共産主義は間違っている!
国際共産主義勢力、文化共産主義勢力の攻勢に勝利しよう!

勝共運動による救国救世

安倍晋三首相は、来日した印のモディ首相を京都迎賓館で「おもてなし」。海洋進出する中国の脅威を念頭に、印との関係強化をアピールした。…続きを読む

衰退否めぬ米国に、経済力の拡大で超軍拡を続ける中国。太平洋の平和が脅かされている中、重要度を増しているのが、日豪の連携。…続きを読む

「当時、下水溝の装置として理想的なものとして台北のごときものは少ない。これは後藤民政長官の発案による」と、…続きを読む

「私は幾多の重要な研究を共にしたが、彼の明晰な頭脳と不撓不屈の忍耐に対し益々信頼の念を深くした」 …続きを読む

単一通貨ユーロの発進によって、欧州は統合へ大きな一歩を踏み出した。…続きを読む

沖縄本島中部、東シナ海に面した浦添市に沖縄国際センターがある。…続きを読む

江戸時代、日本におけるヨーロッパ科学の学統は、南蛮医学→蘭方(オランダ)医学と続く医家が主流であった。…続きを読む

仏教について知識のある人なら、「ダイセツ」の名を知らぬ者はないほど、世界で最も著名な仏教学者の一人。…続きを読む

人類の生み出した最も卓越した画家の一人―美術史家ルイ・ゴンスは、1883年に浮世絵師・葛飾北斎を絶賛(『日本美術』)した。…続きを読む

「原子爆弾という強力な兵器を誇示して、日本人に戦争を止めさせようとするなら、…続きを読む

アジアとヨーロッパの接点、トルコのイスタンブール。その観光名所トプカプ宮殿には、日本の鎧兜と陣太刀が陳列されている。…続きを読む

西洋列強が競ってアジアを浸食していた19世紀末、各国は国策で中央アジアへ探検隊を送り、略奪まがいの発掘を行った。…続きを読む

「二つのJ」―Japan(日本=東洋)、とJesus(イエス=西欧)の一致。ここに宗教家であり教育者であった内村鑑三の精神が凝縮されている。…続きを読む

「これで駄目なら帰ります―」。1971年、韓国名誉勲章授賞式の日、大統領府の衛視に下駄履きをとがめられた望月カズは毅然と語り、…続きを読む

「私の最も尊敬する日本人、それはヨウザン・ウエスギだ」。故ケネディ米国大統領の有名な一言で、…続きを読む

『しらせ』―日本の南極観測船。日本人初の南極探検者にちなみ名付けられた。…続きを読む

アメリカの歴代大統領が、歴史的決断を下す時、必ずひざまずき祈ってきた「ワシントン・キャセドラル」の大伽藍。…続きを読む

「ヒロシゲ」「ゴヤ」……。ヨーロッパには、画家の名を冠した色名がある。…続きを読む

1997年春、富山県にある歴史館『蔵回廊』で、、飯塚権次郎生誕百年記念展が行われた。…続きを読む

外国人が描いた世界地図上に、唯一日本人の名のついた地名--間宮海峡。…続きを読む

「日本晁卿帝都ヲ辞シ/征帆一片逢壺ヲ遶ル/明日帰ラズ碧海ニ沈ミ/白雲愁色蒼梧ニ満ツ」…続きを読む

建国200祭に沸いた1978年の米国。この時、ワシントンのスミソニアン博物館で、『海外からの訪問者展』が催された。…続きを読む

長崎市の中心部から歩くとほどなく港を一望できる小高い丘、西坂公園にたどり着く。…続きを読む

日本による韓国統治の象徴であった総督府庁舎は、建てられてから70年目の昨年、韓国政府によって取り毀された。…続きを読む

スペイン南部セビリア県コリア・デル・リオ市の中心部に、仙台藩主・伊達政宗の命を受け、…続きを読む

雇い外国人といえば、明治初期の日本が札幌農学校のクラークをはじめ300人を超える多数の外国人を雇って、近代化を始めたことを思い浮かべる。…続きを読む

日本の世界史への登場、それは1904(明治37)年、当時世界最強と謳われた、ロシアのバルチック艦隊を撃破した時だろう。…続きを読む

“栄光の死”を悼む、春雨の京城に2000の人―昭和37年、『朝日新聞』にこんな記事が載った。…続きを読む

改革開放の先進地として、活気に沸く中国南部最大の都市広州。ここに孫文を記念する『中山紀念堂』が建っている。…続きを読む

「うたひめは 強き愛国心をもたざれば 真の芸術家となりえまじ―環」…続きを読む

「浅川サン、シンダンジ、アイゴー」。その死に際し、大声をあげて嘆き悲しむ韓国の人々の姿には、無類のものがあった。…続きを読む

O157、エイズ……21世紀を迎えた現在、感染症が猛威を振るっている。人類のために未知の病と闘い、身を捧げ、…続きを読む

夏草繁る、岩手県盛岡市の岩手公園。中央に「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」と刻まれた石碑がひっそりとたたずんでいる。…続きを読む

世界史上の大航海時代と呼ばれる16世紀、1543年にポルトガル人が日本に鉄砲を伝え、1549年にはフランシスコ・ザビエルがキリスト教(キリシタン)の布教を開始した。…続きを読む

「近くて遠い国」といわれる、韓国・北朝鮮。それは、意外にも明治になってからで、李氏朝鮮王国とは長く友好関係にあった。…続きを読む

台湾の首都、台北より南へ355キロメートル(km)。台湾第四の都市、台南がある。…続きを読む

桜前線が北上するころ、海の向こうのワシントンDCのポトマック湖畔、ニューヨークのハドソン・リバーパークからも桜の便りが届く。…続きを読む

イスラエルの首都・エルサレム市街を見おろすヘルツェルの丘にある庭園に、…続きを読む

file No.222 宮崎 松記(みやざき まつき)

インド救ライの父
宮崎 松記

熊本県出身1900~1972年

安倍晋三首相は、来日した印のモディ首相をおもてなし。海洋進出する中国の脅威を念頭に、印との関係強化をアピールした。
 印は、大東亜戦争中に印の独立闘争を支援した藤原岩市少佐の活躍などにより、大の親日国。それをさらに強固にしたのが、「印(インド)救ライの父」と呼ばれた医者・宮崎松記だ。
 「日本のシュバイツァー」とも呼ばれることになる松記は、1900(明治33)年に、熊本県八代市の網元の三男として誕生。中学3年の時、人生の転機が。「我に1千金をあらしめば」との課題に「研究所を作りたい」との壮大な夢を綴った作文が、開業医の宮崎好徳(みやざき こうとく)の目に止まり、懇願されて養子に迎えられる。
 熊本の旧制五高に進むと第2の転機が。クリスチャンとなり、寮の傍にあった回春病院を訪れた時だった。ライ(ハンセン)病患者を献身的に看る英国女性ハンナ・リデル女史の姿に強く心を動かされた。
 ライ医師になることを決め、医家の後継を願う養父母に苦悩の末、打ち明けた。すると、篤信者の養父母は反対するどころか「神の恵み」と諸手を上げ賛成。親戚からも祝福され京大医学部へ進む。
 リデル女史は、五高の英語教師に赴任した折、道端で憐れみを乞うライ患者に遭い、救ライを決意。私財を投じ、1895(明治28)年に病院を建てた。
 ハンセン病は、ノルウェーのハンセン氏が発見したライ菌による感染病。末梢神経麻痺による外傷で手足を失ったり、顔の変形などが生じる。遺伝せず、感染力も弱く、特効薬で治療も容易な病気。しかし大昔から「業病」との偏見と差別が、患者を二重に苦しめる社会病でもある。
 京大での松記は「哲学のない医者は、人間という機械の修繕工に過ぎぬ」と、努めて他学部の学生と交流し、人格を形成。卒業後、全国の療養所に空きがなく、大阪赤十字病院へ。
 1932(昭和7)年、リデル女史が78歳で亡くなり、松記も葬儀に駆けつけ、院長はリデルの姪のライト女史に。2年後、34歳の松記は九州療養所、後の恵楓園(けいふうえん)の所長となる。
 戦争が近づくとライト女史は敵国人とされ、国外退去に。回春病院の入院患者は、松記が迎え入れた。戦中は、多くの患者を抱え食料欠乏と闘い、戦後は日本で最もライが多い熊本に「国立ライ研究所を」と考え、施設を拡充。だが中央の反対で成就せず、混乱の責任を取り松記は辞任。

写真:松記を讃えたアグラの「ミヤザキロード」の看板

「今後は国際的活動を」との周囲の声に、松記は印の救ライを志す。かつてリデル女史が、印を希望しながら日本赴任となり、日本の救ライに繋がった事への恩返しからだった。
 1959(昭和34)年、60歳の松記は単身、印を視察。当時、印のライ患者は、推定250万人(日本は1万人)。帰国後、「アジア救ライ協会(JALMA)」を興し、募金活動を開始。再び印へ飛んだ松記は、ネール首相と世界遺産・タージマハルのあるアグラへの病院研究所設立協定を結ぶ。日本の9倍と広い印中を診療車で廻り、巡回診療を始めた。
 1965(昭和40)年、印永住を決め、妻子を呼び救ライに邁進。寝食を忘れ働く松記は、多くの印人から慕われた。1972(昭和47)年、会議のため一時帰国後、戻る飛行機が印上空で墜落し、乗員乗客84人が死亡。その中に72歳の松記の名も・・・。
 その悲報に印中が悲嘆。遺灰は、生前の言葉に従い、印の川に散骨。「JALMAライ研究所」は今日、世界十指に入る医学研究所へと発展し、松記の願いが見事に叶ったのだった。

 参考:『ぼだい樹の木陰で』(宮崎松記著、講談社)、『日本人の足跡3』(産経新聞取材班著、産経新聞ニュースサービス)ほか

file No.221 松尾 敬宇(まつお けいう)

敵国同士の日豪結んだ勇者
松尾 敬宇

熊本県出身1917~1942年

衰退否めぬ米国に、経済力の拡大で超軍拡を続ける中国。太平洋の平和が脅かされている中、重要度を増しているのが、日豪の連携。両国の絆の原点が、敵国として戦っていた72年前の秘話にあったことを知る人は少ない。
 日米開戦から半年後の1942(昭和17)年5月。日本から遼遠いシドニー湾に突入した特殊潜航艇3隻が攻撃。豪軍艦1隻を撃沈するが発見された特潜3艇は、豪海軍によりシドニー湾へ沈められ、乗員6人が戦死した。
 一方、19人の犠牲者を出した豪軍は、特潜2艇を引き揚げ、中の日本兵4名を豪海軍の最高栄誉葬で弔った。市民からの反対の声が上がった時、グルード司令官は、次のように説得。
 「勇敢な軍人に儀礼を尽くすのがなぜいかん・・・鉄の棺桶(潜航艇)で死地に赴くには最高度の勇気がいる。この犠牲的精神の千分の1で持って、祖国に捧げる豪人は何人いるか」
 日本軍人の武士道精神が、豪軍人の騎士道精神に共鳴。葬儀の様子は、豪全土にラジオ中継された。
この時、日の丸で棺を蔽われ、儀仗隊による弔銃で送られた1人が、24歳で逝った松尾敬宇大尉。17(大正6)年、熊本県山鹿で、小学校校長の次男として誕生。利発ながら柔道も得意でガキ大将だった少年は、海軍兵学校へ。
 卒業後、特殊潜航艇搭乗員となり、開戦前にハワイの真珠湾偵察を敢行。真珠湾攻撃の際には、特別攻撃隊を志願したが、指揮官付きとされ、無念の涙を呑む。
 そのため半年後、米豪分断作戦としてシドニー湾攻撃を命じられると、喜び勇んで出陣。3隻の潜水艦に抱かれた特潜は、密かにシドニー湾口へ。発進した特潜の1隻は、防潜網に捉えられ、艇の機密が知られぬよう自爆。もう1隻は、軍艦を魚雷で撃沈後、発見され沈められた。
松尾艇も攻撃されながら、豪軍艦に肉迫するも、魚雷発射口を損傷して発射できず、体当たりを狙ったが、浸水して海底に沈む。万事休すとなり、同乗した都竹正雄二等兵曹と共に、拳銃にて自決した。

写真:故郷の菊池公園に建つ敬宇の胸像(熊本県菊池市)

敬宇らの艇は、首都キャンベラ近郊に、戦死者10万2千人の名を刻む、日本の靖国神社にあたる戦争記念館正面に安置。館内には敬宇の腹に巻かれていた血染めの千人針も展示された。
 65(昭和40)年、豪戦争記念館長が来日し、松尾家を訪れ、敬宇の墓に詣でた。その返礼に、敬宇の母まつ枝を豪に送る運動が起き、68(昭和43)年、訪豪が実現。
 日本の新聞は載せなかったが、現地紙は1面トップで「勇者の母来る」と大きく報道。連日彼女の動向を伝え、佐藤栄作総理訪問時以上の歓迎だった。
 海上で慰霊する際、彼女は大声で「伴さーん、芦辺さーん」と、我が子以外の名を叫び続けた。未だ揚がらぬ敬宇の戦友らだ。次に託されてきた色紙を海に投じた。それには生還果たせぬ出撃を前に、敬宇が婚約解消した許嫁から彼宛の歌が記されていた。
 戦争記念館では、館長から渡された血染めの千人針に涙がポタポタ落ちた。崩れ落ちる83歳の老母を思わず抱きしめた館長。彼の口から嗚咽が漏れた。
 会見したゴードン首相は「豪国民に真の勇気とは、真の愛国心とは何であるかを示して下さった」と感謝。新聞は「世界の戦死者の母の象徴」と讃えた。
 豪の新聞は毎年5月、シドニー攻撃の特集を掲載。それは米国の「忘れるな真珠(パールハーバー)」との復讐的意味ではない。「勇敢な海の侍」を讃える、極めて日本に好意的な扱いで…。

 参考:『大東亜戦争を見直そう』(名越二荒之助著、明成社)、『海軍特別攻撃隊』(豊田穣著、集英社文庫)ほか

file No.036 後藤 新平(ごとう しんぺい)

台湾発展の基礎を敷く
後藤 新平

岩手県出身 1857~1929年

「当時、下水溝の装置として理想的なものとして台北のごときものは少ない。これは後藤民政長官の発案による」と、台湾でのインフラの先進性を現地の人自らが誇りにしている(謝森展・著『台湾回想』)。
 後藤新平は幕末の安政4年、水沢藩士の子として岩手県水沢市に誕生。9歳で小姓として城主に仕えるが、翌年、戊辰戦争で幕府側について敗北。被占領下の屈辱的体験が、後に新平の植民地政策で生かされることになる。
 福島県立須賀川医学校を出て医師になり、24歳で名古屋病院長に。実績が評価されて衛生局官僚に抜擢され、32歳にはドイツへ留学。衛生統計調査を習得し、北里柴三郎と共にコッホの許(もと)で細菌学を学び、帰国後、衛生局長に就任。
 明治28年、日本は日清戦争で清国から割譲された台湾の統治に手を焼いた。反乱などでうまく行かず、2年間に3人の総督が替わり、台湾放棄論や売却論まで出る始末。最後の切り札として児玉源太郎を総督に任命。児玉は言った。
「台湾をやれるのは、私と君だけだ」
 この一言で40歳の新平の心は決まった。民政局長になった新平は、「内地の法律で縛りつけるのはダメだ。台湾の習慣を尊重せよ」と主張。官僚の抵抗をよそに彼らが作った法律の8割を廃止し、大胆な行革を断行した。
「世の悪は、藩閥、学閥、派閥だ。人物や実力を見ず出身や学歴、親分子分の関係で人を見るようではいかん」
 新平は意見を持たない役人を嫌い、身分や肩書きの上下を問わず各分野の専門家の意見を聞いた。役人に厳しく、民衆には優しく接し、かつて被占領民だった新平は、反乱者たちの気持ちが分かった。ゲリラの一団の「投降式」を行い、周囲の反対を無視して単身参加し、大々的に報道。以後、ゲリラの投降が相次ぐ。
 清国は台湾を支配していた200年間、産業投資をほとんど行わなかった。そこで新平は「台湾を近代化すれば利益を生む。公債を発行してその資金で、鉄道、港湾、水道等を整備し輸出入を活発にすれば利払いや元金償還は困難でない」と主張し、政府首脳と激論の末、この大事業を遂行させた。国際的商業港を完成させ、台湾に莫大な利益をもたらす。
 さらに並行して縦貫鉄道を完成させ、台北市内には幅約40m、片側6車線という、東京にもない道路を敷く。総督府官邸、博物館などの近代建築を建て、それらは今も使われている。そして「伝染病の予防は上下水道の設置から始まる」と、東京よりもずっと早く上下水道を完備。産業振興でも砂糖を台湾の中心産業にし、日本からの補助金を受けず財政的に独立させ、今日の台湾発展の基礎を築いたのだった。

後藤新平の手による上下水道や道路、建築物は台湾発展の基礎となり、現在も使われている(工事中の台北の道路)

日露戦争後、満鉄総裁に就任。優秀な人材が集めて育成し、後の日本の指導者が育つ。2年後満鉄の所管を条件に逓信大臣を拝命。南米行路を新設し、電話交換の機械化(大正13年に実現)や鉄道の広軌化(50年後新幹線で実現)などを主張するが、官僚などの抵抗で実現しなかった。その後内務大臣や東京市長を歴任。関東大震災には災害に強い都市計画を立てるがこれも各方面の反対で頓挫。かろうじて昭和通り、日比谷通り、晴海通り、隅田公園などが実現したのみ。
 新平は右は北一輝、左は大杉栄まで多くの人士に援助。多額の借金を残して71歳で死去。その結果、麻布の邸宅は人手に渡り、現在、新平が心血を注いだ中国の大使館が建っている。

file No.035 北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう)

人類を救った研究の鬼
北里 柴三郎

熊本県出身 1853~1931年

「私は幾多の重要な研究を共にしたが、彼の明晰な頭脳と不撓不屈の忍耐に対し益々信頼の念を深くした」
 明治41年、日本を訪れた北里柴三郎の師コッホは、彼を絶賛した。柴三郎が不眠不休の研究の末に発見した破傷風の血清免疫療法は、近代医学に革命をもたらし、人類を救ったのだった。
 柴三郎は幕末の嘉永5年(1853年)、肥後国(熊本県)北里村の庄屋に生まれた。武士を夢見ていた柴三郎は、維新後、大阪に開校された陸軍兵学寮に行こうとする。が、両親に反対され、熊本医学所病院へ入れられる。「医者と坊主は男子一生の仕事に非ず」と、軍人になる夢を捨てない柴三郎にオランダ人教授マンスフェルトは「志を曲げるわけにゆかぬが、今日一日を無駄に過ごすべきでない。まずこれを見たまえ」と、顕微鏡を示した。それをのぞき、息を呑んでいる柴三郎に教授は語りかけた。
「その目に見えない細菌が食べ物を腐らせ、人間を病気にさせる。欧州ではペストで何千万もの人々が死んだ。それも細菌の伝染だった…」
 18歳の柴三郎の魂は激しく揺さぶられ、思わず「先生、私を指導して下さい!」と師の手を握り、彼の一生が決まった。その日から寝食を惜しんで勉強に専念。マンスフェルトが帰国すると、書生奉公で金を蓄え21歳で上京。働く傍ら受験勉強し、東京医学校(後の東大医学部)に合格。仕事を続けながら勉学に励み31歳で卒業。伝染病撲滅のため、薄給の内務省衛生局に就職した。

和服姿のコッホ夫妻

3年後、念願のドイツ留学へ。下宿と研究所を往復するだけで研究に専念。コレラ菌を発見したコッホの課すテーマに、研究の鬼となって取り組む。それまで誰も成し得なかった破傷風菌の純粋培養に成功し、北里の名は一躍世界中に広まった。さらに治療法の研究に没頭、ついに免疫血清療法の基礎を確立。続いてベーリングとジフテリアを共同研究し、連名で論文を発表する。10年後ベーリングはこれによりノーベル賞を受賞。もし柴三郎がドイツに留まっていれば、その栄誉に与ることができたはずであった。
 明治24年、留学期間を終えた柴三郎は、米国で好条件の招請を受けるが、これを断って帰国。伝染病の予防と治療を行う研究所をつくる意向に、衛生局長の後藤新平が賛同し、福沢諭吉は私費を投じて芝公園に研究所を建ててくれた。

以後、柴三郎は研究、ワクチン製造、診療、伝染病の予防防疫に、国内外で活躍し、後進を育てた。愛の鞭を振るう柴三郎は“カミナリ親父”と呼ばれたが、門下からは北島多一(ハブ毒の血清療法)、志賀潔(赤痢菌の発見)、そして野口英世など、幾多の人物を輩出。大正3年に時の首相・大隈重信と対立して研究所を辞めると、彼を父のように慕う全職員もこれに追従。柴三郎は自力で港区白金に北里研究所を設立した。
 日本医師会の初代会長に選ばれ、健康保険法の制定などに尽くした柴三郎は、昭和6(1931)年、80歳で永眠。北里研究所創立50周年の昭和37年、柴三郎の「開拓、報恩、英知、実践、不撓不屈」の精神を建学理念に、北里大学が設立された。

柴三郎が私財を投じて建てた北里研究所は、後に北里大学や附属病院などが設立されて今日に至っている(東京・港区白金)
file No.034 青山 光子(あおやま みつこ)

「欧州統合案の母」
青山 光子

東京都出身 1874~1941年

単一通貨ユーロの発進によって、欧州は統合へ大きな一歩を踏み出した。それは80年前に提唱された「パン(汎)・ヨーロッパ」構想の実現を意味する。この「欧州合衆国案」を唱えたリヒャルト・クーデンホーフの母こそ、初めて西洋の貴族と結婚した日本人女性・青山光子であった。
 青山光子は、明治維新により江戸が東京と改称されて間もない明治7(1874)年、東京・牛込の商家に生まれた。光子18歳の冬、彼女の眼前で乗馬中の外国人が氷に脚を取られ馬ごと転倒。彼女は即座に救助し、手厚く看護した。この「異人」は、オーストリア=ハンガリー帝国外交官ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵だった。
 クーデンホーフ=カレルギー家は、ヨーロッパ屈指の名門貴族。二人の間にロマンスが芽生え、民族と身分を越え、周囲の反対を押して結婚。今から100年以上前、それは前代未聞のことで、新聞等で世界中に伝わった。光子は日本の国際化の黎明期、世界の桧舞台で、存在をかけて異文化と渡り合うことになった。長男ハンス、次男リヒャルトに恵まれた後、オーストリア本国から夫への帰国命令が。日本を離れるに際し、皇后陛下の招待を受け、お言葉を賜った。
「そなたは日本人の代表だからいかなる場合でも、大和撫子の本分を忘れぬように」
 光子は「どんなことがあっても、陛下のこのご命令に従おうと固く決心した」と語っている。事実、死の瞬間まで忘れることはなかった。

ウィーン郊外、女帝マリア・テレジアの別荘があったシェーンブルン庭園。丘に見えるのは、皇帝軍を讃えたグロリエッテ。右後方に、「社交界の花」と讃えられたクーデンホーフ・ミツコの墓がある

オーストリアに渡って14年。しきたり厳しい生活に耐え、伯爵夫人としての地位を固めた光子に不幸が襲う。夫の急逝だ。32歳で未亡人になった光子は、クーデンホーフ家を守り、7人の子供たちを女手一人で育て上げた。
 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、三男ゲロルフは兵士に志願。光子はこの時、日本の敵国だったオーストリア軍の司令部におもむき「息子を前線に行けるようにしてくれ」と頼んだ。
「これこそ日本人だ! 他の母親は息子を前線に行かせないでくれと頼むのだが…」と司令官に感激された。
 オーストリアは戦争に敗れ、クーデンホーフ家の資産は没収、一家は追放された。その惨禍の中で次男リヒャルトは、世界平和を願い「パン・ヨーロッパ」を提唱し、自ら運動を展開。チャーチルなどの大政治家や著名な文学者、思想家、哲学者、宗教家などがこぞって賛同し、日本の鳩山一郎も、リヒャルトの本を翻訳出版している。リヒャルトは、昭和42年に日本で鹿島平和賞を受賞。ノーベル賞最有力候補にも挙がったが、共産党嫌いが災いしてか、受賞を逸している。
 リヒャルトが有名になり、光子は「欧州合衆国案の母」「EEC(現EU)の祖母」と呼ばれた。晩年の光子は、次女オルガとともにウィーン郊外で慈善運動などをしながら余生を送ったが、一度も帰国することなく、真珠湾攻撃の直前の昭和16年、脳卒中で死去。ウィーン郊外のかつてマリア・テレジア女帝の夏の別荘シェーンブルン離宮の近くにある、ヒーツィング墓地に設けられたクーデンホーフ家の墓で静かに眠っている。

file No.033 稲嶺 一郎(いなみね いちろう)

南海の“ミスターASEAN”
稲嶺 一郎

沖縄県出身 1905~89年

沖縄本島中部、東シナ海に面した浦添市に沖縄国際センターがある。1985年の設立以来、122カ国から3000人以上の人々が技術研修に訪れ、日本を好きになって帰国。本土にも同様の施設が12カ所あるが、研修員がカルチャーショックを受けたり、中には日本に批判的になる者が出るといわれる状態に比べ、格段の成果を上げている。その原点は、東南アジアの人々から、「ミスター・アセアン」と呼ばれた沖縄人・稲嶺一郎の溢れる熱情にあった。

明治38(1905)年、稲嶺一郎は沖縄本島北部のサンゴ礁の海と山に囲まれた貧しい村の農家に生まれた。父は稲嶺が4歳の時、南米ペルーに移民。母も12歳の時に父に呼ばれペルーへ。わが子にはしっかりした教育を受けさせたいという父の願いで、稲嶺は父の長兄に引き取られ、そこで育てられ、学校へ通う。
「稲嶺家は三司官(琉球王府の総理大臣級の役職)だった。先祖に負けないよう偉くなれ」
 伯父の励ましで熱心に勉強した稲嶺は、東京の早稲田高等学院、早稲田大学へ進学。この頃、父が病死。稲嶺少年を不憫に思った親戚は、借金をしてまでして学費を工面。暖かい支援に涙しながら、夜警をし、奨学金を受けながら苦学。世界恐慌下の昭和4年、最高倍率の満鉄(満州鉄道)に合格する。
「いくら寒くても水は凍らねば0度以上のはず!」
 南国人の稲嶺は、零下18度の冬、冷水浴で体を鍛え、仕事に邁進。さらに満鉄青年同志会を結成し、アジアの平和等について研究。幹部候補生として2年間の欧米視察旅行に浴し、その後もアジア・中東視察の特命を受け、国際感覚は磨かれていった。
 帰国後与えられた任務は、タイへの満鉄事務所の開設だった。時は第二次大戦の最中。タイ、ビルマ、インドネシア等で7年間暮らし、各国の独立運動家たちと親交を深める。彼らは戦後、各国の指導者となった。
 インドネシアで終戦を迎え、侵攻してきたオランダ等の連合軍に遭遇。350年間オランダの植民地だったインドネシアの独立を助けるため、日本軍の武器、弾薬、食糧等を秘かに提供し、助言を与え、独立戦争を支援。だが、これが発覚し、刑務所に1年余り投獄される。獄中では気力を失ったインドネシア人に聖書の黙示録を聞かせ、勇気づけた。このようにして友情による人脈が築かれ、稲嶺はミスター・アセアンと呼ばれるようになる。
 昭和25年、沖縄に帰った稲嶺は、郷土の復興と国際親交に汗を流す。石油会社を設立し、収益を産業振興、奨学金制度、国際親善などに投入。さらに参議院議員としてアセアン諸国を巡った稲嶺は、沖縄をアジアの玄関にと、国境を越え、心と心の絆を深める、国際交流の拠点作りに専心する。国際センターの設立に漕ぎ着け、稲嶺の心が世界の若者に引き継がれ、長男・恵一は、沖縄県知事として沖縄の顔となった。
 平成元年、世界を舞台に活躍した稲嶺は、昭和の終焉と共に逝く。享年84歳。

沖縄戦最大の激戦地となった沖縄本島南端にある摩文仁の丘から、遠く東南アジアへ続く東シナ海を望む
file No.032 桂川 甫周(かつらがわ ほしゅう)

西洋に名を馳せた初の邦人科学者
桂川 甫周

江戸・東京出身 1751~1809年

江戸時代、日本におけるヨーロッパ科学の学統は、南蛮医学→蘭方(オランダ)医学と続く医家が主流であった。中でも代々、徳川将軍の侍医(蘭医学)を務めたのが桂川氏である。初代は森島邦教と言い、長崎・平戸の嵐山甫安に師事した。業成って後、京都の「嵐山から流れ出る桂川」にちなんで森島を改め、桂川甫筑を名乗ったという。

鎖国時代の日本はオランダを通じヨーロッパとつながっていた。長崎・出島に駐在するオランダ商館長は、定期的に義務として江戸参府をしていたが、一行には必ず医師が随行した。その度に、江戸の蘭方医はオランダ人医師と接触、情報を交換したり、教えを受けたりしていた。

光太夫の証言からロシア風俗を甫周が書き留めた『漂民御覧之記』と『北嵯聞略』

桂川家四代の甫周国瑞(くにあきら、又はくによし)は宝暦元(1751)年、三代国訓の長男として生まれた。
 1776年、長崎に赴任していたオランダ商館医ツンベルグ(実はスウェーデン人)が定例の江戸参府を行ったとき、甫周は同僚と共に面会した。これはツンベルグの旅行記『日本紀行』に記録されている。桂川氏は代々優秀な医師を輩出していたが、ツンベルグは特に甫周の優秀さを見込んで、できる限り熱心に指導した。
 家訓として肖像画を残さなかったという甫周。その人格・学問的能力の一端は、杉田原白の『蘭学事始』にうかがえる。『解体新書』の翻訳に参加し、同書には「官医 東都 桂川甫周世民閲」と明記されている。ヨーロッパ関連の出版は、学術書といえどもキリスト教との関係が問題とされる時代であったが、将軍家侍医の桂川氏の名があったことは、出版公認の強力な後ろ盾となった。
 さらに、甫周の後裔も活躍。明治期には西欧の化学書を訳述、教科書として使われた。桂川氏は、いわば“日本近代科学の父”であった。
 甫周を指導したツンベルグは帰国の後、『日本植物誌』『日本植物図譜』という名著を刊行、ヨーロッパにおける日本学の大家、そして当代第一級の世界的科学者となった。
 寛政四(1792)年、ロシアはアダム・ラックスマンを正使として漂流民・大黒屋光太夫を送還すると共に、通商を求めた。同時に、桂川甫周に宛てたアダムの父キリル・ラックスマンの書簡も手渡した。キリルはツンベルグの弟子で、ヨーロッパでも高名な植物学者であった。

 思いもかけず、甫周の名は、ツンベルグの諸著作を通し、「日本を代表する科学者」としてヨーロッパ中に知られていたのだ。キリルは、同じ科学者として、手紙を書いたのである。つまり甫周は、オランダ人を仲介として、ヨーロッパ学術の世界に連なっていたことになる。
 今でこそ日本では忘れ去られているが、桂川甫周こそは、まさに史上初めてヨーロッパに知られた日本人科学者であった。

桂川氏歴代の墓と顕彰碑は神奈川県伊勢原市の上行寺(東京・芝より移転)にある
file No.031 鈴木 大拙(すずき だいせつ)

世界人を体現した「現代の三蔵法師」
鈴木 大拙

石川・金沢市出身 1870~1966年

仏教について知識のある人なら、「ダイセツ」の名を知らぬ者はないほど、世界で最も著名な仏教学者の一人。だが、鈴木大拙(貞太郎)という人間の真髄は、学者としてよりも、それを超え、禅に依って「世界人」として生きたスケールの大きな人格にある。
 1959年、晩年の大拙は、ユニークな神学を説き鮮烈な生涯を駆け抜けた、ユダヤ系フランス人の女流思想家シモーヌ・ヴェイユの著書を繙き、数十年も前に書いた自著が引用されていることに驚く。工場での劣悪な労働環境の中でヴェイユが直観した「労働者にとって必要なのはパンよりも詩情である」という断片に、自らの説く「妙」の世界があることを発見した。大拙にとって、この「日常に詩を見ること」こそ宗教にほかならず、そこには洋の東西もありえなかった。

現在は石川近代文学館となっている旧制四高跡(金沢市内、中央は四高青年像)。大拙や西田幾多郎らがここで学んだ

加賀藩家老の本多家に仕える侍医の家系に5人兄弟の末子として生まれた貞太郎は、小学1年にして父を亡くし、翌年には兄を失い、生活に困窮し学校を辞した。しかし、仏教の信仰篤い母に励まされ、独学で旧制第四高等中学校に入学。英語と文章力に非凡な才能を示した。その母も、貞太郎20歳にして急逝、四高も中退せざるを得ず、小学校の英語教師などを務めた。不幸のどん底で、貞太郎の心の支えとなったのが、四高時代の恩師、北条時敬が熱っぽく語った鎌倉円覚寺での参禅修行だった。母の死後、東京に遊学しながら円覚寺に赴き、北条が教えを受けた今北洪川老師、続いて同寺を引き継いだ釈宗演について修行の日々を送った。この間、東京帝大文科大学哲学科選科を修了し、「大拙」という号が師の宗演から与えられている。
 語学に長けた大拙が世界へと飛翔するのは1893年、宗演がシカゴでの万国宗教会議に出席した際、師の講演する原稿の英訳を任されて以来のこと。師の薦めで1897年に渡米。イリノイ州オープン・コート社に入り、道教など東洋学関係の出版に携わり、一躍学界にその名が知れ渡ることになる。1909年帰国し、東大、学習院大などで教鞭を執り、21年からは大谷大教授を務めた。その間米国人女性ビアトリスと結婚。39年夫人の没後鎌倉に移り、松ヶ岡文庫を建て、96年の生涯を閉じるまで、大拙は終生「現役」として精力的な執筆・講演活動を行った。
 大拙の残した業績は、欧米に禅仏教思想をわかりやすく広めたということにとどまらない。彼は、神秘思想家スウェーデンボルグの邦訳を手掛けた草分けでもあり、東西の宗教の違いを越えて、霊的世界への関心を示した。「日本人と霊性」をテーマとした『日本的霊性』は、「日本崩潰の重大原因は日本的霊性自覚の欠如」とした、いわば終戦間近の日本で書かれた恐るべき警世の書であり、今日の日本社会にも十分通じる内容を持っている。
 四高時代の学友、藤岡作太郎・西田幾多郎と併せ「加賀の三太郎」と称される鈴木大拙。その没後「現代の玄奘三蔵」と時の円覚寺管長・朝比奈宗源が呼んだのは、言い得て妙である。

file No.030 葛飾 北斎(かつしか ほくさい)

世界を魅了した“画狂人”
葛飾 北斎

江戸・東京出身 1760~1849年

人類の生み出した最も卓越した画家の一人―美術史家ルイ・ゴンスは、1883年に浮世絵師・葛飾北斎を絶賛(『日本美術』)した。150回忌の今年4月、海外からの参加者120人を含む、約400人の北斎研究家が、北斎と因縁の深い長野県の小布施町に結集した。4年に1度の国際会議「第3回国際北斎会議」に参加するためである。
 北斎の人気は衰えを知らない。関連の著作は「世界で5000点以上を数え、北斎だけのものが300点」と1993年にモース氏が報告。もちろん日本語のものが多いが、仏、英、独、伊、露、蘭、スペイン、ヘブライ、チェコ、ルーマニアの諸語による。さらに論文は500点以上、展覧会は当時で65回を数えている。

代表作・富嶽三十六景『神奈川沖波裏』

「北斎こそ、浮世絵の真の創造者であり、民衆画家の創設者」とゴンクールは称え、ゴッホは他の浮世絵を真似しながらも、北斎の名だけをあげた。西洋では、北斎は浮世絵の代名詞であった。北斎の世界初の展覧会は、1890年に英で開催。日本ではその10年後、フェノロサらによって開かれた。
 1856年、輸入陶器のパッキングとして詰め込まれていた日本の未知な画集に目を留めた、フランスの銅版画家F・ブラックモンは、その優れたデッサン力と軽妙さに驚愕。彼は芸術家仲間に自慢げに吹聴して回った。その画集こそ『北斎漫画』。北斎の名は西欧中に広がり、印象派の画家たちに多大な影響を与えた。
 北斎は1760年、江戸は本所に誕生。幼少時、貸本屋で働き、暇を見ては貸本の挿絵で絵の勉強。14歳から彫刻を学び、19歳で当時、役者絵の第一人者・勝川春草に入門。翌年には、早くも勝川春朗の号でデビューする天才ぶりを示す。
 しかし、秘かに狩野派の画法を学んでいることが師に知られ、33歳で破門。以来、土佐派、淋派、洋風画、中国画などを積極的に学び独自の画境を築いた。
 北斎は、獲得した名声や画風に安住せず、新たな創作への挑戦を続けた。90年の生涯に93回も転居を繰り返し、画号(ペンネーム)を30回以上も変えた。自らを「画狂人」と名のった北斎の刻苦勉励さは、91年の生涯中、何度も画風を変えた20世紀の天才ピカソも及ばないほどだ。
「天、我をしてあと10年の命を保たせよ。いや5年でも生き永らえられるなら“真正の画工”となることができるのだが…」
 北斎は臨終の床にあっても、なおもこう呟きながら黄泉へ旅発った。辞世の句は「飛と魂でゆくきさんじや 夏の原」。夏の原っぱを人魂となって気散じに行こう、だった。

江戸の趣を今に伝え、観光客でにぎわう浅草の浅草寺境内。終焉の地となった遍照院や墓のある誓教寺も浅草にある
file No.029 金山 政英(かなやま まさひで)

ライフワークは日韓親善
金山 政英

東京都出身 1909~97年

「原子爆弾という強力な兵器を誇示して、日本人に戦争を止めさせようとするなら、富士山の火口にでも放り込めばいい。日本の象徴である富士山が吹き飛べば、無条件降伏をするだろう。なのに広島と長崎に落として、何万人、何十万人という罪もない人々を殺した―実にけしからん!」
 バチカン使節官顧問のカンドウ神父は、第二次世界大戦中、特異的にバチカンに居留し続けた日本の外交官・金山政英から、原爆の報告を聞き激しく怒ったという。同神父は金山の恩師だった。旧制高校時代の金山は、救癩病院で奉仕するクリスチャンの姿に感動し、受洗。このカトリック信仰が外交官としての活躍の場を広げた。
 戦後間もない1952年、マニラに赴任。モンテンルパ刑務所には、明日にも処刑されかねない日本人戦犯108人がいた。金山の着任直前に、14人が処刑されていた。当時、金山の助力で慰問した歌手・渡辺はま子は、「最後に『モンテンルパの夜は更けて』の大合唱になったが、刑死された戦友を思い、声にならなかった…」と語っている。
 カトリック国フィリピンに、バチカン時代の知己・バニヨッチ師が駐在中だった。金山は同師の協力で大統領に捕虜釈放を嘆願し、全員釈放を実現させた。

国交回復直後、金山は反日感情渦巻く中で活躍。写真は韓国カトリックの総本山・明洞大聖堂の夜明け(ソウル市内)

1909(明治42)年、東京に生まれた金山は、34年に東大を卒業、外交官試験に合格し、駐仏日本大使館へ。以後、ジュネーブ、イタリア、マニラ、ホノルル、ニューヨーク、チリ、ポーランドと廻り68年、韓国へ。
 この年は、国際勝共連合の創立年。同連合との関係はこの時に始まる。その前年に日韓基本条約が調印されたばかりで、最初の難題となったのが、日帝時代の糾弾が常だった3・1独立記念式典への参加問題。
「過去の過ちを悔い、これを越えて新しい善隣関係を打ち立てていかなければならない日本大使が、いつまでも韓国民の感情を刺激するのを恐れて出席しなければ、韓国政府と国民はどう受け取るだろうか」
 不測の事態を懸念する周囲の反対を押して金山は、全てを覚悟し参加。その誠意が通じ、歓迎された上、日帝時代の悪政に言及されることもなかった。この体験がその後の人生を変えた。
 退官(72年)後、「ライフワークは日韓親善」と、日韓親善協会、日韓文化交流協会、日韓トンネル研究会など数々の団体の要職を務め、幾度となく訪韓。同国から絶大な信頼を受けた。愛娘も韓国人と国際結婚。
 最後の仕事となったのは、かつて日本軍に樺太(サハリン)へ連行されたまま残留し、生活苦にあえいでいる残留韓国人夫人たちへの支援だった。そのための無料老人ホームは、93年に落成に漕ぎ着けた。97年11月1日、金山は世界平和を祈りつつ88歳で永眠した。

file No.028 山田 寅次郎(やまだ とらじろう)

日本とトルコの架け橋
山田 寅次郎

群馬県出身 1860~1957年

アジアとヨーロッパの接点、トルコのイスタンブール。その観光名所トプカプ宮殿には、日本の鎧兜と陣太刀が陳列されている。説明文には「日本の戦国時代の末期、大坂夏の陣の時に用いられた武具で、山田寅次郎氏よりオスマン土耳古帝国皇帝に献納されたもの」とある。この献納は、明治23年(1890年)の“事件”が契機だった。
 この年、オスマン帝国皇帝の命で、トルコ戦艦『エルトゥルル号』が、約1年間の航海を経、横浜港に到着。明治天皇への表敬と日本との修好が目的だった。天皇への謁見を終え、オスマン・パシャ提督一行が『エルトゥルル号』で帰国途中、台風に遭遇。艦は和歌山県の樫野崎沖で座礁。提督以下581人が艦と運命を共にし、助かったのはわずかに69人(後日、日本政府は、生存者を巡洋艦で送還)だった。
 この悲劇の報に、上州沼田藩家老の次男に生まれた山田寅次郎24歳は、義侠心に燃え、全国を東奔西走、義援金を集めた。その額5000円(現在の1億円に相当)。そして外務大臣に「義援金をトルコで直接手渡しては」と勧められ、遭難から2年後、トルコへ。この日本人の善意に、トルコ国民は大感激し、日本に感謝した。

寅次郎が献納した鎧兜と陣太刀が展示されているトプカプ宮殿の「帝国の門」(イスタンブール)

寅次郎は、スルタン・アブデュルハミド2世に拝謁し、家宝の鎧兜と陣太刀を奉呈。スルタンの勧めで、陸軍士官学校の日本語教師に。後のトルコ共和国初代大統領ケマル・アタチェルクも教え子の一人であった。アタチュルクは「建国の父」と国民から慕われ、全土に銅像が建てられている。
 寅次郎には、もう一つの顔があった。茶道宗偏流8世家元である。博愛心に満ちた行動派で、漢学、外国語、詩文などに通じ、日本の美術品、植物類、鳥類などをトルコに持ち込み、日本文化の紹介にも尽力。ちなみに茶道を海外に紹介したのは、彼が最初だった。
 さらに訪土した日本の皇族、政治家、軍人らをトルコ政府要人に紹介するなど、国交がなかった当時、“民間大使”の役割を果たす(外交関係が結ばれたのは大正13年)。また、寅次郎は日露戦争時、イスタンブールに滞在し、ロシア黒海艦隊の動静を監視、本国に通報するなど活躍。

 その後、寅次郎は、大阪に設立された日土貿易協会の理事長に就任し、日土協会の設立にも参画。昭和3年、寅次郎はトルコとの友好の動機ともなった、エルトゥルル号殉難者の弔魂碑建立にも尽くすとともに、「土耳古殉職士卒追悼祭」を挙行した。以後、五年ごとに式典は続けらている。
 記念碑は和歌山県串本町の大島にあり、戦後にはトルコ記念館も建設。館内には、寅次郎の遺品などが展示されている。親日国で知られるトルコと日本との親善友好は、寅次郎の力に負うところが大きく、名実ともに両国の架け橋となった。昭和32年、91歳の天寿を全うし、波乱に満ちた生涯の幕を閉じている。

file No.027 大谷 光瑞(おおたに こうずい)

仏教精神で西域(シルクロード)探検
大谷 光瑞

京都府出身 1876~1948年

西洋列強が競ってアジアを浸食していた19世紀末、各国は国策で中央アジアへ探検隊を送り、略奪まがいの発掘を行った。これを見かね、私費で探検隊を組織、多くの文化財をアジアに遺した先人がいた。没後50年を迎えた大谷光瑞師である。
 宗祖親鸞の血統を受け継いだ、浄土真宗の本願寺派第22世法主。宗教家でありながら、広い視野を持った光瑞は、早くから世界に目を向けた。「宗教は実践的なもの、念仏ばかりを唱えていてはならない」と主張。これに対し「僧侶は静かに死者の霊を弔っていればいい、力業のまねごとはいけない」と反対が多かった。
 しかし光瑞は、先祖の親鸞に似て強情我慢、図太い闘志にあふれていた。欧米列強の餌食にされようとしているアジアに対し、手をこまねいて眺めているわけにはゆかぬと、弱冠22歳で行動を起こす。まずは1899年(明治32年)、清国を視察。さらに清から帰国するや、インドからヨーロッパ各地を巡り、英国へ留学する計画を発表。またしても反対を受けるが、父、明如は、「これから一山の統率者ともなろう男が、外国のことを知らなくてどうする。大いに見聞を広げてくるがいい」と力強く応援。

スタインや大谷探検隊が発掘した、中国・新疆ウイグル自治区のトルファンにあるベゼクリク千仏洞

光瑞が英国に到着したころ、世は中央アジアへの探検熱に沸いていた。露のクレメンツに続いてスウェーデンのヘディン、英国のスタインなどが次々に出発。光瑞はいても立ってもいられなくなる。
 何しろ西域は、古来、東西文化の交通路であり、仏教の栄えた地域。埋もれている古経、仏像、美術品は西洋人にとって未開人の土俗研究の素材に過ぎず、信仰の対象でも先聖の遺宝でもない。これを思想史的に解読できるのは、東洋人が最もふさわしいはず。が、当事者の清国は疲弊の極にあり、とても余裕はなく、探検隊を傍観するのみ。
 もはや日本しかない。だが、近代国家の体を成したばかりで、文化事業に多額の国費を割く余裕はない。誰かがやらねば…。若き光瑞には宗教的熱心と、本願寺という巨大な財を動かす力がある。数百万信者の布施を人類遺産のために使う…。決意は固まった。
 3年の準備の後、光瑞一行は西域探検に踏み出す。1902年(明治35年)から12年間、三次にわたる探検が行われた。持ち帰った文物は、現在、韓国・国立中央博物館、中国・北京図書館、旅順博物館、日本・龍谷大学、東京博物館などに分散。
 探検に巨費を費やした光瑞は、負債問題の責任を取り、38歳で宗主の座を退く。その後、東南アジアで農園を経営し、地域発展に寄与する一方、多数の書を著し、昭和23年、73歳で亡くなった。
 中国・新疆ウイグル自治区の博物館内には、「外国魔鬼」と表示、スタインらと共に光瑞の写真が掲示されている。中国にとって探検隊は、泥棒なのだろう。だが結果的に、探検隊が持ち出した文物は、文革時、宗教を否定する紅衛兵らによる破壊の惨禍から逃れることができた。功罪相半ばす、というところか…。

file No.026 内村 鑑三(うちむら かんぞう)

「日本は世界の為に」
内村 鑑三

群馬県出身 1861~1930年

「二つのJ」―Japan(日本=東洋)、とJesus(イエス=西欧)の一致。ここに宗教家であり教育者であった内村鑑三の精神が凝縮されている。
 鑑三が「二つのJ」追求で生み出し、世界に向けて英文で書いた『代表的日本人』『地人論』などによって、世界は未知の国だった東洋の新興国・日本を識った。J・F・ケネディ米大統領もまた、この本で知った上杉鷹山を「最も尊敬する日本人」として挙げた。
 鑑三は、幕末の万延2(1861)年、高崎藩の下級武士の長男として誕生。明治7年、13歳で東京外国語学校(後の東大予備門)に入学。17歳には、開校したばかりで学費のいらない札幌農学校へ転入学。ここでクラーク博士に会い、キリスト教に入信。それはまた「二つのJ」を巡る苦悩の始まりだった。
 若き日の鑑三は、ダーウィン進化論の挑戦を正面から受けとめ、進化論とキリスト教との科学的統合を求めた。明治14年、農学校を首席で卒業。開拓使として3年間働き、水産生物学の研究に大きな業績を挙げ、次いで農務省へ。日本の水産行政の草創期を飾る成果を残すが、結婚の失敗などから退官し、米国へ渡航。
「第一に人となること、さらに愛国者となること」
 これが鑑三の留学の目的だった。まずは精神薄弱児施設で奉仕活動に精勤し、親友・新渡戸稲造も学んだアマスト大学でキリスト教の真髄に触れ、“悟り”を得る。「余は日本の為、日本は世界の為、世界は基督の為、そして全ては神の為」と。その成果を胸に3年半の留学を終え、帰国。時に鑑三27歳。

新緑の高崎公園の片隅にひっそり建つ、「Ifor Japan ,Japan for World…」の鑑三の言葉が刻まれた記念碑

希望に燃えて教壇に立つが、現実の日本は内村の期待を裏切るものだった。内村の主張は受け入れられず“国賊”と迫害を受け、新潟・北越学館、東京は明治女学校、東洋英和学校、第一高等中学、大阪・泰西学館、熊本英語学校と、転々とする。軍国色が濃くなり、ついには教職を辞し、文筆生活に入る。
 基督者になることにより、逆説的に日本人としての自覚を得る過程を英文で書いた『余はいかにして基督信徒となりしか』などをはじめとする多くの著書を発表。内外の知識人に多大な影響を与えた。
 鑑三はまた、日本の「天職」を東西両文明の「媒介者」であるとし、仏教、キリスト教など世界宗教を生み出した東洋の精神文明に基づく「宗教改革のし直し」を主張。教会(組織)によらない無教会派(聖書中心の信仰)を貫き、晩年は日本の滅亡を憂え、世界平和を唱え続けた。
 「人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を」
 鑑三はこう言い残し、69歳の誕生日の翌日昇天。鑑三が真に評価されたのは、没後15年経った敗戦という“亡国”の後であった。

file No.025 望月 カズ(もちづき かず)

「愛は国境を越えて」
望月 カズ

東京都出身 1927~83年

「これで駄目なら帰ります―」。1971年、韓国名誉勲章授賞式の日、大統領府の衛視に下駄履きをとがめられた望月(旧姓永松)カズは毅然と語り、和服にモンペ姿で大統領から冬柏章を受けた。
 この異例の受賞は、望月カズが戦後の瓦礫の中でたった一人、日本女性の身でありながら、孤児たち133人を育て、日韓親善の架け橋となったことによる。そしてカズは“38度線のマリア”と韓国の人々から呼ばれた。
 1927年(昭和2年)、東京の杉並に生まれたカズは、父親の顔を知らないまま、4歳で母と満州へ。2年後、愛する母親を亡くし、わずか6歳でまさに天涯孤独の身に。農奴として転売されながら、満州の荒野を放浪。17歳の時、北朝鮮で出会った永松氏夫妻の厚意で、形だけの養女となり、ようやく日本国籍を取得。
 翌年、終戦を迎え、いったんは日本へ帰るが、焦土と化した祖国に絶望。再び満州をめざす。が、北緯38度線を越えることができず、ソウルに留まる。そして50年6月25日、韓国動乱の戦渦に巻き込まれる。銃火の下を逃げるカズの目の前で、胸を撃たれた一人の女性が倒れた。その腕には、血まみれの男児が。カズは見捨てることができず、思わず男児を抱きしめた。

昔の面影を残すソウル市鐘路区仁寺の骨董品街の路地裏。かつて望月(永松)カズの小さな理髪店は、このような路地にあったといわれる

こうして女一人生きて行くことさえ困難なソウルのバラックで、孤立無援の奮闘が始まった。肉体労働を重ね、露天の理髪業をし、夜は軍手を作り、豆炭を売り、時には自らの血を売ってまで次々と増え続ける孤児たちを育てる。
 63年、理髪師の資格を取ったカズは、いつしか“愛の理髪師”として有名になり、翌年ソウル名誉市民賞を受け、手記『この子らを見捨てられない』が出版されるや評判となり、同名の映画が制作、上映された。この映画(邦題『愛は国境を越えて』)は、日本でも上映され、多くの人々に深い感動を与えた。67年、韓国の独立記念日(光復節)に、第一回光復賞が、日本人望月カズに与えられた。日本からは76年、吉川英治文化賞を受けている。
「転んでも転んでもダルマの如く立ち上がれ」 
が口癖。卑屈な生き方を嫌い、甘えを許さなかったカズは、ダルマの親子の絵を描いて壁に貼っていた。その精神は日本人としての誇りだった。いつも和服にモンペで通し、端午の節句には遠慮なしに鯉のぼりを翻した。富士山を見る日を待たず、波乱に満ちた56年の生涯を閉じた。
「温室の花の如く育てず、いかなる暴風雨でも耐え得る根の深い木に成長させようとされた」。残された子どもの一人は、葬儀で涙ながらに手紙を読み上げた。

file No.024 上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)

ケネディが最も尊敬した日本人
上杉 鷹山

日向・高鍋出身 山形・米沢藩主 1751~1823年

「私の最も尊敬する日本人、それはヨウザン・ウエスギだ」。故ケネディ米国大統領の有名な一言で、皮肉にも多くの日本人は、上杉鷹山という人物の存在を改めて知った。
 ケネディに鷹山の存在を知らしめたのは、内村鑑三が英文で著した『代表的日本人』だった。彼は「『天国』は、我らのこの貧しき地球上にては、不可能事であるか」と問う。否、この難題を可能にした稀有の人物が、日本の封建社会にいた、と内村は鷹山を論じた。
 江戸末期、跡取りのなかった山形・米沢藩は、九州・日向の小藩・高鍋藩から、後の鷹山、治憲を養子を迎えた。そこで17歳の少年・鷹山は、米沢藩の驚愕すべき実情を知るのだった。
 上杉謙信以来の名門120万石が15万石に滅封されるも、家臣団はそのまま。冠婚葬祭も大藩並で、借金が膨れ上がり破産寸前。重税で農民は逃散し、人口は減る一方。ついには、前藩主が幕府に版籍奉還を申し出るところまで零落。

山形新幹線『つばさ』で約2時間。米沢城跡の松岬公園には改革の先頭に立つ鷹山の銅像が建つ。側には「なせば成る。成さねば成らぬ何事も…」の碑が(山形県米沢市)

そこで鷹山は、腹心の小姓らと改革プロジェクトを組織し、革新的な改革案を作り、大改革を断行する。第1は、質素倹約の実践。鷹山自らの食事を一汁一菜にするなど、衣食費を約10分の1に切り詰める。虚礼を廃止するなど、血のにじむような倹約で財源の「出」をまず削る。
 第2は、悪政を施して民より富を求むるは、「瓜のつるより茄を得るに等し」とし、役人の綱紀粛正に着手。官僚主義を排し、武士にも鍬を持たせ、有能な人員は身分に関係なく登用。当然、大藩意識とプライドが抜けない重臣らは鷹山に反逆。これに対し、民意に基づいて断罪。例え改革の功労者でも不正を働けば、「泣いて馬謖を斬る」如く処罰。自らも責任を取り、35歳の若さで隠居(去世は72歳)する潔さ。
 第3は、財源の「入」を増やす。倹約だけで金の卵を産む鶏を弱らせず、これを養い育て殖産興業に励む。教育に力を入れ、人材を育成。漆や絹織物など、可能な限りの産業を興し、沈没寸前の藩を救済した。
 「成せば成る。なさねば成らぬ、何事も。成らぬは人の、なさぬなりけり」。成功の要因は、この鷹山の有名な言葉に凝縮されている。自ら行動し「やればできる」という意識改革を、領民のすべてに行き渡らせた。その根底に深い愛があった。鷹山には身障者の妻があり、彼女を亡くなるまで愛したことはつとに有名だ。
 いち早く英国や米国は、鷹山的行革を断行して上昇機運にある。国際化を迎えた日本は、政・官・業のシステムの一大改革が急務。膨大な借金と金融不安の広がりで不況風が吹く今日、鷹山的精神を持った指導者の出現が願われているといえよう。

file No.023 白瀬 矗(しらせ のぶ)

白人以外で最初に南極に立つ
白瀬 矗

秋田県出身 1861~1946年

『しらせ』―日本の南極観測船。日本人初の南極探検者にちなみ名付けられた。前人未踏の地に立った、栄光の船名の主人白瀬矗の墓は2つある。不遇のうちに没した愛知県吉良町と、出身地の秋田県金浦町とに…。
 白瀬が南極探検に挑んだ1900年初頭は、欧米列強の植民地獲得戦もあり、極地探検が盛んだった。1909年、アメリカのピアリーが北極点到達に成功。これに触発され、ノルウェー隊やイギリス隊が、南極点をめざす。東洋の小さな開発途上国日本の白瀬も、目標を北極から南極に変更。
 しかし、白瀬隊の『開南丸』(207トン)は、「よくもこんな船でやってこられたものだ」と、アムンゼン隊からあきれられるほど粗末な木造の機帆船。装備も貧弱。白瀬隊は、国家丸抱えの外国隊に比べ、国の援助なしの民間による、無謀なものだった。

白人以外で最初に南極に立った白瀬中尉の墓の由来を告げる記念碑。その偉大な業績を称えるかのようにたむけられた花束が、冬の陽に映える(愛知県吉良町)

白瀬矗は文久元年(1861)、秋田県金浦町の寺の長男として誕生。両親がほとほと手を焼くほど、生まれついての暴れん坊。8歳で蘭学医佐々木節斎の寺子屋に入門。マゼランなどの冒険譚を聞き、日本では間宮林蔵に続く者がいないとの話に感動、北極探検を決意する。
 「1、禁酒。2、禁煙。3、禁茶。4、禁湯。5、禁火」という節斎が示した5つの戒めを厳守し、極地探検に備える。生涯、酒を飲まず、冷飯を食べ、火には当たらなかった。また千島やアラスカなどで越冬。十分訓練を積むが、資金不足に悩む。
 1910年、イギリス隊出発の報に白瀬は焦った。49歳。探検家としてすでに若くない。費用を国に申請するも一銭も下付されない。白瀬は強い意志で次々と困難を乗り越え、募金と借金で資金を工面し、外国勢から遅れながらも東京湾から出航。ロス海から白瀬隊5名が上陸、南極点へ踏み出す。それは昭和31年の『宗谷』出航を遡ること、46年前のことであった。
 「死はあえて恐れざれども、使命は死よりも重し。…我は泣いて使命の為にこの上の行進を中止しぬ」。
 極寒と暴風で疲労困憊の極に達し、食糧が欠乏。ついに白瀬隊は、義金者名簿を埋めて日章旗を掲げ、一帯を『大和雪原』と名づけて帰還。その1ヶ月程前、アムンゼンは北極点を踏破し、スコットも到達したが遭難。白瀬は、白人以外で南緯80度を超えた最初の人に。木造船で一人の遭難者もなく帰還した勇気と英知は、世界から賞賛された。
 帰国した白瀬を待ち受けていたのは、勲章でも褒章でもなく、膨大な借金だった。家屋敷を売り、海外にまで金策に走り、不遇のうちに85年の生涯を閉じた。1962年、ニュージーランドは、白瀬の功績を称え、ロス海東側を『白瀬海岸』と命名。白瀬の名は、世界地図に刻印された。85年、米国の『ANTARCTCA』という本は、白瀬をアムンゼン、スコットと同格で取り上げている。

file No.022 新島 襄(にいじま じょう=Joseph Hardy Neesima)

「世界96聖人」唯一の日本人
新島 襄

安中・群馬出身 1843~1890年

アメリカの歴代大統領が、歴史的決断を下す時、必ずひざまずき祈ってきた「ワシントン・キャセドラル」の大伽藍。大統領を見つめるのは、壁面いっぱいに刻まれた「世界96聖人」の群像。その中に唯一の日本人の姿がある。教育者・新島襄である。
 天保14年(1843年)、新島襄は上州・安中藩士の長男として、江戸屋敷で誕生。時は風雲急を告げる幕末。蘭学や英学を受け、秘密裏に漢訳聖書を読み神とキリストを知る。見つかれば家族全員磔にされる恐れのあった発禁書の王座が聖書。近代日本建設には、海外で学ばねばならぬと痛感。21歳の時、函館から決死の出国を敢行。
 「生命に拘わる国禁をも恐れず、遂に万里の外に跋渉す…全く国家の為に寸力を尽くさんと存じ、衷心燃ゆるが如く、遂にこの挙に及び候」
 日本脱出を試みた吉田松陰らが処刑された「安政の大獄」から、わずか5年後のことだ。1年半にわたった航海の後、アメリカに上陸。その3年後、日本では大政奉還が行われた。
 新島を助けてくれた船長の計らいで、中学で学び、2年後キリスト者となる。成績優秀だった新島は、名門アーモスト大学に入学。あらゆる学問、知識を吸収し、人間愛の教育を受ける。函館脱出から10年、32歳の冬に帰国。

京都市今出川にある同志社大学のキャンパス。左中央の塔は、明治27年に献堂したクラーク記念館(国の重要文化財)の石柱が建てられている

新島は勇躍、欧米に勝るとも劣らぬ近代国家建設に邁進。まず確固たる精神の確立をしなければならぬとし、国民の知識と財産、そして自由と良心の「四大元素」の実現を訴えた。その中心は、良心。
 基点は「真理はあなたがたに自由を与える」(ヨハネ伝)と説いたキリストに置き、学校建設に奔走。しかしキリスト教への迫害や偏見は、ことの外強かった。
 「一度戦って負けてもやめてはならない。…刀折れ矢つきてもなお、やめてはならない。骨が砕け、最期の血の一滴まで流してはじめてやめる」
 幾多の困難を乗り越え、ついに帰国1年にして京都に「同志社英学校」を創設(明治8年)。第一期生、わずかに8名。新島はキリスト教の精神で、飲酒、喫煙等を禁じた厳しい規律のもと、学生を愛する一方しかる愛で、一国の良心たる人物の育成をめざす。門下からは、思想家、学者、文化人、政治家などの多くの逸材を輩出した。
 明治23年、大学の完成を待たず、「平和、喜び、天国」とつぶやき、47歳の若さで昇天。不幸にも日本は、新島が重視した「良心」を欠落さたせまま近代化した。倫理観の薄い今日の日本の若者は、アメリカから聖人とされた新島の悲願が、未だ達成されずにいる姿といえようか。

file No.021 安藤 広重(あんどう ひろしげ)

西洋絵画を変えた絵師
安藤 広重

江戸・東京出身 1797~1858年

「ヒロシゲ」「ゴヤ」……。ヨーロッパには、画家の名を冠した色名がある。ゴヤは濃い赤、ヒロシゲは藍色。西洋に鮮烈な印象を与え、印象派誕生に大きな影響を与えた絵師・安藤(歌川)広重。生誕200年の今年、ヒロシゲの浮世絵切手が世界各国で発行され、人気を博している。
 「自然の中に生きる…日本人が我々に教えてくれるものこそ、真の宗教ではないか」
 宗教家を志したゴッホは、浮世絵に深く感激し、何枚も模写した。中でも広重の『大はし阿たけの夕立』は有名。マネやモネ、ドガ、ロートレックら印象派の画家を魅了させた浮世絵。その色彩、構図、平面性、風景画など、それまでの西洋にはないもで、近代絵画に革命をもたらした。
 広重は、寛政9年(1797)江戸八代洲(現在の馬場先門)に武士の長男として誕生。13歳で両親を失い、定火消同心の家を継ぐ。絵心の強かった広重は、15歳、役者絵の第一人者・歌川豊国の門を叩く。これに断られた広重は、穏やかで地味な作風の歌川豊広に入門。それが先輩・葛飾北斎の鋭い絵と対照的な、情緒的画風につながって行く。

小春日和に照らされた門前に「史跡・初代安藤広重の墓及び記念碑」の石柱が建つ、竹の塚の東岳寺(東京都足立区)/友人・三世豊国による広重の肖像/広重生誕200年記念切手シート(ガンビア)

19歳には歌川を名乗ることが許され、広重の号をもらい、一遊斎(後に一立斎)と号す。22歳で『狂歌紫の巻』の挿絵などを描き、浮世絵界にデビューする。が、一向に人気の出ぬ二足わらじの絵師の毎日。広重は藍にこだわり、苦心惨憺の末、独自の色を確立。そして武士をやめ、家督を譲り、絵筆一筋の人生を選ぶ。折良く公用で京へ旅を。その感動が後に『東海道五十三次』という傑作を生み、不動の地位を得る。時に広重37歳。
 以後『木曽六十九次』など力作を次々と発表。妻を失うなど数々の悲劇に遭うも、900枚を超える膨大な作品を生む。人気はあっても安い画料のため生活は楽ではなく、多作を強いられたからだ。
 安政3年、還暦を迎えた広重は剃髪し、晩年の名作『名所江戸百景』の刊行に着手(没後完成)。2年後、病に倒れ、「死体は飢えた犬に喰わせてやりたいが、市中なので寺に埋めろ。葬式は見栄を張らず、質素にせよ」等広重らしい遺言を遺し、62歳の生涯を閉じた。
 墓は震災で浅草から竹の塚に移された。墓の横には、広重芸術を深く愛し、世界に広めた米国人ハッパーの墓もある。辞世は「東路に筆を残して旅の空、西の御国の名ところを見舞」。その人気は、西洋でますます高まっている。

file No.020 稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう)

一粒の種子で世界を救う
稲塚 権次郎

富山県出身 1897~1988年

1997年春、富山県にある歴史館『蔵回廊』で、、飯塚権次郎生誕百年記念展が行われた。飯塚の名はさほどポピュラーではない。しかし世界の農業、ことに稲と麦の品種改良の分野では、知らない人はいない。
 「稲塚先生の業績は、全世界の人々が高く評価し、心から感謝している。多くの国々で食糧問題の解決を可能にして下さった。何十億という人々を代表し、ありがとうございました」
 平成2年、稲塚の生家を訪れたアメリカのノーマン・ボーローグ博士は、こう感謝した。同博士は、稲塚が誕生させた奇跡の種子『小麦農林10号』の採用で「緑の革命」を起こし、ノーベル平和賞を受賞したのだった。
 飯塚権次郎は1897年(明治30年)、富山県城端町の貧しい農家に誕生。字の読めない両親は、惨めな思いをさせたくないと、無理して息子を学校へ入れる。優秀だった稲塚は、独学で東京帝大農科大学農学実科を受験し、みごと合格。卒業後、秋田県の農事試験場に勤務。
 ここで「冷害に強い品種」と詩人宮沢賢治が讃えた『陸羽132号』の誕生に貢献。その普及に奔走、東北の大凶作を救う。さらに『水稲農林一号』が誕生。現在の『コシヒカリ』『ササニシキ』『秋田小町』など銘柄米の祖先に当たる。これは韓半島など海外の寒冷地でも多く栽培され、好結果を生んだ。

食糧危機から世界を救った男・稲塚権次郎の生家跡は公園となり、生誕の地を示す碑が建っている(富山県城瑞町)

その後、岩手県農事試験場に移った稲塚は、小麦の研究を始める。苦心惨憺の末昭和10年、『小麦農林10号』の誕生に成功。これは、背の低い品種で成長が早く、寒さに強い上、収穫量の多い小麦であった。
 終戦直後の昭和21年、『農林10号』が連合国軍農業顧問の目にとまり、アメリカに送られる。そこでフォーゲル博士が、アメリカの小麦とかけあわせ、新種の育成に成功する。
 その後ボーローグ博士は、『農林10号』とメキシコ小麦とをかけあわせ奇跡の小麦を生み出す。これが毎年二倍、三倍と収穫量を上げ、メキシコの農民は歓喜の涙を流した。
 かつて約35万トンの収量だったが、今日では500万トンを誇っている。この救世種が世界へと広まった。
 1960年代中頃、大食糧危機が不可避とされていた、インドやパキスタンなどへボーローグ博士は、空前絶後の量の種子を送った。それらは劇的な小麦の収量を上げ、数千万人の命を救った。その後、世界小麦面積の4分の1で作付けされ、約16億人以上の命を支えている。いわゆる「緑の革命」である。これにより、ボーローク博士にノーベル平和賞が与えられた。
 この「緑の革命」の鍵をにぎっていた『農林10号』を生み出した飯塚は、その功績よって勲三等瑞宝章を受賞。終生農業問題に取り組んだ稲塚は昭和63年、91歳で永眠。城端町の生家は、稲塚の業績を讃える公園となり、胸像は近くの神社の境内にひっそりと建っている。

file No.019 間宮 林蔵(まみや りんぞう)

世界地図に載った日本人
間宮 林蔵

茨城県出身 1780~1844年

外国人が描いた世界地図上に、唯一日本人の名のついた地名--間宮海峡。200年前、地理学上でも国際政局の上からも、世界的関心事となっていたシベリア北部。当時、両極を除き不明のままだったシベリアと樺太との関係に断をくだしたのは、間宮林蔵だった。この日本人初の冒険家により、世界は樺太が島であることを知った。
 林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡の農家に誕生。寺子屋で学んでいた林蔵少年は、川の堰止め法を役人に教えたことが認められ、江戸へ。ここで測量技術などを学ぶ。
 時は、欧米列強による植民地獲得戦に遅れて参加したロシアが、日本の北辺へ触手を延ばしてきた幕末。北辺の変事は、志士たちの活躍へとつながって行く。渦中の北辺に乗り込んだ林蔵は、19歳から43歳までの23年間滞在し、数々の業績を残す。測量技術、交通手段は貧弱、北方の知識も皆無という時代、文字どおり命懸けの仕事だった。

茨城県伊奈町にある林蔵の生家。側には立派な「間宮林蔵記念館」がある。林蔵像の前に立って説明しているのは、子孫の雅章氏

生家のある茨城県伊奈町に林蔵が生前、自ら建てた墓がある。再び故郷に生きて戻らないという、決死の覚悟で北辺へ赴くためだ。そこまでして林蔵を駆り立てたものは何か。それは「シャナ事件」に端を発していた。
 1807年、二隻のロシア軍艦が択捉島シャナの日本人部落を急襲。林蔵はこの時、徹底抗戦を主張して奮戦するも敗退を余儀なくされた。この屈辱感を林蔵は「択捉での戦いで死ななかったことが悔やしい。が、樺太調査が許され死に場所を得たようだ」と語った。そしてロシア人と戦った体験が、国を守る仕事へ一生を奉げさせ、西欧人はロシア人と同一視され、シーボルト事件へと結びつく。
 1828年、ドイツ人医師で博物学者のシーボルトから、樺太情報提供を依頼された林蔵が、疑念を抱いて彼からの小包を奉行所に届け、それが原因となり、シーボルトは日本追放に。しかしシーボルトは「されどその功は功として認めざるべからず」と、その著書『日本』で間宮海峡の発見を賞賛。さらに「わしは日本人に負けた」と叫んだという、ロシアの大水路学者クルーゼンシュテルンの言葉を紹介している。
 林蔵の調査結果が、日露和親条約締結では日本側を有利に進めさせる。その後、伊能忠敬による『大日本沿海輿地全図』の北海道部分を完成させるなどの功績をあげ、65歳で永眠。
 生誕の地伊奈町では今年5月、「林蔵まつり」を開催。さらに来年夏、サハリン(樺太)に記念碑を建て、郷土の偉人を偲ぶという。

file No.018 阿部 仲麻呂(あべの なかまろ)

敵をも包み込む寛容の精神
阿部 仲麻呂

奈良・大和出身 698~770年

「日本晁卿帝都ヲ辞シ/征帆一片逢壺ヲ遶ル/明日帰ラズ碧海ニ沈ミ/白雲愁色蒼梧ニ満ツ」--日本への帰国途上、晁衡こと阿部仲麻呂が、遭難したと聞いた唐の大詩人・李白は友人のため慟哭し、この詩を残した。
 仲麻呂の名は、日本でよりも中国での方が知られている。唐朝廷に仕えた、高名な日本の文人として…。
 仲麻呂が入唐したのは、1200余年前の開元5年、19歳の夏。奈良朝廷が15年ぶりに派遣した遣唐使と共に唐へ留学したのだった。
 当時、日本は東夷とされ、新羅や吐蕃、渤海などの諸蕃の一つに数えられていた。その諸蕃の留学生の何人かが、国子監太学への入学を許される。日本人では仲麻呂が入った。
 仲麻呂は、秀才が競う科挙の試験を受け、合格。科挙は唐の蕫詩聖﨟・杜甫ですら何度も失敗したほどの狭き門。入唐10年、従八品下の左拾遺に任じられた。傾国の美女・楊貴妃との仲で有名な玄宗皇帝の下で、門下両省に登用されたのは、諸蕃の者では初めて。皇帝側近の任務には、人格識見ともに秀でている必要があり、仲麻呂にはそれがあった。

中国・西安市にある興慶公園に建つ、仲麻呂の「天の原…」歌碑から、丁寧に拓本を取る中国人

中国名の晁衡を賜ったほどに玄宗より重用された。晁は、朝の古字。朝臣に因み、衡は世の中の軽重を計る意味とか。入唐して日本と唐の友好に尽くすこと16年、望郷の念から帰国を決意するが、仲麻呂を惜しむ玄宗は、これを許さず断念。ようやく許可が出たのは、さらに22年たった仲麻呂57歳の時だった。
 その送別の宴で、王維から『送秘書晁監還日本国』と題する詩を贈られ唐を発つ。が、鑑真和上をも乗せた船は、日本を目前にした沖縄近海で坐礁、漂流の末、安南(ベトナム)に漂着。九死に一生を得、再び朝廷に仕える。
 安禄山の乱では、玄宗の命で成都へ随行。乱後、64歳で鎮南都護としてベトナムで善政を敷く。72歳で没し、玄宗が眠る秦陵麓へ葬られた。
「天の原/ふりさけ見れば/春日なる/御笠の山に/出でし月かも」
 西安の興慶公園に、日本を偲んだ仲麻呂の和歌が、石碑に刻まれてある。陰謀渦まく唐の朝廷で、失脚せず全うできた者は少ない。ましてや仲麻呂の出世は、異民族の出の文人としては極めて異例。それは異国の風土に溶け込む強い精神力と、和をもって尊しとなすという、敵をも包み込む大和魂にあった。

file No.017 中浜 万次郎(なかはま まんじろう=ジョン万次郎)

“国際人第一号”となった漂流民
中浜 万次郎

高知県出身 1827~1898年

建国200祭に沸いた1978年の米国。この時、ワシントンのスミソニアン博物館で、『海外からの訪問者展』が催された。世界から米国に来た人のうち、自国に米国の影響を大きく及ぼした29人を選び、その資料を展示。『クリスマス・キャロル』の作者英国のディケンズ、『新世界より』の作曲家でチェコのドボルザーク、『蝶々夫人』で知られるイタリアのプッチーニ…。それらの中に、ジョン万次郎の名があった。
 天保12年(1841年)正月、土佐宇佐浦を出港した漁船が、嵐で遭難した。漂流の末、無人島に漂着した4人の中の1人、14歳の少年万次郎の数奇な人生の始まりだった。奇跡的にアメリカの捕鯨船に救助され、船長にその才能を認められた万次郎は、船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンで教育を受ける。優秀な成績で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを修め、地球を2周する航海をした後、命懸けで鎖国中の日本へ帰国する。

太平洋の荒波に洗われるジョン万次郎の故郷・高知県足摺岬。日本の夜明けの幕末、世界を舞台に活躍した彼の銅像と記念碑が建っている

時あたかも、ペリー来航を目前に控え、風雲急を告げる幕末。名もなき一漂流民万次郎は、日本の夜明けに国際人第1号として一躍脚光を浴び、日米友好をはじめとする国際交流の礎に多大な貢献をした。米国で教育を受け、英語に堪能。さらに海外生活を直に体験した唯一の日本人。その存在は日米両国にとって、貴重な存在だった。日本の開国は、世界史を大きくかえることになる。
 坂本竜馬や後藤象二郎などに大きな影響を与えた万次郎は、遣米使節を乗せた咸臨丸の実質的船長として米国へ赴き、さらには欧州視察などに随行。幾冊もの訳書や著書を著し、英語の普及に努め、71歳で没した。
 昭和62年、当時の皇太子御夫妻が訪米の折、「日米友好発祥の地」として、万次郎が滞在したフェアヘブンを御訪問。盛大な歓迎式典が催された。ここのタウンホールには、町の誇りとして、万次郎の写真と大きな日の丸が飾られている。それは反日の嵐が吹いた太平洋戦争中も、変わらずに掲げられたままだった。
 平成2年には、全国的規模の『ジョン万次郎の会』(小沢一郎会長)が発足。万次郎の遺志が脈々と受け継がれている。新たな開国と21世紀の夜明けを迎えようとしている今日の日本に何を語るか、故郷足摺岬には今も、口を一文字に結んだ万次郎像が建っている。

file No.016 長崎・26聖人

「敵をも許す愛」に殉じた26人
長崎・26聖人

1597年没

長崎市の中心部から歩くとほどなく港を一望できる小高い丘、西坂公園にたどり着く。ここに26人が一列に並び祈る姿を彫ったブロンズ・レリーフの記念碑が建つ。この日本26聖人の殉教400年目に当たる今年2月5日、ヴァティカンのローマ教皇特使による巡礼と荘厳ミサが、記念祭の一環として挙行された。
 織田信長は、比叡山や一向宗に対して厳しい弾圧を行ったが、キリシタン宣教に関しては寛大な政策をとった。大名の信仰も認め、寺院や神学校などの設置をも認めた。ところが、豊臣政権が安定期に入ると、秀吉は30万にも上った信徒に危機感を強めたか、むしろ禁教策に転じた(バテレン追放令など)。彼を反キリシタン政策に傾かせたのが、彼の侍医・施薬院だったという。

1981年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により「至福の丘」と名づけられた長崎・西坂公園には、殉教者たちをしのぶ記念碑が建っている

この「26人殉教」事件に関し、『日本史』を著したルイス・フロイスがイエズス会総長に宛てた詳細な報告の書簡が現存する。事件の直接的引き金は、サン・フェリペ号事件による「日本征服計画」疑惑だった。
 処刑されたのは、イスパニア人やポルトガル人の司祭ら6名(いずれもフランシスコ会)と、日本人は専従者(説教師・伝道師・同宿)たちをはじめ20名。一行は捕縛されたあと京都で片耳を殺がれ、伏見・大坂と引き回され、長崎までの約800kmの行程を歩かされたあげく、西坂の地で十字架で磔にされたのである。
 旧暦12月19日(新暦2月5日)、西坂の刑場には4000の群衆が詰めかけた。処刑は十代の少年を5名も含む痛々しいものであった。しかし、中でも安土神学校一期生の日本人説教師であるパウロ三木は、群衆に向かい、私はキリシタンの教えを広めたかどで殺されるが、この恵みを神に感謝したいと叫び、こうつけ加えた。
「この道は、私に危害を加えている敵や、全ての人々を私が許すことを教えているのだから、私の死罪に対して責任ある太閤様や全ての人々を快く許し、さらには彼らがキリシタンの洗礼を授かることを望むようにと切に願う」と。
 26人の十字架刑は、日本人キリシタンにとって初の大規模な殉教であり、長く暗い蕫冬の時代﨟への悲劇的な序曲だった。以後、キリシタンらは信仰の自由を求め、北に向かって移動を続けていくが、1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルにより日本に伝えられた天主教(カトリック)は、僅か約一世紀で歴史の表舞台から姿を消すことになる。
 さはあれ、長崎・26聖人の「栄光の受難」は、西欧社会で魔女狩りに狂奔・世俗化した教会権力に対し、初代教会(エクレジア)の記憶を蘇らせる一陣の風となった。1981年、初めて西坂を訪れたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、その遺徳を讃え、この地を「至福の丘」と名づけている。

file No.015 柳 宗悦(やなぎ むねよし)

「沈黙は、罪悪だ」
柳 宗悦

東京都出身 1889~1961年

日本による韓国統治の象徴であった総督府庁舎は、建てられてから70年目の昨年、韓国政府によって取り毀された。それは総督府が、1926年(昭和元年)に朝鮮の滅亡を強調すべく、正宮の「景福宮」の真正面に建てたものであった。
 建設工事に当たり総督府は、正門の「光化門」を取り毀そうとした。これに敢然と異を唱え、ついには光化門の破壊を断念させた人物がいた。民芸運動の先駆者・柳宗悦。れっきとした日本人であり、生粋の文化人だった。
 東京に生まれた柳は、学習院在学中に雑誌『白樺』の創刊に加わり、東大文学部を卒業。その後東洋大、明大、同志社大、ハワイ大などの教授を歴任。民衆工芸に注目、特に李朝陶磁器などを再評価し、生活の中の美を啓発。浅川巧の師でもあった柳は、たびたび半島を訪れ、朝鮮民族の苦悩を知る。柳が非凡だったのは「沈黙は、罪悪だ」という信念を貫いたことだ。

柳宗悦の反対運動によって取り毀(こわ)されることをまぬがれた「景福宮」の正門「光化門」(ソウル市内)。ただし現在建っているのは、韓国動乱で焼失した後に再建された新「光化門」である(背後に昨年まであった旧総督府庁舎が写っているが今はない)

大正8年5月20日から24日まで、次のような柳の文章が『読売新聞』に連載された。
 「…日本は、多額の金と軍隊と政治家を朝鮮へ送ったが、いつ心の愛を贈った場合があろうか…。吾々日本人が今朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。恐らく義憤好きな吾々日本人こそもっとも多く暴動を企てる仲間であろう」
 「…朝鮮の人々よ、よし私の国の識者の凡てが御身らを苦しめる事があっても、彼等の中にこの一文を草した者のいる事を知ってほしい」
 この文章は、翌年4月、朝鮮語に訳され『朝鮮日報』にも掲載され、大反響に。当然、日本の植民地支配を非難したということで、特高から危険人物視され、つきまとわれるが、柳は一向にひるむことはなかった。
 さらに雑誌『改造』(大正11年9月号)に『失はれんとする一朝鮮建築のために』と題した抗議文を発表。これが朝鮮でも大いに反響を呼び起こした。これにより「失はれん」としていた光化門は救われ、西に移築された。民間人の抗議に、国家権力が屈した形になったのである。
 日本の敗戦、朝鮮の解放後、光化門はもとの位置に戻された。16年後の一九六一年(昭和36年)、柳は静かに永眠。享年72歳。韓国政府は1984年、柳宗悦の韓国人への愛と勇気と生前の功績を称え、文化勲章を贈った。

file No.014 支倉六右衛門常長(はせくら ろくえもん つねなが)

「ハポン」姓縁りの使節率いた“侍”
支倉六右衛門常長

宮城・仙台藩出身 1571~1622年

スペイン南部セビリア県コリア・デル・リオ市の中心部に、仙台藩主・伊達政宗の命を受け、約380前にイスパニア植民地アカプルコを経て当地に滞在した慶長遣欧使節を率いた支倉常長の像が建っている。1992年に宮城県から贈られたものだ。この町には、支倉ら使節一行のうち当地に永住した男性の子孫と伝えられる「ハポン」姓の人々が600人程いる。ハポンとはスペイン語で「日本」のことだ。
 1613年、宣教師ソテロを水先案内人とした支倉一行総勢180人は、政宗が造らせた黒船サン・ファン・バウティスタ号で月の浦を出帆し、太平洋及び大西洋を横断しイベリア半島に上陸、同15年ローマに到着した。遣使の目的は、政宗のローマ法王に宛てた親書に窺え、①仙台領内でのキリスト教布教を許可②イスパニア植民地ノベスパニア(メキシコ)との通商を実現するべくイスパニア国王に取りなしを願う―というものだったが、日本国内の情勢と相まって謎も多い。当時すでに幕府直轄領では禁教令が敷かれ、2つの大坂の陣を控えていた。明白なのは、幕府の公認のもとで、ノベスパニアとの通商、ローマ=カトリックへの遣使がなされたことだ。とすれば、この時点で南蛮等に対する幕府の鎖国政策は選択肢になかったのかもしれない。

仙台市の仙台城二の丸跡に建つ支倉常長像。スペイン南部セビリア郊外の小都市、コリア・デル・リオにも支倉像が仙台市から寄贈された

支倉は仙台藩の支倉村(現・川崎町)で六百石を封ずる中堅藩士。「常長」が資料上、彼の名として知られるも、彼自身は「長経」と称した。
 遣欧使節としては悲劇的運命をたどり、支倉は目的を達せられず帰途に着くが、返書をもらうまで動かぬ、という主君への忠義は西欧の人々をうならせたほどだった。
 この使節をモデルにした遠藤周作の小説『侍』は、こうした支倉の悲劇性が全編を貫いているが、同時に、キリシタンとしての晩年を彼岸的栄光と強調した作品でもある。
 一方、田中英道・東北大教授のように、美術史的アプローチからスペインやローマでの足跡を解明し、ローマの貴族に列せられた事実などから、決して無意味な使節ではなかったことを力説する研究者もいる。
 明治6年、維新政府の岩倉使節一行が渡欧した際、既に2世紀半前に南欧に到達した日本人たちの資料を目撃し驚いた。それまで完全に封印され忘れられていたのである。
 今日、支倉ら遣欧使節は、スペインの小都市に住む彼らの後裔といわれる「ハポン」姓の人々の出生のミステリーとともに、日本とスペイン及びローマとの友好のシンボルとして不滅の輝きを保っている。

file No.013 政尾 藤吉(まさお とうきち)

タイ国“刑・民法の父”
政尾 藤吉

愛媛県出身 1870~1921年

お雇い外国人といえば、明治初期の日本が札幌農学校のクラークをはじめ300人を超える多数の外国人を雇って、近代化を始めたことを思い浮かべる。ところが政尾藤吉は、その逆にタイのお雇い外国人となった日本人なのである。
 愛媛県の大州藩の御用商人の子。家は廃藩置県で没落し、幼少より苦学を続け、東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業し、米国に留学。イェール大学大学院で法学博士に。帰国した彼は外務省からタイ国の法律顧問就任を要請され、タイに赴いた。ときに1897年(明治30)だった。
 この当時、タイは「近代化の父」と称されるチュラロンコン王の時代で、近代法の整備が急がれていた。政尾が最初に取り組んだのは刑法草案の起草。ベルギー人顧問らと作った刑法草案は、日本の刑法やタイに伝わる古代インドの刑法、イタリアの刑法が参考にされており、日本の刑法と、いわば姉妹関係にあった。

政尾藤吉は、ラピー・パタナサック殿下(当時、司法大臣)の司法顧問として刑法と民法の起草に当たった。写真は同殿下の銅像が建つ旧タイ司法省別(バンコク市内)

ついで取り組んだのが民商法。親族法を起草したフランス人顧問たちは、タイの慣習である一夫多妻主義を明白に認め、これを法文化しようとした。これに猛然と反対したのは、ひとり政尾だけだった。「いくら慣習であっても、これを法律上の制度として確認するのは、法典の体面を汚すものだ」。がんとして譲らず、はげしく反論をくり広げた。この論争は、国王の裁可を仰ぐことになり、結局、一夫多妻制は法律化されずに済み、今日のタイ社会の倫理基盤を守ったのである。
 政尾藤吉は、タイで15年にわたって顧問をつとめ、国王からプラヤー・マヒトーンの爵位と欽賜名を授かった。帰国して衆議院議員となり、その後、大正7年に日本のタイ国全権公使として赴任。が、同年任地で病死。国王はその死を悼み、国葬で報いた。享年52歳。

file No.012 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう)

“東洋のネルソン”
東郷 平八郎

鹿児島県出身 1847~1934年

日本の世界史への登場、それは1904(明治37)年、当時世界最強と謳われた、ロシアのバルチック艦隊を撃破した時だろう。明治維新からわずか40年。日本は大国ロシアを敵に回し、危急存亡の危機に立った。運命の5月26日未明。東郷は「敵艦見ユ……本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、大本営へ打電。
 「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」
 旗艦『三笠』はZ旗を揚げ、バルチック艦隊に向け突進。敵前大回頭という捨て身の奇策。敵弾は、最先頭の『三笠』に、雨あられと集中。次々と被弾。艦は損壊、死傷者続出するも、砲弾が炸裂する艦橋に身をさらし、ひたすら沈黙して応射させぬ東郷。肉を切らせて骨を切る、薩摩武士魂。距離5000m、完全射程内。連合艦隊の砲が一斉に、火を吹き、バルチック艦隊は壊滅。

東郷平八郎連合艦隊司令長官
/訪れる人もなくひっそりたたずむ『三笠』を背景に「皇国興廃在此一戦」碑の横で、子どもを見つめるように建つ東郷像(横須賀市・三笠公園)

このニュースは世界を駆け、“東洋の小国の勝利”は、欧米列強の圧政下にあった諸国、民族に計り知れない勇気を与えた。東郷は“東洋のネルソン”と喧伝され、フィンランドでは東郷の名を冠したビールが造られ、トルコでは子供にトーゴーと名づける者が続出し、道に“トーゴー通り”とつけるなど、その熱狂ぶりは大変なものだった。
 その後、『三笠』は、記念艦として保存された。だが太平洋戦争後、軍国主義の象徴とされ「受難」の憂き目に遭う。ボロボロになった『三笠』を嘆き、戦災で消失した東郷神社と共に復元させたのは、皮肉にも日本海軍を全滅させた米国のニミッツ元帥であった。それなのに東郷らが命がけで守った日本では、今日、忘れられつつある…。
 横須賀にある『三笠』の前に、今も東郷像が、超然と立っている。

file No.011 曽田 嘉伊智(そだ かいち)

“韓国孤児の慈父”
曽田 嘉伊智

山口県出身 1867~1962年

“栄光の死”を悼む、春雨の京城に2000の人―昭和37年、『朝日新聞』にこんな記事が載った。当時、日韓国交正常化前だったにもかかわらず、その葬儀はソウル市民の手によって盛大に行われ、韓国政府は、日本人・曽田嘉伊智に異例の文化勲章を贈った。
 山口県に生まれた曽田は、若いころ中国や香港、台湾を放浪。朝鮮の青年に命を救われたことがきっかけで、明治38年韓国へ渡り、翌年キリスト教に入信。日本語教師をしながら、鎌倉保育院で孤児の救済を始める。が、わずかな私財を投じて運営するも、たちまち資金は底をつく。すると、園長自ら大八車を引き、食べ物をもらって歩く。貧しい食べ物を孤児たちとわけあい、同じボロをまとう日々。孤児たちが曽田につけたアダ名は「ハナレアボジ」。韓国語で「天のお父さん」だった。育てた上げた子どもの数は、千300人以上に上る。

氷雨に建つ永楽保隣院。かつて曽田が園長として孤児たちを育てていた鎌倉保育院を引き継いで建てられた(韓国・ソウル市龍山区)

戦後「世界平和・福音宣伝」の旅を思い立ち、昭和22年日本へ。ところが韓国動乱の勃発で、韓国に帰れなくなり、夫の帰りを待ちわびていた妻タキ子は、昭和25年ソウルで亡くなる。韓国政府高官、知事、市長らが弔問。弔辞で、「慈母」「民族のお母さん」と讃えられた。
 曽田は日本で慈善活動をしながら「世界平和」を訴え続け、「残された余生を韓国で」との願いが叶い、昭和36年、94歳で韓国に招かれた。子どもたちによる「♪ハラボジ(おじいさん)マンセイ(万歳)」との童謡で迎えられ、涙で感激する曽田に、かつての孤児たちは「お父さん!」と涙を流して抱きついた。ソウル市民章を受け、翌年、95年の生涯を閉じる。
 曽田が奉仕していた鎌倉保育院は、今日、建物こそ違う永楽保隣院に引き継がれ、ソウル市龍山区にある。墓は漢江のほとりに、ひっそりと建っている。墓石には「孤児の慈父、曽田嘉伊智」と刻まれていた。

file No.010 宮崎 滔天(みやざき とうてん)

アジア解放に命捧げた志士
宮崎 滔天

熊本県出身 1870~1922年

改革開放の先進地として、活気に沸く中国南部最大の都市広州。ここに孫文を記念する『中山紀念堂』が建っている。孫文は「中国革命の父」として、中国と台湾で等しく評価されており、中山は孫文の号。その名づけ親は、日本人の志士・宮崎滔天だった。
 滔天(本名寅蔵)は、明治三年(一八七〇年)熊本で、十一人兄姉の末っ子として誕生。「名利を求めることを憎み、弱者への慈愛をもって生きる者こそ英雄である」というのは、父長蔵の教え。子らは文字通り地位名誉を求めることなく、自らの私財をなげうって、理想を追い求めた。

滔天らの支援により、中国革命を達成した孫文を記念する『中山紀念堂』と孫文像(中国広東省広州市)

長兄八郎は「自由の二字、これ天真」の書信を残し、西南戦争に散った。「天造物である土地の均有は人類の基本的人権である」として、欧米や中国までも説いて巡った民蔵。人類の抑圧からの解放を最終目標とし、その第一段階を中国革命に命を賭け、中国語を習って準備していたが、志半ばで病に倒れた弥蔵。
 滔天は兄たちの遺志を継ぎ、欧米の植民地としてあえいでいたアジアの解放に、命を燃やす。
 「理想は実行すべきものなり、実行すべかざるものは夢想なり」と、赤貧洗うがごとき境遇の中で、一家を挙げて外国の革命家たちを、何の見返りも求めず歓待。その結果、日本人としては例外的に多数の外国人から、全幅の信頼をかち得た。
 16歳でキリスト教に入信。21歳に中国を視察。その後タイに渡り、反政府運動を助けるが挫折。帰国した滔天は、犬養毅の仲介で孫文を知る。マカオへ渡り、亡命の下準備をし、孫文を迎える。このとき滔天は、宿帳に孫文の偽名を「中山樵夫」と書いた。以後、孫文は中山と号す。
 滔天は荒尾村の実家の一室に孫文をかくまっていたが、ついに一九一一年の辛亥革命によって、孫文は中華民国を樹立。その翌年、随員を従え、滔天の生家を訪問し、謝意を表した。
 中国はもとより、韓国、ベトナム、タイ、フィリピン、インドなどの解放運動に生涯を捧げた滔天は、奇しくも52歳の誕生日に逝く。
 現在、荒尾市には「中国革命の母」滔天と孫文を記念して「世界は一つ」の文字と共に、二人のレリーフ像が建てられている。中国でも滔天の記念碑建立の機運があるという。

file No.009 三浦 環(みうら たまき)

世界に愛国心示した“蝶々夫人”
三浦 環

東京都出身 1884~1946年

「うたひめは 強き愛国心をもたざれば 真の芸術家となりえまじ―環」
 これは「世界のプリマ・ドンナ」三浦環が戦時中疎開した山中湖畔に、17回忌に建立された墓碑に刻まれた言葉だ。翌昭和38年、プッチーニの名作オペラ《蝶々夫人》の舞台・長崎の通称「蝶々夫人の家」と呼ばれるグラバー邸において、このヒロインを2000回も演じた三浦環のブロンズ像の除幕式が盛大に行われた。
 三浦環は東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業、同助教授を経て30歳で渡欧。間もなくロンドンのロイヤル・オペラに《蝶々夫人》でデビュー。続いて渡米、ニューヨークのメトロポリタン・オペラでも《蝶々夫人》のロングラン上演。第一次大戦終結後ニューヨークの凱旋式で歌を披露しウィルソン大統領以下3000人の兵士らを熱狂させ、“民間外交”でも大任を果たした。
 1920年にはイタリア初め世界各地に公演旅行。この時プッチーニを訪問、大作曲家は環の舞台に接し「あなたのマダム・バタフライは歌も演技も理想的と言えるほど素晴らしい。悲劇的な日本女性の情感の微妙な綾を完璧に演じてくれた」と最大級の賛辞を送ったという。
 環は南米にもオペラ公演で度々訪れ、アンコールで日本からの移民のために必ず懐かしい日本の歌を聴かせた。また、キューバ公演では急遽刑務所の慰問を申し出、歌を披露して囚人たちを感激させ、彼らにアイスクリームをご馳走してと400ドルの小切手を渡したという。

1935年伊・パレルモで《蝶々夫人》2000回目の公演を最後に楽壇の一線を退き、帰国。戦時中、前線の兵士たちを心から慰めたいと慰問団に積極的に参加し、軍需工場に動員された「女子挺身隊」の若い女性たちのためにもよく慰問に行った。学徒出陣で多くの若者の命が散ったという報に、身を震わせて号泣したという優しさと純粋さの持ち主でもあった。
 敗戦直後の混乱期に三浦環が没して半世紀以上も時が流れた。単にわが国初の世界的プリマ・ドンナというだけでなく、二つの世界大戦を挟む暗い時代に、祖国を愛しつつ歌によって世界の人々の心の支えになろうとした生涯は、彼女の遺した貴重な録音とともに語り継がれていくだろう。

《蝶々夫人》のモデルとされる長崎市のグラバー邸に建てられた三浦環の像
file No.008 浅川 巧(あさかわ たくみ)

韓国の土となった日本人
浅川 巧

山梨県出身 1891~1931年

「浅川サン、シンダンジ、アイゴー」。その死に際し、大声をあげて嘆き悲しむ韓国の人々の姿には、無類のものがあった。浅川巧は、韓国人によって追悼され、顕彰碑まで建てられた例外的な日本人だった。
 1891(明治24)年、山梨県に生まれた巧は、母の影響でクリスチャンに育つ。農林学校を2番で卒業。大館営林署に勤務後、「併合」後の韓国へ渡り、林業試験場に勤めて半島の緑化に努める傍ら、陶磁器研究に力を注ぐ。
 「俺は神様に、金はためませんと誓った」
 巧は、当時、誰も顧みなかった韓国の民芸品などの収集に給料をつぎ込み、後世に残すため朝鮮民族美術館を設立し、すべてを寄贈(現在、韓国国立中央博物館に展示)。韓国語を話し、韓国服を着、乞食にはポケットのお金を全部あげ、学校へ行けない子供がいると奨学金を与えた。

ソウル郊外の憂いを忘れるという意味の「忘憂丘」に韓国の人々によって建てられた巧の墓と「功徳碑」と李朝壷型の石碑

巧がもっとも力を入れたのは、韓国産業のガンとされ、厄介者だったハゲ山対策。「従来は面をひそめて見て来た禿山を涎を流して眺める」と、巧はハゲ山克服を研究し、韓国の山と樹木を愛し、緑の山へと変えていった。
 1931年、韓国各地で無理して植林の講演をした巧は、風邪をこじらせ病床に伏す。40度の高熱を押して依頼されていた原稿を書き上げて後、40歳の若さで没す。
 「…巧さんは、官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで堂々と生きぬいていった。…朝鮮の為に大なる損失であることはいふまでもないが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない」
 この京城帝国大学教授・安部能成の追悼文は、後に『人間の価値』と題して、1934年から国語(旧制中学)の教科書に収録された。
 死後35年たった1966六年、巧を知らない林業試験場の韓国人職員の寄付で『浅川巧功徳之碑』が建てられ、今も墓の掃除と献花が続けられている。

file No.007 野口 英世(のぐち ひでよ)

人類のため「細菌の狩人」に
野口 英世

福島県出身 1876~1928年

O157、エイズ……21世紀を迎えた現在、感染症が猛威を振るっている。人類のために未知の病と闘い、身を捧げ、自らも病原菌の犠牲となり、志半ばにして倒れた世界的な日本人医学者といえば、野口英世であろう。
 貧しい農家に生まれ、1歳半の頃、いろりに落ちて大火傷を負い、苦学を重ね、立身出世…。日本人なら誰でも知っている彼の生涯である。だが、いったい何をして英世を献身的な医学研究につき動かしてきたのだろうか。
 明治33年の冬、生活費も学費もほとんど持たずに渡米した英世は、フィラデルフィアで運命的な出会いを経験する。フィラデルフィアは、ベンジャミン・フランクリンをはじめ、アメリカ建国精神の発祥の地であり、信仰者の街であった。ここで英世は、モリス夫妻と出会う。
 この夫妻は、熱心なクエーカー教徒で、日本人留学生の面倒を熱心にみていた。内村鑑三や新渡戸稲造、そして津田梅子もモリス夫妻に助けられ、信仰心を燃やして学業を修めた。英世もまたモリス家で孤独な心を癒され、人類のために生きる魂を植えつけられたのである。

野口英世を偲んで連日多くの人々が訪れる野口英世記念館
(福島県・猪苗代町)の記念碑(左)とがかけられた生家(右)

1910年代、黄熱病が南米で大流行した。英世は発生の中心地、エクアドルに飛ぶ。英世と黄熱病の闘いが始まった。到着九日後に病原体を発見し、ワクチンをつくって死亡率を激減させた。「ノグチは一体、いつ眠るのか?」と、その献身的な研究は、周囲を驚かせた。
 南米で終息した黄熱病は、次にアフリカで猛威を振るう。英世はアフリカ行きを決意するが、体調を崩していた彼に多くの人が反対した。だが、英世はガーナへと向かった。
 「人間は、どこで死んでも同じです」
 7カ月後、世界から惜しまれつつ、黄熱病で逝く。享年51歳。「細菌の狩人」の闘いは、主人公が代っても未だ続いている。

file No.006 新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)

「太平洋の懸橋たらん」
新渡戸 稲造

岩手県出身 1862~1933年

夏草繁る、岩手県盛岡市の岩手公園。中央に「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」と刻まれた石碑がひっそりとたたずんでいる。
 東洋と西洋の「執成者」と、グリッフィスに称えられた新渡戸稲造。旧「五千円札の肖像」と紹介した方が分かりやすいが、『武士道』の著者として世界に知られている。この本は、日本が世界に知られていない日露戦争前の1901年、アメリカで発行され大評判になった名著。以後、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ハンガリー語、ロシア語、中国語、アラビア語などに翻訳され、世界の人々が、日本を知る絶好の参考書として読み継がれている。

真夏の陽に照らされて「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」と刻まれた石碑がひっそりと建つ岩手公園

文久2(1862)年、南部藩士の7人兄弟の末っ子として誕生。少年時代は、母親がたびたび近所をわびて回るほどのわんぱくだった。14歳で東京英語学校へ。16歳で札幌農学校に入り「少年よ大志を抱け」のクラーク博士の下で学び、クリスチャンに。その後、東大に入学、ここで生涯の目標「太平洋の懸橋たらん」と決意。
 23歳の時、アメリカへ留学。アルバイトに新聞の切り抜きなどをし、妻となるメリーと出会い、7年後に結婚。39歳の時、台湾の農業振興に尽力、砂糖の一大産地にする。
 また京大、東大などの教授を務め「女性にも教育を」と東京女子大の初代学長に。そして国際連盟の事務次長に就任。ユネスコの前身「国際知的協力委員会」をつくるなど活躍。“ジュネーブの星”“連盟の良心”と呼ばれる。
 晩年、関東軍の暴走により満州事変が起きると、戦争回避のため、病身を押してアメリカへ渡り、日本の立場を訴えるが、病気は悪化。翌年、無念のうちに72歳で没す。命懸けの「戦争阻止」はできなかったが、稲造の願った「世界平和」は、今、後継者たちの手により達成されつつある。

file No.005 高山 右近(たかやま うこん)

栄華捨て、信仰に生きる
高山 右近

大阪・高槻出身 1552~1614年

世界史上の大航海時代と呼ばれる16世紀、1543年にポルトガル人が日本に鉄砲を伝え、1549年にはフランシスコ・ザビエルがキリスト教(キリシタン)の布教を開始した。キリスト教はまたたく間に日本中に広まり、信者は数10万人に達したと言われる。
 有力なキリシタンとしては、4人の少年をローマ教皇のもとへ派遣(天正遣欧使節、1582年)した九州の大名、豊後・府内の大友宗麟、肥前・長崎の大村純忠、肥前・有馬の有馬晴信らが有名。大阪・高槻の高山右近は、領国内に理想郷建設を計画した敬虔な信者であった。細川忠興夫人ガラシャは、夫を通して高山右近からキリシタンの話を聞いて入信したと伝えられる。

マニラ市長の提唱により日本とフィリピンの共同で建てられた右近像と記念碑(マニラ市プラザデラオ比日友好公園)

高山右近は洗礼名をユストといい、初め摂津の戦国大名・荒木村重に属し、後に織田信長に従う。本能寺の変後、秀吉により播磨・明石に封ぜらるも、信仰を捨てず、改易。一時、金沢前田家の客将となったが、徳川幕府が発した「国外追放令」(1614年)によって、ルソン(現フィリピン)のマニラへ追放され、その地で客死した。
 高山右近は、キリスト教信仰と大名の栄華との二者択一を迫られ、信仰を選択した唯一の大名である。彼の存在は、当時の世界の中心ローマにまで知られ、その強い信仰心は人々を感動させ、死後、聖人として列せられた。
 現在、死去の地マニラに彼を讃える銅像が建てられ、日比友好のシンボルとなっている。

file No.004 雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう)

“誠信”の心つらぬく
雨森 芳洲

近江出身 1668~1755年

「近くて遠い国」といわれる、韓国・北朝鮮。それは、意外にも明治になってからで、李氏朝鮮王国とは長く友好関係にあった。
 この善隣関係をズタズタに破壊し、今日まで影響を与えたのが、豊臣秀吉の引き起こした、2度の朝鮮出兵だった。
 その修復に徳川家康は苦心し、歴代将軍がそれを踏襲した。鎖国の中にあって、唯一国交をもっていた朝鮮との関係を確固たるものにすべく、誠信を貫いてその重責を担った一人の人物がいた。対島藩朝鮮方佐役(外交と貿易の任)・雨森芳洲である。
 近江の高月に生まれた芳洲は、22歳のとき、対島藩に仕官し、4年間の江戸詰めのあと、絶海の孤島ともいうべき対島に渡った。以来、88歳で対島の「鬼」と化すまで、朝鮮との外交に腐心し、朝鮮との国交をより確かなものにした。 その間、芳洲は、長崎の出島において中国語を学び、さらには朝鮮の釜山に渡って朝鮮語そのものも習得している。異国を知るためには、まず相手の国の言葉を理解しなければならないという信念からにほかならない。


 また芳洲は、朝鮮からの使節団である「朝鮮通信使」一行500余名を、2度にわたって対島から江戸にまで案内している。その応接にも芳洲は、“誠信”のふれあいが必要であると説き続けた。その著『交隣提醒』には、次のような一節がある。誠信のふれあいとは……に続き、「実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実をもっての交わりを、誠信と申し候……」

芳洲の生家跡に建てられた「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵」
(滋賀県高月町)
file No.003 八田 与一(はった よいち)

不毛の荒野を一大穀倉に
八田 与一

石川県出身 1886~1942年

台湾の首都、台北より南へ355キロメートル(km)。台湾第四の都市、台南がある。ここは古くから政治、経済、文化の要衝の地として栄え、16世紀初頭、オランダの植民地になってから、明朝、清朝、イギリス、そして日本というように外国の支配を受けてきた。
 この台南の北方に、台湾有数の穀倉地帯、嘉義平野がある。20世紀初頭まで、不毛の地だったとは想像できないほど、初夏の風にそよぐ緑の穂波が印象的だ。
 1世紀前、誰からも手をつけられることなく、打ち捨てられていた荒れ地に挑戦し、荒野を肥沃な大地に変え、現地の人々から、その偉業を讃えられ続けている一人の日本人がいた。
 金沢に生まれ、東大卒業後、台湾総督府土木局に勤務した八田与一。彼は水源不足ゆえ、荒れ放題だった広大な平野の将来性に着目。山をくりぬいたトンネルによる灌漑用水の確保を提案し、夫人と共に現地に住んで工事を指導。長さ3kmのトンネルを貫通させ、東洋一の人造湖「珊瑚潭」を造り、荒野に用水路を張り巡らす。苦節10年、1920年(大正9年)に完成。その距離は、実に万里の長城の6倍、1万6000kmに及んだ。

東洋一の人造湖「珊瑚潭」を見渡す丘に据えられた八田与一の銅像と夫妻の墓

それまで30万t(トン)だった米の収穫量は、工事の完成10年にして一挙に100万tに。そして180万t(93年)へと激増し、台湾随一の大農業地帯となった。
 人々は、功績を讃えて1931年、八田の銅像を設置。戦時中は撤去されるが、人々はそれを大事に保管し、戦後(昭和21年)、珊瑚潭の側に、八田夫妻の墓を建て篤く弔った。そして1981年(昭和56年)、くだんの銅像を再設置。今も詣でる人が絶えることがない。
 八田は1942年(昭和17年)、フィリピンに向かう途中、海難で南海に没し、夫人は珊瑚潭に身を投じ、夫に殉じたのだった。

file No.002 高峰 譲吉(たかみね じょうきち)

ノーベル賞級発見と桜
高峰 譲吉

石川県出身 1854~1922年

桜前線が北上するころ、海の向こうのワシントンDCのポトマック湖畔、ニューヨークのハドソン・リバーパークからも桜の便りが届く。
 ニューヨークから車で20分、野口英世の墓がある、ウッドローン墓地。その一角に、みごとな桜の花を咲かせる墓がある。ここに眠る人物こそ、85年前、5000本の苗木を自費で準備し、尾崎行雄を代表に立てて寄贈させた、世界的に有名な化学者・高峰譲吉である。
 「ドクター・タカミネ」の名が世界に知られたのは、二つのノーベル賞級の発見だった。一つは1894年、アメリカの研究所で開発した、消化酵素タカジアスターゼ。もう一つが、1900年、外科手術での患者の生存率に多大な貢献をしている、アドレナリンの結晶化の成功。

早春のニューヨークにあるウッドローン墓地にある高峰譲吉の墓に咲く枝垂れ八重桜(写真・米国法人日本文化財団)

また、末永い日米友好を願って、数々の文化的遺産を残している。「日本倶楽部」と「ジャパン・ソサエティー」の創設や、日本庭園を持つ建築物「松楓殿」の保存など。桜の寄贈もその一つ。しかし、自らは吹聴しなかったためか、これらの事実はあまり知られていない。
 日米和親条約が締結された1854年、加賀藩の典医の長男に生まれた高峰は、後の東大工学部を卒業後、英国へ留学。帰国して農商務省入省。33歳で、米国人キャロラインと結婚。36歳で渡米し永住。数々の偉業を成し68歳で没す。

file No.001 杉原 千畝(すぎはら ちうね)

「6000人の命のビザ」
杉原 千畝

岐阜県出身 1900~86年

イスラエルの首都・エルサレム市街を見おろすヘルツェルの丘にある庭園に、映画『シンドラーのリスト』の主人公で、約850人をナチから救ったオスカー・シンドラーの木が立っている。ここにはナチの追手からかくまった“義人”の名を記念した木が植えられているのだ。
 そこに唯一、日本人の名のついた杉の木があり、訪れた人々は記念に石を置いて行く。プレートには、センポ・スギハラとある。

 第二次世界大戦直前の1940年8月、リトアニア日本領事・杉原千畝は、外務省の指示に背き「私の意思である」と、ポーランドのユダヤ人へのビザを発給。約6000人の命を救うが、杉原はこの善行について一切、黙して語らなかった。戦後、それが元で外務省から追放される。救われた人たちは、必死にすり切れたビザを手に杉原を探すが、見つからなかった。外人には発音しにくいと、名前を「センポ」と教えていたからだ。
 発見されたのは、28年後。イスラエル政府は、1985年、ノーベル賞に匹敵する『諸国民の中の正義の人賞』を授与。死の前年だった。