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共産主義唯物論その1

「物質」の概念を歪曲
[キーポイント]

唯物論は共産主義の物の見方・考え方の最も基礎になっているものです。疎外論で見たようにマルクスは革命のためにすべての理論を組み立ててきましたが、共産主義唯物論も例外ではありません。共産主義唯物論の特徴は・宇宙の根本は物質である・人間はサルが労働によって人間となった(動物的人間観)・唯物論は革命に奉仕しなければならないの3つに集約されます。唯物論といえば神や仏、霊魂、霊界の存在を漠然と否定する人道的唯物論もありますが、共産主義唯物論はこれらとはまったく異質のものです。それは同じ考えを持たない人々を非難し打倒しようとするので「戦闘的唯物論」と呼ばれます。そこで、共産主義唯物論はしばしば他の細胞まで侵していく悪性腫瘍(ガン細胞)に例えられます。今回はその物質観をみてみましょう。

その主張

まず念頭においていただきたいのは、共産主義の物質観は一般に考えられる物質観とはちょっと違うということです。ふつう物質というと、たとえばペンや腕時計などのように「空間の一部を占め、一定の質量をもつもの」(『国語辞典』角川書店)という物理学的な物質を思い浮かべます。
 ところが共産主義では、そうではないのです。共産主義の物質観として現在、レーニンが記した次の概念規定がもっともオーソドックスなものとして使われています。
 「物質とは、人間にその感覚において与えられており、われわれの感覚から独立して存在しながら、われわれの感覚によって模写され、撮影され、反映される客観的実在を言いあらわすための哲学的カテゴリーである」(レーニン『唯物論と経験批判論』一九〇九年)
 なんとも分かりづらいですね。要するにレーニンは、物質とは認識の対象として客観的に実在するものと主張しているだけであって、物質とは何か、あるいは宇宙の根源は精神か物質かといった問題に何ひとつ答えていないのです。これは存在論の問題といわれますが、共産主義は存在論としての物質観を明らかにせず、それがどう認識されるのかという、いわゆる認識論的な主張をしているにすぎないのです。
 言うまでもなく唯物論は、宇宙の本源は物質である、というものです。本源は物質だというなら、それを証明しなければなりません。ところが、物質とは何かを一切明らかにせず、客観的実在として認識できる、といっているのですから、これは詭弁です。
 こうした物質観に至ったのは理由があるのです。それを探ってみましょう。

マルクスが唯物論を唱えるようになるのは、言うまでもなく「プロレタリアートによる革命」の正当性を証明するためです。もし宇宙の根本が精神であるなら、神や人間愛によって社会改善が図られ、人間疎外からの解放も精神によって可能かも知れません。しかし、マルクスにとって現実の社会(キリスト教社会)にそんな可能性は見いだせず、それどころか疎外に追い込んだ張本人こそ宗教だったのです。
 そこでマルクスはヘーゲル批判(『ヘーゲル法哲学批判』)で宗教を阿片と断じ、ついでフォイエルバッハ批判(『フォイエルバッハに関するテーゼ』)で人間主義とも決別し、唯物論をかためていったのです。
 十九世紀にはすでに唯物論が広がっており、マルクスとエンゲルスはその影響を強く受けます。すでに述べたように唯物論とは世界の本源は物質であるとの説です。では、マルクス当時、どのような物質観が支配的だったのでしょうか。
 この時代の物質観のスタート台となっていたのは、ニュートン(英・1642~1727)の物質観です。彼は物質は均質な究極粒子からなり、その粒子は引力をもつとしました。これを土台にして19世紀に入ると、ドルトン(英・1766~1844)の原子論を起点にアボガドロ(英・1776~1856)の分子説に発展して、物質の分子的・原子的構造が判明し、さらにメンデレエフ(露・1834~1907)による元素周期律の発見(1869)で原子のもつ規則性も明らかになりました。
 つまり、当時の物質観は、それ以上分割されない最小の粒子(原子や分子など)からなっていると考えられ、こうした物質観を背景にマルクスとエンゲルスは物質を「運動する物質」(エンゲルス『自然の弁証法』)と捉えていたのです。ちなみにマルクスのベルリン大学の卒論は『デモクリストとエピクロスの自然哲学の相違について』。ギリシャの哲学家デモクリトスが万物の根元をそれ以上分割できない微細な物体としそれをアトム(原子)と名付けた最初の人です。
 さて、20世紀に入るとこの物質観が根本的に揺らいできます。
 プランク(独・1858~1947)は、光を放射する原子は一定の大きさのエネルギー(エネルギー量子)またはその整数倍大のエネルギーしかもちえないとする量子仮説(1900)を発表、アインシュタイン(独・1879~1955)はこの量子仮説を発展させて光は粒子の性質をもち、ある大きさのエネルギーの塊となって空間を伝わるとする光量子説(1905)を発表します。さらにアインシュタインは特殊相対性理論(1905)で質量とエネルギーの等価性を導きだします。つまり、質量(m)はエネルギー(E)とE=mc²(cは真空中の光速度)の関係において同等であって質量が変化すればそれに相当するエネルギーが出入りするというものです。
 他方、ラザフォード(英・1871~1937)は、放射性元素は放射線を放出することによって次々と他の元素に変換していくという放射性元素変換理論(1903)を立てます。これによって「永久不変の究極的原子」が物質の基本単位であるという物質観が崩れ始めます。
 このように20世紀は19世紀までの物質的概念は完全に変わってしまいました。光(電磁波)も粒子も、共に粒子性と波動性を併せもっているという事実と、質量とエネルギーが相互に変換するという事実から、物質の究極は一定の大きさと形をもった不変の粒子であるという物質観を捨てざるを得なくなってしまったのです。

とすると、世界の本源は従来の概念での物質であると言えなくなってしまいます。おのずから共産主義唯物論も危うくなってきます。その頃、共産主義の最大の基盤となっていたドイツでアヴェナリウス(独・1847~96)の「経験批判論」とマッハ(オーストリア・1838~1916)の「マッハ主義」が影響を広げてきます。とりわけマッハ主義に呼応するマルクス主義者が増えてきました。これは物質観の変化を受けて唱えられたもので、マッハは思考が一切付着していない純粋の感覚を、最も基本的なものと見なして「世界要素」と名付け、この世界要素は物質的でも観念的でもない中立的なもので、物質も精神もこの要素の複合に外ならないと主張したのです。これはマルクスの物質観への痛烈な批判にもなります。
 こうしたマッハ主義が広がるとマルクス主義者は困ります。なぜなら世界の本源が物質であり、だからこそ物質的変革すなわち革命以外に社会をよくする方法はないと主張して、人々を革命を駆り立てようとしてきたからです。
 そこでレーニンの冒頭の、わけのわからない物質観が登場するのです。つまり、どんなに自然科学的物質観が変化しても、変わらない哲学的物質観を確立して共産主義革命への疑問を封じ込めてしまおうというわけです。 レーニンは言います。
 「物質の唯一の『性質』は、客観的実在であるという性質、すなわちわれわれの意識のそとに存在するという性質である」(『唯物論と経験批判論』)
 もはやこれでは科学的物質観とはとうてい言えないでしょう。だから冒頭のレーニンの定義にあるように物質概念を「哲学的カテゴリー」ということにし、「意識にそとに存在する『客観的実在』」をすべて物質と捉え、自然現象のみならず社会現象までも物質としたのです。
 ですから、生産力も生産関係、資本、労働、労働争議、デモ、革命までも物質ということにしているのです。これが共産主義唯物論の正体です。科学的でも論理的でもありません。もはや共産主義唯物論は崩壊しているのです。

反論のまとめ

・物質がどう認識できるかを論じただけで、その本質を何一つ明らかにしていない
 レーニンの定義は認識論的に物質について述べただけです。宇宙の本源は物質としながら、肝心の物質とは何か(存在論)についてまったく述べません。人間の意識から独立した客観的存在としますが、それが観念でなくて物質であるとの論証は何一つありません。
・物質の定義は科学を放棄している
 レーニンの定義は科学をまったく踏まえていません。今日の科学の成果でいえば「物質の根本は無形のエネルギーである」ということになりますが、こうした科学的な物質観から目を逸らせています。
・物質を不当に拡大解釈している
 デモやストライキ、生産力も物質と解釈しますが、デモやストライキは人間の意識、つまり「デモをやろう、ストライキをやろうという人間の意識」が大きく関わっています。生産力とは労働力と労働手段(生産用具)をいいますが、両者とも単純な物質ではありません。労働力は体力と技術力(技術・知識などの精神的要素)との統一体ですし、労働手段も技術力の体化物として精神的要素と物質的要素(物体・物理的力)の統一体です。これらを物質とするのは不当な拡大解釈です。

代案

 私たちは統一思想による代案を提示しています。それによれば、宇宙の究極的根源は本性相と本形状の統一体(中和体)である神です。宇宙の根源は心だけでもなく、物質(エネルギー的要素)だけでもなく、心的要素とエネルギー的要素が一つになった統一体です。統一思想の見解は唯心論でも唯物論でもなく、これを唯一論といいます。

マルクスと唯物論

 「『資本論』その他の著作のなかにあるマルクスの個々の哲学的発言をとってみるならば、つねにかわらない一つの基本的主題を見いだすであろう。すなわち、唯物論を固持し、あらゆるあいまいさ、あらゆる混乱、観念論へのあらゆる逸脱を軽蔑をもって嘲笑すること、これである」(レーニン『唯物論と経験批判論』)

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