韓国の土となった日本人
「浅川サン、シンダンジ、アイゴー」。
その死に際し、大声をあげて嘆き悲しむ韓国の人々の姿には、無類のものがあった。浅川巧は、韓国人によって追悼され、顕彰碑まで建てられた例外的な日本人だった。
1891(明治24)年、山梨県に生まれた巧は、母の影響でクリスチャンに育つ。農林学校を2番で卒業。大館営林署に勤務後、「併合」後の韓国へ渡り、林業試験場に勤めて半島の緑化に努める傍ら、陶磁器研究に力を注ぐ。
「俺は神様に、金はためませんと誓った」
巧は、当時、誰も顧みなかった韓国の民芸品などの収集に給料をつぎ込み、後世に残すため朝鮮民族美術館を設立し、すべてを寄贈(現在、韓国国立中央博物館に展示)。韓国語を話し、韓国服を着、乞食にはポケットのお金を全部あげ、学校へ行けない子供がいると奨学金を与えた。
巧がもっとも力を入れたのは、韓国産業のガンとされ、厄介者だったハゲ山対策。「従来は面をひそめて見て来た禿山を涎を流して眺める」と、巧はハゲ山克服を研究し、韓国の山と樹木を愛し、緑の山へと変えていった。
1931年、韓国各地で無理して植林の講演をした巧は、風邪をこじらせ病床に伏す。40度の高熱を押して依頼されていた原稿を書き上げて後、40歳の若さで没す。
「…巧さんは、官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで堂々と生きぬいていった。…朝鮮の為に大なる損失であることはいふまでもないが、私は更に大きくこれを人類の損失だといふに躊躇しない」
この京城帝国大学教授・安部能成の追悼文は、後に『人間の価値』と題して、1934年から国語(旧制中学)の教科書に収録された。
死後35年たった1966年、巧を知らない林業試験場の韓国人職員の寄付で『浅川巧功徳之碑』が建てられ、今も墓の掃除と献花が続けられている。