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唯物史観その1

革命に駆り立てる歴史観
[キーポイント]

今回から唯物史観に入ります。唯物史観は唯物論の立場から歴史を論じたものとされます。しかし、唯物弁証法がそうであるように、歴史を研究し尽くした結果として唯物史観がうち立てられたものではありません。初めに革命ありき、で革命を正当化するために歴史の法則なるものがつくりだされたのが実相です。ですから唯物史観は歴史を歪め、無理やりに革命へと駆り立てようとするものです。その正体を学んでいきましょう。

思想成立の背景

歴史とはいったい何でしょうか。
 日本語の「歴史」という言葉は、中国の明末の漢語からきたとされます。「歴」というのは「経る」、「史」というのは「記録」という意味で、これを合わせる意味合いを「歴史」にもたせています。欧米ではギリシャ語の「ヒストリア」(探求)と、ドイツ語の「ゲシヒテ」(出来事)という意味を加味して「ヒストリー」をとらえるようです。
 つまり、歴史は2つの意味合いをもっています。それは客観的な事実の記録という側面と、それをどう語り伝える、あるいは観るか、という主観的な側面です。紀元前五世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスの作品に『歴史』(九巻)があります。ペルシャ戦争を主題とするこの書は、単なる出来事の羅列ではなく、ギリシャとペルシャの戦いを物語風に、そしてヘロドトス自身の価値判断を加えて綴っています。そこで彼は「歴史の父」と呼ばれます。
 19世紀のドイツの歴史家ランケは、あくまでも事実が実際いかにあったかを示す史料中心主義を切り開き、歴史を初めて「科学」の地位に押し上げたとして「近代歴史学の始祖」と呼ばれています。
 しかし、人間は「考える葦」です。単なる事実や現象の羅列の認識だけで満足することはできません。その現象がいかなる意味合いをもち、後世にいかなる教訓を残しているのか、といった価値判断を下そうとします。そうした価値判断を加えて歴史を特定の立場から統一的に解釈しようというのが、史観なのです。
 たとえばイギリスの歴史家トインビーは『歴史の研究』の中で、人類史の時空を貫く全体像を捉えようという壮大な歴史解釈を試みたので、しばしばトインビー史観と呼ばれます。戦後、日本では京大教授の梅棹忠夫氏が生態史観というユニークな歴史解釈を展開して話題になりました。作家の司馬遼太郎氏の歴史小説が司馬史観と名づけられるのも、そこに氏の独特の歴史解釈があるからでしょう。

では、唯物史観(史的唯物論)とはどのようなものでしょうか。レーニンは唯物史観について次のようにいいます。
「マルクスは、哲学的唯物論をふかめ発展させて、それを徹底させ、それの自然認識を人間社会の認識へとおしひろげた。科学思想を最大の成果は、マルクスの史的唯物論であった。それまで歴史観と政治観を支配していた混沌と気ままは、驚くほど全一的な、整然とした科学的な理論にとってかわられた」(「『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』)
 レーニンは唯物論を発展、徹底させた科学思想の最大の成果が唯物史観というのです。
 たしかにマルクスは哲学的唯物論を発展させました。本シリーズの疎外論で紹介したように、マルクスの哲学的思考の出発点はヘーゲル哲学です。そして、フォイエルバッハの唯物論の立場からヘーゲル批判へと踏みだし、ついでそのフォイエルバッハをも批判して戦闘的唯物論としての唯物弁証法へと発展させていきました。
 しかし、レーニンがいうように自然認識を人間社会の認識へと押し広げて史的唯物論をうち立てたわけではありません。マルクスは1843年に『ヘーゲル法哲学批判序説』、44年に『聖家族』を著し、ヘーゲル哲学に完全に決別した後、45年にパリから追放されてブリュッセルに移住することになりますが、ここで45年末から翌46年5月にかけてエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を書き上げます。この中で唯物史観を提示したのです。
 つまり唯物史観を世に示したのは1845年ということになります。これに対して唯物弁証法が体系的にまとめられたのは、ずっと後のことです。前回まで紹介した唯物弁証法で引用した文献のほとんどはエンゲルスが著した『自然の弁証法』と『反デューリング論』ですが、前者は1873年から83年にかけて、後者は1878年に執筆されたものです。つまり、唯物弁証法を人間社会へと押しひろげて唯物史観が形成されたわけではないのです。
 このことはエンゲルス自身が次のように証言しています。
「私が一八四四年の夏にマルクスをパリに訪ねたとき、理論上のあらゆる分野で我々の意見が完全に一致していることが明らかになった。そして、そのときから我々の共同活動が始まるのである。1845年の春に 我々がブリュッセルで再会したときには、マルクスはもう右の原理を展開して、彼の唯物論的な歴史理論[唯物史観のこと]の大要を完成していた。そこで、新しく獲得した見方を種々さまざまな方面で細目にわたって仕上げることに、いまや 我々はとりかかった」(『共産党宣言』序文)
 何度もいいますように、マルクスやエンゲルスにとっては、初めに革命ありき、だったのです。それには唯心論や宗教の否定がなくてはならず、そこでヘーゲル批判を起点にして唯物論を展開し、さらにそれを社会に照らし合わせようと試みます。それが『ドイツ・イデオロギー』で姿を現した唯物史観なのです。
 ちなみに、マルクスとエンゲルスは1848年に『共産党宣言』を発表し、欧州各地で勃発した暴動を共産革命に転じようと煽動しますが、これに失敗します。そこで彼らは労働者を革命に駆り立てる決定的理論の必要性にせまられます。それが亡命先のロンドンでつくった『資本論』(1867年)です。ここでも最初に結論があって、つまり初めに革命ありき、で理論構築がなされています。

唯物史観はマルクス、エンゲルスの後、レーニンや スターリンらによって集大成されます。それをまとめますと、概ね次の9項目になります。
 ・社会発展の合法則性
 ・生産力の発展
 ・生産関係
 ・生産力・生産関係の人間の意志からの独立性
 ・生産力の発展に対する生産関係の照応
 ・生産力の発展に対する生産関係の桎梏化
 ・土台と上部構造
 ・国家と革命
 ・経済制度の諸形態
 次回からはこれらに順をおって批判、代案を提示していきます。

資料
物質生活をすべての前提条件とした唯物史観

 「ダーウィンが生物界の発展法則を発見したように、マルクスは、人間の歴史の発展法則を発見しました。これまでのイデオロギーの茂みの下に隠されていた次の簡単な事実がそれです。人間はなによりもまず飲み、食い、住み、着なければならないのっであって、しかるのちに政治や科学や芸術や宗教等々にたずさわることができるのだということ…」(エンゲルス「カール・マルクスの葬儀」)

登場人物
ヘロドトス(B.C.484~430)

 古代ギリシャの歴史家。小アジアのハリカルナッソス出身で、ペルシャ各地や南イタリア、ギリシャなど広範囲にわたって旅行し、こうした見聞をもとに、後に『歴史』(9巻)を著す。同著はペルシャ戦争を主題とし、東洋と西洋との衝突という広い見地から説きおこした。当時の世界各地の歴史地誌も織り交ぜられており、物語風に一大叙事詩のように歴史が綴られている。後にキケロとアリストテレスが『歴史』に言及したことから「歴史の父」と呼ばれるようになった。

レオポルド・ランケ(1795~1886)

 マルクスとほぼ同世代を生きたドイツの歴史家。チューリンゲンの小村ビーエ出身。ライプチヒ大学で学んだ後、ベルリン大学教授(1825~71)。当時のロマン主義的な歴史哲学に反対して資料、文献にもとづく厳密な客観的実証的な歴史叙述を唱道したことによって「近代歴史学の始祖」と称される。大学に歴史学演習の制度を設け、その門下から多くの逸材が出たことでランケ学派が形成された。

アーノルド・ジョセフ・トインビー(1889~1975)

 現代イギリスの代表的な歴史学者。オクスフォード大学卒業後、外務省に勤務し第一次大戦後のパリ和平会議ではイギリス代表団の一員となる。ロンドン大学などで歴史学の教鞭を執り、外務省調査部長などを歴任。主著『歴史の研究』では世界を20余の文明圏に分けて、その興廃を論じた。シュペングラーやマルクスの決定論的歴史観や西洋中心史観を排して、人間・人間社会の自由な決意と行為による歴史を強調し、独自の文明史観を展開。真の世界史的視点に立った歴史家・文明批評家と評される。

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