妖怪学講義
著/菊地章太 講談社 1,575円
東洋大教授の著者が学生を対象に半年かけて行った講義の記録。120年前、同大前身の哲学館を創立した井上円了も妖怪学を講義していた。迷信や偏見にとらわれず、自分の理性で考えることこそ哲学だったからだ。つまり、合理主義の近代日本を象徴する学問だった。井上は妖怪を、「道理で解釈できない不思議な現象」と定義している。
井上は哲学の普及を目指して全国を講演旅行しながら妖怪現象を収集し、その足跡は50道府県に及び、全6巻の『妖怪学全集』に収められている。日本民俗学の創始者、柳田國男が伝承をかなり脚色したのに比べ、井上は素材のまま記録しており、現在では史料的価値が高まっているという。
最初に取り上げたのは幽霊。子供を残して死んだ母親の悔いは強いので、いろいろな子育て幽霊の話がある。井上は、「物理的にはあり得ないが、心理的には存在し得る」ともっともな解釈。ちなみに、水子供養がはやりだしたのは一九七〇年代以降のことで、現代でも妖怪が再生産されているのが興味深い。
「親の因果が子に報い」はいかにも仏教らしいが、インド仏教には親の過失を子が肩代わりすることは常識的にない。東アジアの儒教文化で変容したものだという。植物や物にも命を認めるのは日本的発想で、長く使った道具などに霊が宿り付喪神(つくもがみ)になったりする。天台宗の本覚思想を生んだ日本的感性と言えよう。
呪いと祝いとは字も行為も似ていて、対象への強い思いから生じる。一目見た若い僧に恋し、裏切られて恨んでしまう道成寺の話など、今からは理不尽に思えるが、家から出ずに育てられた娘には、そんなことも起こり得たのだろう。
著者は、妖怪は親子の情や恋愛、怨み、いじめ、呪いをはじめ文学や芸能などあらゆるものつながる、と言う。井上は「妖怪学は全知全能の学」と述べている。哲学を愛した井上も妖怪を否定せず、むしろ、好奇心の源として、知のワンダーランドに取り組んでいたという。
不幸な国の幸福論
著/加賀乙彦 集英社新書 756円
カトリック作家で精神科医・心理学者の著者が日本人の不幸を診断し、幸福へのカルテを書いている。
精神医学の世界では長年、対人恐怖症は日本人特有の精神疾患だとされてきたように、私たちは周りを気にする特質がある。よく日本人は集団主義だと言われるが、日米の比較実験してみると、アメリカ人のほうがはるかに全体のために行動するという。そこで著者は、日本人は利己的なのに、無理をして人に合わそうとする、と診る。だからストレスが溜まるのだろう。
秋葉原通り魔事件の犯人は、自分は不細工で生まれながらの負け組みというレッテルを貼っていた。共感者が意外と多かったので、格差社会が原因だとも言われた。著者は、これを子供の自尊心と分析する。大人の自尊心は自分の内面を客観的に見つめ、自信を深める方向に働くのだが、子供の場合、他者との比較で自分の価値を確認しようとし、人間関係を上か下かで見る傾向が強く、本当の自信にはつながらない。
日本が欧米よりも全体に個を合わせることを強いられる社会であるため、個が育ちにくいのはその通りだろう。しかし、それは日本の風土や歴史からきたものなので仕方ない。半面、人間関係の細やかさを培ってきたので、それを生かせばいい。日本でも評価されるのは、ただ順応的な人ではなく、自分の考えをしっかり持ち、行動できる人だ。著者は、自分を客観視する眼差しを強調する。
幸福の大きな部分を占めているのが生きがいで、自分が誰かから必要とされていると感じるときに持つことができる。自分がどんなに不幸な状況にあっても、人のために何かができれば、生きる力がわいてくる。つまり、生きがいを持つことは意外と簡単で、それを持ち続ければ、不幸の淵に落ちることはない。
読みながら自分の心が見透かされるようで、自然に反省させられる。好きなことを探す、活動の場を広げるなど、気軽に取り組める事例が挙げられているのもいい。
それでも僕は生きてゆく
著/野田啓介 アートヴィレッジ 1890円
ニューヨークの大学で哲学を教える著者が、自殺願望の18歳の少年を主人公に書いた、生と死をめぐるファンタジー小説。哲学的な考察がやさしい語り口でつづられ、『ソフィーの世界』の死生学版といった感じ。自殺大国となった母国へのメッセージだろうか。
中学時代に陰湿ないじめを受けた健太は、高校に入ると出世コースだけを望む父の圧力に耐えかね、母を病気で失ったことで絶望し、死に場所を求めて、幼い頃に遊んだ天城高原をさ迷う。疲れて休んだ山小屋で見た夢の中で、懐かしい声に導かれ、不思議な旅に出る。
最初に出会ったのは旅の僧。寡黙な僧と旅を続けていると、死にかけたオオカミがいた。2人の手当てで回復したオオカミと、奇妙な3人旅となる。次に現れたのがソクラテス。死はすべての終わりだと言う健太に、彼は「いや、永遠の世界の始まりだ」と応えた。
そうであるなら、疲れ果てた人間にとって唯一の希望だった死が、希望ではなくなる。混乱しながら、健太は思考を深めていく。そんな健太にソクラテスは、目には見えない永遠の魂がおまえの主体なのだ、とイデア論を教える。健太を気遣う僧は、人は1人で生きているのではなく、いろいろな命とのかかわりの中で生きているのだと諭す。
次に出会ったプラトンは、人間の魂には生来的にすべての真理が備わっていて、真の自己を実現するという義務は、たとえ死んでもなくならない、と語る。そして、よき思想こそが人生を善に導く力だ、と。
さらに旅を続けた健太は、落ちてしまったアリ地獄から、小さな木の根に救われた後、太陽に出会う。太陽は最初は小さな光だったが、与える喜びを知って、次第に大きくなってきた、とその成長を語った。沈みいく太陽が健太に残した言葉は「自分を見つめている自分のまなざし、それこそ善のイデアの光です」。
夢の中で生と死をめぐる混乱を整理され、大切な人たちとのつながりを思い出した健太は、新しい一歩を歩み始める。
これからの「正義」の話をしよう
著/マイケル・サンデル 早川書房 2415円
米国ハーバード大で履修者数が大学史上最多という政治哲学の講義録をまとめたもの。この8月に来日し、東大でも特別授業を行った。人気の秘密の一つは、答えの難しい問いを発し、学生と対話しながら講義を進めること。例えば、過去の世代が行ったことに我々は責任があるのかどうか、など。
建国の歴史から、米国民が「正義だ」と考える基本は、ベンサム流の功利主義とカントの人格主義、そして20世紀の米国を代表するリベラル派政治哲学者ジョン・ロールズの個人の自由な選択だが、著者は道徳的な目標を重視するアリストテレスの立場に近いと言う。そして、ロールズの『正義論』を1980年代に批判し、コミュニティーと伝統から生まれた道徳的要求を捨象して正義を論じることはできないとしたことから、「コミュタリアン(共同体主義者)」と呼ばれている。
自由主義が幅を利かせているように思える米国で、著者の思想が受け入れられていることが興味深い。市場の道徳的な限界が明らかになったことも大きいだろう。これ以上社会格差が広がると、国としての連帯の維持が困難になるかもしれないからだ。オバマ大統領はケネディ大統領とは違った形で精神的なメッセージを投げかけ、国民の連帯感を取り戻そうとしている。
日本では検察の不祥事で「正義」が揺らいでいるが、日常生活において、私たちも自分なりの正義に基づいて判断を行っている。市民として正義の判断が求められるのが裁判員制度だ。もっとも、何が正義かは、その人の歴史と属しているコミュニティーによって異なるため、対話能力が必要となる。著者が対話を重視するゆえんだ。
ロールズに至るまでの思想家は、政治から道徳を切り離す中立性の立場を重視したが、実際の人間の判断が何らかの道徳的信念に基づいて行われている以上、それは幻想にすぎない。むしろ、公の場で理性的な議論を積み重ねて、道徳と政治を結んでいく手法こそ、これから重要になるであろう。鬼澤忍訳
超訳・ニーチェの言葉
編訳/白取春彦 ディスカヴァー・トゥエンティワン 1円
『超訳・ニーチェの言葉』が、哲学・思想書としては異例とも言えるベストセラーとなっている。スポーツ選手や芸能人などの「おススメ」もあり、TVでも取り上げられた。とはいうものの、賛否が両論なのも確かだ。「わかりやすく心にしみる人生の指南書」という評価もあれば、「美辞麗句できれいに整えられ、ニーチェ思想の毒のある本質が抜き去られている」といった批判など。
そのどちらも的外れではない、と言いたい。元々ニーチェは韻文的叙事詩のような『ツァラトウストラかく語りき』や、アフォリズム(断章)形式のものが多く、体系的哲学ではないため「本質」云々しにくい。「神の死」と「ニヒリズム」と肩肘張らずにニーチェの「生の肯定」論を味わおうという趣旨だ。生肯定論はある意味で必要であるが、「駱駝→獅子→小児」という自由へと導く精神の三様態にも触れて欲しいところだ。
「あなた」の哲学
著/村瀬 学 講談社現代新書 777円
欠けがえなき至高の体験。
村瀬氏の『「あなた」の哲学』の「あなた」とは何か。近代西欧哲学は「コギト(考える我)」の哲学であった。端的に言えばその根底にあるものは「エゴ(自己)」である。自分の見たり問いたり触ったりという「知覚」を保障するものは、「私」にしかない(そして神も)ということだ。だが、そうした知覚は利己主義を正当化するものでしかない。そこで「コギトの超克」が叫ばれ、「他者」の自覚、「問(相互)主観性」に言及されるようになった。そうした哲学史的課題を踏まえ、著者は「他者」の代わりに「あなた」という概念を駆使し「コギト超克」を試みる。
著者の思考の根底にあるものは、宗教哲学者M・ブーバーの『我と汝』の考えである。著者は日本語での「あなた」に拘る。なぜ「きみ」や「おまえ」、「なんじ」ではダメか。それは「あなた」には尊敬の念と崇高さを伴っているからだとしている。
村瀬氏の説く「あなたの哲学」の最も重要な批判の対象は、「シングルライフ」「おひとり様」の人生である。
先著『カップリングの思想』で、「シングル思想」への決然たる「否」を説き、人間は単独では生きられないことを克明に展開した。本書はそうした著者の思想のさらなる深化が見られる。すなわち、「いのち=三世代を通じて現われるもの」に言及しているからだ。「こんにちは赤ちゃん」など、国民的ヒット曲に「あなた」が多く用いられる例を挙げ、畏敬や崇高の念が込められているという。そして子育てや、老いた祖父母(や障全署の子)などの介護をする中で、欠けがえのない至高の瞬間を体験する。「おひとり様」思想では絶対に体験できないのだ。
村瀬氏の論稿は、決してとっつきやすい「人生哲学」を語っているのではない。しかし、巷間の「人生指南書」には、例えば「人はなぜ、自殺してはならないのか」とい、命題に対しては、十全に納得できる説明など与えられない。そうした命題に解答を与えるのは、「哲学の領野の埒外」だと見る向きもあろう。
ハイデガーの『存在と時間』では人間の死は「現存在でなくなること」を意味したが、そこでは、「死の問題」を扱っていながら、「自殺」に関する考察はなされていない。100歳以上が2千人起という高齢化社会の日本では、「看取り」の倫理が問われる事件が相次いだ。だが看取りこそ、生命の連続性と崇高さを実感できる瞬間ではないか。人間は三世代を通じ過去と未来に繋がるという所以である。
「あなた」と呼べば返る関係は、キリスト教的には「隣人」にほかならない。この隣人よりも「遠人」を愛せと言ったのが、実はニーチェだ。人類愛のようで抽象的概念を弄する点は、共産主義に通じており、それは紛れもなく「おひとり様」の理念なのである。
