造
著/伊井直行 講談社現代新書 882円
『岩崎弥太郎』の伊井氏は群像、野間両文芸新人賞、読売文学賞を受賞した作家で東海大教授も務める。あとがきで自嘲気味に述べているが、歴史家でも維新研究者でも、三菱や岩崎の関係者でもないが、会社員経験者として「会社とは」「会社員とは」という根源的な問いの答えとして、日記を典拠に「会社」というものを描いたという。
折しも大河ドラマ「龍馬伝」では語り部の岩崎弥太郎だが、弥太郎と龍馬のドラマの虚々実々を知る上でも参考となる1冊と言えよう。
