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	<title>制作実績 &#8211; 国際勝共連合公式サイト｜共産主義に勝利し自由と平和を守り抜く｜勝共連合</title>
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	<description>国際勝共連合（勝共連合）は、日本で1968年に創設され、56年の歴史を誇る保守系の政治団体です。 「共産主義は間違っている」をスローガンに勝共運動を国内外で果敢に展開し、日本の行くべき正論を提示し続けます。</description>
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	<title>制作実績 &#8211; 国際勝共連合公式サイト｜共産主義に勝利し自由と平和を守り抜く｜勝共連合</title>
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	<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜（51）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group51/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 15 Jun 2026 13:42:24 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[マルクスとフロイトとの融合を仲保 エーリッヒ・フロム（上） 　ファシズム成立の心理状況を「自由の放棄」という視点で著した『自由からの逃走』で知られるエーリッヒ・フロムはフランクフルト学派の１人となりました。つまり、「マル [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">マルクスとフロイトとの融合を仲保</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>エーリッヒ・フロム（上）<br />
</strong></span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ファシズム成立の心理状況を「自由の放棄」という視点で著した『自由からの逃走』で知られるエーリッヒ・フロムはフランクフルト学派の１人となりました。つまり、「マルクス主義とフロイト精神分析学との融合」という学派挙げての試みに主導的役割を担ったのであり、下部構造ではなく上部構造の分析をフロイト思想を用いて理論づけようとしたのです。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">ルカーチの『歴史と階級意識』端緒<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フランクフルト学派について今一度おさらいをすると、ドイツのフランクフルト大学の社会研究所がその発祥です。ドイツ屈指の金融街を持ち最もユダヤ人と親和性の高いフランクフルトに設置された大学の研究機関として付置されたのが「社会研究所」 (Institut fur Sozial-forschung) で、「マルクス主義による新たな社会科学研究」を標榜し１９２３年にスタートします。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　その中核となったのが、ゲーラベルクで開催された「マルクス主義研究週間」で、ハンガリー共産党のジョルジ・ルカーチ、後にコミンテルンの大物スパイとなるリヒャルト・ゾルゲ、マルクス主義歴史家のカール・ウィットフォーゲル、日本共産党員でドイツ遊学し「福本イズム」で党を席巻した福本和夫、評議会共産主義者のカール・コルシュらが参画しました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このシンポジウムで「新しいマルクス主義」の可能性をもたらす思想として「バイブル」視されたのがルカーチの『歴史と階級意識』です。経済論中心のマルクス主義から文化・精神的側面での階級意識の変革による「革命への新たな地平」を拓くものでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　そして学派の構想を担ったのが、１９３０年に２代目の所長となったマックス・ホルクハイマー。彼が標榜したのは「学際的唯物論」と呼ばれるもので、「マルクス主義によるあらゆる学問の体系化」を目指すものでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　当時は、「ドイツ革命の失敗」と「ロシア革命の成功」によるボリシェヴィズムへの「限界」と「反省」を踏まえた中から、マルクス主義の模索が試みられた背景があり、そこでホルクハイマーが注目したのは、人間の深層心理に斬り込むフロイトの精神分析学とマルクスとの融合というテーマだったのです。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">フロイト〜ライヒ〜フロムという繋がり</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　１９３３年、ナチス政権成立で、ホルクハイマーをはじめメンバーの多くが亡命し、活動拠点が米国へと移りました。ホルクハイマーやアドルノらは大戦後ドイツに帰国する一方、ヘルベルト・マルクーゼらは米国に留まります。学派の活動は再びドイツが中心となり、１９６０年代に世界的な大学紛争の渦が巻き起こると、反ソ・反スターリニズムを掲げる新左翼運動の理論的支柱となりました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さて、初めてフロイトとマルクスの融合を説いたのは、フロイトの「高弟」にして共産党員のヴィルヘルム・ライヒが嚆矢でした。ライヒは直接的な「フランクフルト学派」との結びつきはありませんが、ライヒとフランクフルト学派を結びつけた仲保者こそが、ファシズムと「権威主義的性格」を結びつけたフロイト左派の１人エーリッヒ・フロムなのです。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-1.jpg"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-17230" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-1-853x1024.jpg" alt="" width="853" height="1024" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-1-853x1024.jpg 853w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-1-250x300.jpg 250w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-1-768x922.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-1-980x1176.jpg 980w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-1.jpg 1040w" sizes="(max-width: 853px) 100vw, 853px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">妻フリーダも共産党員で精神分析家</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フロムはユダヤ教正統派の両親の間にフランクフルトに誕生。ハイデルベルク大学でアルフレート・ヴェーバー（マックス・ヴェーバーの弟）、カール・ヤスパース、ハインリヒ・リッケルトらに師事し学位取得。ミュンヘン大学、ベルリン精神分析研究所で精神分析の訓練を受けました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　当時、ベルリンでフロムに精神分析を指導したのが、ウィーンのフロイトからベルリンに「暖簾分け」されたライヒでした。ライヒは学生時代から共産党員で、学祖・フロイトの「性的抑圧と昇華」という理論的な枠組みを遙かに突き抜け、「一切の性的抑圧からの解放＝性解放」を唱えたその人でした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　１９２６年に共産党員にして精神分析家だったフリーダ・ライヒマンと結婚しますが、このライヒのベルリン精神分析研究所とフリーダの影響に関し、徳永恂氏が『フランクフルト学派の展開』（新曜社）で次のように述べています。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「既にフリーダのサナトリウム運動が、貧困階層の救済という社会的色彩を持ち、マルクス主義への傾斜を示していたのだが、フロムが30年から本格的な分析医としての修行を積んだ『ベルリン精神分析研究・診療所』は、当時マルクス主義と精神分析の結合を目指す先端的試行の牙城だった。とりわけそこで出会ったライヒの影響は││後にフロムは沈黙し、ライヒはフロムへの失望を表明しているが││極めて大きかった。精神分析とマルクス主義の理論的結合点としての『性格』理論、とりわけ『サド・マゾヒズム的性格』論の発想を、フロムがライヒから受け継いでいることは否定しようもない。こうしてフロムにおけるユダヤ教→精神分析→マルクス主義という展開が行われる。『自由ユダヤ学院』でフロムを教えたことのあるショーレムは、『最後までユダヤ教正統派に止まっていた』フロムが、ベルリンで会った時には、『熱狂的なトロツキストになっていた』と記している」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　フロムはベルリンを離れた後、フランクフルト大学精神分析研究所で講師、ホルクハイマーの社会研究所にも所属。ナチス政権成立で同研究所が閉鎖に追い込まれ米国に亡命、コロンビア大学などで教鞭を執ることになります。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フリーダは「ゲシュタルト療法」を確立したクルト・ゴールトシュタインに精神医学を師事し、ゴールトシュタイン教授の許でフランクフルト大学で２年間助手を務めます。その後、フリーダは精神分析学を学び、１９２４年にハイデルベルクで診療所（サナトリウム）を開業します。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　徳永氏によれば、フリーダのこのサナトリウムは「ユダヤ教的色彩が強く」、「ユダヤ教療法所」とも呼ばれていたと言いますが、「フリーダ自身の個性的魅力と相まって、フランクフルト界隈の学生や若い知識層を惹きつけ、一種の知的革新運動の拠点になっていた」、つまりフリーダのユダヤ人に寛容な街フランクフルトの「若者の知的サロン」と化していたというわけです。このサナトリウムで精神分析を受けた一人がＥ・フロムであったことはもちろん、進んで精神分析を彼女から受けた青年たちが多くいたのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フロムは10歳年上のフリーダとサナトリウム開業２年後の１９２６年に結婚。結婚生活は実質４年だけでしたが、離婚後も「精神分析の同志」として、長く交友関係を保ちました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ところが実は結婚当初から、「分析関係と夫婦関係は両立しない」ために、フロムは「精神分析の修行」を別の「師匠」、ライヒに求めたのです。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-2.jpg"><img decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-17231" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-2.jpg" alt="" width="800" height="323" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-2.jpg 800w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-2-300x121.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/06/marx51-2-768x310.jpg 768w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">ホルクハイマーとフロムとを結んだ契機</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フロムがさらに次に精神分析（教育分析）を受けたカール・ランダウアーを主宰として精神分析の研究会を始めますが、これがやがて「フランクフルト精神分析研究所」となります。このフランクフルトにおける活動が、やがて「フランクフルト学派の総帥」であるマックス・ホルクハイマーの知るところとなり、フロムを「フランクフルト学派の研究員」として迎えるきっかけとなるのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　そもそも、後にナチスの強制収容所で非業の死を遂げるランダウアーに、ホルクハイマー自身が、「精神分析」を受けたクライアントだったようです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　とにかくこうした縁から、ランダウアーを所長とする精神分析研究所が、社会研究所の建物の中に「寄留する形」で設立されることになり、フロムとホルクハイマーの本格的「共同作業」が、ここからスタートすることになりました。つまり、ホルクハイマーの「学際的唯物論」研究プロジェクトの、大きな目玉となったと言えるのです。</span></p>
<hr />
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>学派のフロイト受容を橋渡しするフロム</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フランクフルト学派の知的起源はマルクスとフロイトだと言われている。ホルクハイマーの場合にはショーペンハウアー、アドルノの場合にはニーチェというふうに、さらに個性的特色が加わるが、このことはほぼ一般に通じる学派の基本的傾向と言えよう。既に『啓蒙の弁証法』においても、人間は外的自然への支配を内的自然の抑圧を通じて購ったのだという認識などに、人は後期フロイトの発想の影響を認めることができよう。しかしもともとフランクフルト学派に「フロイト問題」を導入し、30年代を通じてそれを展開する上で主だった役割を果たしたのはフロムであった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フロムはt……敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ち、青年期をローゼンツヴァイクやブーバーたちのユダヤ精神運動の中で過ごした。しかし1920年代半ばにフロイト思想に触れることによって信仰を捨てる、最初期の彼の仕事は、宗教的な教義や慣習をフロイト理論によって説明しようとする「宗教心理学」的な研究に捧げられている。やがて彼はマルクスに触れることによって、精神分析とマルクスとを結びつける独特の「社会心理学」を企図するようになる。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　フランクフルト学派は、社会学の面では、ありのままの事実を価値評価抜きで研究することに満足する実証主義的態度に反対し、正しい社会はいかにあるべきかという理念に照らして、現実を批判することを課題とする「社会の批判的理論」を旗印とする。こういう立場に基づいて、ファシズム批判や、後の「管理社会」批判が展開されることになるが、その場合にフランクフルト学派は、従来のマルクス主義のように経済学的説明一本槍で済ませるのではなく、進んで心理学その他の新しい科学を取り入れていこうとする……要求に応えるものとして、マルクスとフロイトを統合しようとしていたフロムがこの学派に迎え入れられたのであろう。（徳永惇『フランクフルト学派の展開』新曜社）</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年6月1日号より）</span></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜（50）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group50/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 31 May 2026 04:20:49 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[代議政治を骨抜きにする自治基本条例 松下理論と「市民自治」 　　松下圭一法政大名誉教授が提唱し、旧民主党政権（特に鳩山由紀夫・菅直人両内閣）で突如湧き出てきた「新しい公共」「国会内閣制」「地方主権」の概念は、実は恐るべき [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">代議政治を骨抜きにする自治基本条例</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>松下理論と「市民自治」</strong></span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;">　　松下圭一法政大名誉教授が提唱し、旧民主党政権（特に鳩山由紀夫・菅直人両内閣）で突如湧き出てきた「新しい公共」「国会内閣制」「地方主権」の概念は、実は恐るべき国家解体思想を胚胎したものです。特に「市民自治」理論を地方自治体に埋め込んだものが「自治基本条例」であると言え、かつてのソビエト共産主義体制、すなわち共産革命に直結する道を開く危険なものだったのです。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">維新の会と地方政治改革と地域主権<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　自民党と連立与党として高市早苗政権を支えるのが「日本維新の会」。同党はかつて橋下徹元大阪市長と石原慎太郎元東京都知事が共同代表を務めた頃は、政界再編の波と相まって躍進ぶりが際立ちましたが、もともとは地域政党「大阪維新の会」が中核となりました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　江戸時代は幕府直轄地（天領）だった大坂が「都」に名乗りを上げ、旧来からの東京への対抗意識とも相まって、「地方の反乱」に火を点けたと言えます。さらに名古屋を核とする中京圏では、河村たかし名古屋市長（当時）が地域政党「減税日本」を率い、官僚主導の「中央集権」体制に「ＮＯ」を突きつけました。政権交代時の民主党も官僚主導の中央集権型行政を転換することをマニフェストに掲げていました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　確かに、「殖産興業」と「富国強兵」をスローガンとした明治以来の日本は、一種の「封建的連邦国家」と言えた江戸幕藩体制時代に比べると強力な中央集権国家でした。いつの間にか旧大蔵省をはじめとした中央官庁が予算や事業認可の権限を武器に地方行政を牛耳るような事態に陥っていました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この弊害をなくそうと橋本龍太郎内閣の時に省庁再編が行われるも、本質的な「構造改革」はなされず、痺れを切らしたのが橋下氏の「維新旋風」でした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　民主党政権でも「公務員改革」をマニフェストに掲げたものの、実際にはほとんど何も変わらず、掛け声ばかりが目新しい「地域主権」が叫ばれるようになったのです。まさに「地域主権は下からの共産革命」（嶋田陽一氏「リバティ」参照）と言えるのです。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">国家による掠取と称し市民立法を正当化</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さて、故・松下圭一法政大名誉教授の著『市民自治の憲法理論』は、そのタイトルに表れるように、「市民」が至るところに頻出します。その目指すところは「市民立法」という語に顕著に表れています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　通常、「立法府」と言えば、「司法・立法・行政」すなわち、「三権分立」という場合の「三権」のうちの一つで、「国会」がそれにあたり、日本国憲法でもその旨記載されています。ところが、松下の場合、現在の「国会は真の民主主義を体現してはない（官僚主導による国家主義に掠め取られている）」（『政治・行政の考え方』）と断じて、この「立法権を市民の手に取り戻すこと」をしきりに息巻いています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　しかし、これは松下理論に基づく「国会内閣制」と同様に、一種の「解釈改憲」にほかなりません。つまり、表では「護憲」を後生大事に唱えながら、その一方で、裏では密かに憲法の構造を「骨抜き」にすることが目論みられている事実は、指摘しなければなりません。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">誤った民主主義を盲目的に信仰</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　かつて古代ギリシャのアテナイで行われた民主主義政体は直接民主政であり、長谷川三千子・埼玉大名誉教授は『民主主義とは何なのか』で、今日「民主主義の語源」とされる「デモクラティア」は「善い意味」では使われず、むしろ宗教的伝統を重んじた「イソノミア」という概念が尊ばれていたと指摘しました。日本国憲法下の日本は、これまでなかったかのごとく「民主主義」ばかりが強調され、その理想形態として「直接民主政」がもてはやされました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この点はかつてジャン・ジャック・ルソーが私有財産制度廃止と直接民主政を理想とした思想内容が、ロベスピエールらによってフランス革命の理念として受肉化されたのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この「ルソー主義信仰」とも呼べるものが、植木枝盛や板垣退助らの旧土佐藩士を中心とした自由民権運動以来、連綿として続いているとも言えます。この「直接民主政」をいわば、現代において実現させようとしたものこそ、松下圭一による「市民立法」の考え方だと言えるでしょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　松下圭一はルソーの直接民主政治論を次のように理想視していました。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　市民立法という考え方は、自治体、国を問わず代表機構としての長・議会を否定ないし無視するのではなく、基本の代表民主制度を踏まえ、かつそのバイパスとして直接民主制度の開発を意味します。つまり、代表民主制を基本とするにもかかわらず、市民立法のパイプの〈多元化〉とみなすべきです。そのとき……市民みずからによる条例、国法、ときには国際法の立案・作成あるいは選択となり、アクチュアルな市民主権の発動となるわけです。……代表民主政治においては、ルソーが述べたように選挙のときのみ市民が主権をもつのではないならば、各政府レベルにおけるこの日常の政治ないし立法への市民参加が代表民主政治の土台なのです」（松下圭一『政治・行政の考え方』）</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　仮に、全国民が「市民代表」として国政にしろ地方政治に参加したとします。国会というものは、ご存じのように、審議が深夜にまで及び、採決が真夜中に行われることも珍しくありません。これ一つとっても、直接民主政の難しいゆえんなのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　古代ギリシャで哲人ソクラテスは、アテナイ市民に対して様々な論争をして歩いたと言われますが、そういったアテナイ市民たちは「スコーレ」（暇）があったから可能でした。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx50-1.jpg"><img decoding="async" class="size-large wp-image-17180 aligncenter" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx50-1-1024x947.jpg" alt="" width="1024" height="947" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx50-1-1024x947.jpg 1024w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx50-1-300x278.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx50-1-768x710.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx50-1-980x907.jpg 980w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx50-1.jpg 1040w" sizes="(max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">忙しい現代に巣くう「プロ市民」</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　翻って、現代の私たちは、すべてそのような「暇」を持っているとは言えません。「世帯主」として家計の屋台骨を支える成人男性にとっては特に、「代議制民主主義」こそ、有り難い制度になっていると言えるでしょう。こうした意味で「市民代表」としてしばしば地方政治に参加する向きには、しばしば「プロ市民」と呼ばれる「職業活動家」の存在が出てきます。彼らは仮に選挙で勝てなくとも、「市民代表」として一定の影響力を政治に与えることができるのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このために彼らはいくらでも市民団体や「○○評議会」、ＮＰＯ法人などを「設立」しては「市民代表」として政治に関わろうとします。もちろん、中には、純粋な動機でそうした組織を造ったりもするのでしょうが、そうではない悪質な輩が存在することに留意すべきでしょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　かつてロシア社会民主党に所属したレーニンは、労働者などの評議会（協議会）＝ソヴィエトを効果的に用いて、ツァーリ帝政末期に開設された国会（ドゥーマ）を機能停止させ、「全ての権力をソヴィエトに」置くことを唱えました。このように、暴力「革命」によって国会を機能不全に陥らせ、その一方で、評議会組織をそれに代替させる。これが、共産主義者の手法であることを、私たちは歴史的な教訓とすべきでしょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このレーニンが手兵とした「ソヴィエト」の手法を、現代に甦らせたものこそ、松下の「市民自治」理論を地方自治体に埋め込んだ「自治基本条例」だと言えます。別掲図のように、ソヴィエト（評議会）の役割をまさに「市民による協議会」が担う相似的なものであることを物語ります。そして実際、カコミに挙げた条例が、２００１年に北海道ニセコ町の「まちの憲法」として作られ、それを松下自身が礼賛しています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さらに、松下圭一の弟子筋の菅直人元首相の選挙区を継いだ弟子の松下玲子前衆院議員が武蔵野市長時代の２０２１年に外国人投票権を認める住民投票条例案を市議会に提出し否決されていますが、こうした人々はまさに松下理論の申し子と言っていいでしょう。</span></p>
<hr />
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「自治基本条例」に胚胎する共産主義</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　１９６０年代に飛鳥田一雄横浜市長（後の社会党委員長）は革新自治体を政府に対抗する「革命の砦」にすると豪語した。…首長を獲っても議会与党が少数であることが多く、行動が制約された。そこで「住民参加」の名のもとに「街づくり評議会」や「住民参加委員会」といった会議（ロソビエト）が組織された。ロシア革命では上図のように政府や議会とは別の権力機関（ソビエト）を作って革命に導こうとした。それを目指したが、70年代に革新自治体ブームは終わってしまった。…首長が保革の誰であっても、また議会がどの党派に握られていてもソビエトが生き残れる仕組みを作ろうと考え…条例を作る。言ってみれば自治体にソビエト遺伝子を埋め込む。それが自治基本条例の狙いである。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　市民派（左翼）学者が全国の自治体に働きかけ01年に北海道のニセコ町で制定されて以降、全国に広がってきた。そのニセコ町長だった逢坂誠二氏（現衆院議員）は鳩山政権では地域主権担当の首相補佐官となり…菅政権では地方自治体に直接関わる総務大臣政務官となっているのだ。…自治基本条例を要約すると、次のようになる。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　①地方分権や地方自治を口実に「地域の憲法」としての自治基本条例が不可欠だと吹聴②自治体に「自治基本条例策定検討委員会」を作らせる③検討委には住民参加の名の下に「公募市民」（プロ市民＝左翼が公募で入り込む）を中心に据え、学識経験者（左翼学者）や自治体職員（自治労活動家）で構成させ、議員を意図的に加えない④町内会や青少年育成団体、市政協力員、地域防災組織、ＰＴＡなど既存の地域住民団体を排除し「公募市民」と左翼学者らで条例案作りをリード⑤条例を自治体の憲法と位置付け「最高法規」と称する⑥「協働」の美名で執行機関と議会を相対化（形骸化）⑦将来にわたり左翼が自治体を支配するため条例改廃まで審議させる「自治条例推進委員会」といった推進機関を設置⑧議会を骨抜きにする常設型の住民投票制を導入⑨ＮＰＯ（実際は左翼集団）への予算投入などの支援を義務づける——というのが自治基本条例の骨子である。<br />
</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　これが首長選挙や議会選挙で多数派になれない共産主義勢力が考えついた地方自治を乗っ取る仕組みである。（『世界思想』２０１１年４月号）</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年5月15日号より）</span></p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜（49）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group49/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 17 May 2026 15:24:09 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[憲法25条と生活権＝シビル･ミニマム 松下圭一の構造改革理論 （下） 　わが国の構造改革路線で代表的なイデオローグ（理論家）となった松下圭一による政策論が、民主党リベラル政権において次々に登場し国民から「ダメ出し」をくら [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">憲法25条と生活権＝シビル･ミニマム</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>松下圭一の構造改革理論 （下）</strong></span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;">　わが国の構造改革路線で代表的なイデオローグ（理論家）となった松下圭一による政策論が、民主党リベラル政権において次々に登場し国民から「ダメ出し」をくらったことを検証することで、反面教師にしなければなりません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　前回、「構造改革路線」の「直系」とも言える松下圭一・法政大名誉教授の理論と日本国憲法との関わりに触れました。前回の「参考文献」で紹介した嶋田陽一氏の論稿「民主党が奉戴する〝松下圭一イズム〟」では、「民主党の『政策集』とは、《松下圭一＋α》と言ってよい」とし、「行政府を『カムフラージュされた一党独裁』を標榜する党（民主党＝〝第二共産党〟）の下部組織に落とす〝反憲法の組織〟であって、革命的〝国家機構いじり〟の本意は、松下圭一の革命理論に精通すれば、ほとんどが氷塊的に誰にでもわかる」と述べていました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　嶋田氏は、「松下圭一とは、多くの民主党議員にとって、共産党色を隠したマルクス抜きの『透明な共産革命』を理論指導する大師匠」と断じますが、概ね正しい認識と言えましょう。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">９条護憲論が色褪せて相対的に脚光<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　</span><span style="font-size: 12pt;">さて、そうした松下理論のうちでも、「市民自治の憲法理論」を振りかざしたように、現行憲法についてのスタンスを精査する必要があります。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　リベラル〜極左までの左翼全般をカバーする憲法についての考え方においては、「９条の会」の存在のように、９条を金科玉条の「人類の宝」のごとく崇め奉る傾向が「世論」を制してきたように見えます。しかしこうした「オールド左翼」の旧態依然的発想は、総選挙の結果を見る限り、少数派勢力になってきました。憲法は時代にあったものに変えられてしかるべきだ、というのが世論の主流となってきたと言えそうです。なぜなら、憲法が60数年も一字一句変えられなかった弊害が、９条に限らず、他の条文にも及んでおり、多くの問題点がはらみ、そのことが、日本社会のダイナミックな変革を阻む要因となっていることを、もはや国民が常識として持つに至ったからだと言えるのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ところで、松下圭一氏の理論に立ち戻ってみます。松下理論は教条的な「９条第一主義」に立つよりも、その独自的な「新しさ」は、前回のチャート「現代民主政治の系譜と普遍基本法原理」に表されたように、「社会権」を強調したことにあると言えます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　すなわち、それが「憲法25条問題」です。同25条１項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」というもので、松下理論のキーワードの一つである「シビル・ミニマム」の根拠とされる条文なのです。元々この条文は、ＧＨＱ（連合国軍総司令部）民政局の手による「マッカーサー草案」とこれに基づく日本政府案にはなかったものでしたが、憲法審議の過程において鈴木安蔵（フランクフルト学派に連なる福本和夫の弟子）らの「憲法研究会」案を下に、社会党議員の提案で今日の憲法に加えられたものだ、と松下圭一氏は『政治・行政の考え方』で「誇らしげ」に述べています。しかし、この条文は永らく、「お飾り」（松下氏に倣えば「ワイマール憲法をモデルとしたアクセサリ」）的なものと見なされ、松下氏は以下のように述べています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　「今日の若い世代の方々は想像もできないでしょうが、当時、左派知識人の多くは農村型社会を前提に置いた日本型企業労働組合中心の革命を想定しただけでなく、とくに後発国型コミンテルン理論を反映して、社会保障などは労働者階級の『買収』で、社会主義運動の『堕落』となると考えていました。他方、憲法学者たちも、農村型社会の発想にとどまるため、当時は保守系・革新系を問わず労働権には関心をもちますが、この二五条は理念としてのたんなる宣言条項とみなしています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この二五条が、前期的国家思恵から脱して、本来の権利性をもつようになるのは、日本が都市型社会に入りはじめ、生活権の政策・制度開発にとりくんだ一九六〇年代以降の市民活動、とくにシビル・ミニマムを掲げた革新自治体の群生からです」（『政治・行政の考え方』岩波新書）</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-17150" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-1-1024x918.jpg" alt="" width="1024" height="918" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-1-1024x918.jpg 1024w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-1-300x269.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-1-768x688.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-1-980x878.jpg 980w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-1.jpg 1040w" sizes="auto, (max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">「革新自治体」誕生により根を下ろす<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　例えば、「国民の生活が第一」とは、総選挙前「日本未来の党」に合流する以前に民主党から大挙離党して小沢一郎氏らのグループがつくった政党でしたが、この小沢氏が２００９年の「政権交代」選挙で、スローガンに掲げたのが「国民の生活が第一」。松下氏はさらにこう続けます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　「この経済成長の過程で、日本の都市型社会への移行がはじまり、そこでは、とくに私がシビル・ミニマムと名づけた二〇世紀的憲法条文である憲法二五条の生活権をめぐって、市民活動の群生、自治体改革の展開がはじまっていきます。今回、自治体の政府としての自立をみとめた内閣法制局の解釈転換（資料①）は、第八章「地方自治」をめぐるこの市民活動、自治体改革の成果です」</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このように松下氏自身が「シビル・ミニマムと名づけた二〇世紀的憲法条文である憲法二五条の生活権」と誇らしげに述べているように、社会権の中でも、「市民の最低限の生活を公が保障するシビル・ミニマム」の考え方が、いわゆる「革新自治体」の多発的な誕生により根を下ろしたと考えることができます。ここから、野放図な手厚い生活保障制度が常識となって、高度成長期にはバランスが取れていたと見なされたものが、21世紀を迎えた日本では、若年世代に大きな負担となってのしかかってしまったのです。松下理論はこのように、「社会主義国よりも社会主義的」とも称された日本の社会保障制度を下支えしたと言えるのかも知れません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　問題は、国も地方自治体も高福祉を基軸とする「大きな政府」により、国家財政が疲弊に疲弊を重ねていることで、国民の医療費など社会保障費は国家税収を超え、予算総額規模に達するのは驚かされます。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">この「シビル・ミニマム」について松下氏自身によるチャートを示したものが上の別掲図です。松下氏の記述で興味深いのは、従来の左翼や革命を標榜する労働者らは、「シビル・ミニマム」などの社会保障は「労働者階級の買収にほかならず、社会主義運動の堕落」と見なし軽視したというのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　確かに、体制を暴力革命によって転覆させようと思えば、社会保障という「アメ」（年金制度を確立したのはドイツの宰相ビスマルクと言われる）をもらうことは、体制を維持・延命させることに加担していると見なされたからです。構造改革路線はこうした拙速な暴力革命に異を唱え、「議会制民主主義による漸進的な二段階革命」を唱えていたわけです。</span></p>
<hr />
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>■ 参考文献 ■<br />
「生活権」の保障に「シビル・ミニマム」据える松下イズム<br />
</strong></span><span style="font-size: 12pt;">　17世紀にロックが祖型をつくり、まだ農村型社会にある１８００年前後の市民革命時代からひろがりはじめた普遍基本法原理は、都市型社会にはいる20世紀には新しい課題に直面するのは当然です。とくに20世紀の現代憲法には二つの特性が加わります。まず、(1)権利主体が名望家層（地主・資本家）の男性家父から男女の市民全般へと底辺を拡大するとともに、(2)権利概念も自由権だけでなく、図のように社会権とくに生活権が加わります。①が都市型社会のデモクラシー、②が都市型社会のシビル・ミニマムとなります。①は周知ですが、②が憲法25条となります。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　憲法25条１項「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」は、初めＧＨＱ案、これにもとづく日本政府案にはなかったのですが、憲法審議過程で前述の「憲法研究会」案をもとに社会党議員によってくみこまれます。この25条１項があってはじめて、都市型社会における全市民の生活権ないしシビル・ミニマムの公共保障という課題に、日本国憲法は即応できたのでした。（松下圭一『政治・行政の考え方』）</span></p>
<hr />
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「国会内閣制」は「下からの共産革命」</strong></span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　松下はまず、①暴力革命や（ポーランドなど東欧諸国のような）ソ連の侵略・占領による共産政権樹立方式を放棄した。（39歳のときの）1968年、チェコへのソ連軍の侵略が契機になったのかも知れない。次に、②〝上からの共産革命〟と〝下からの共産革命〟のサンドイッチ方式を考案した。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　松下考案の非暴力の〝上からの共産革命〟とは、前述した「国会内閣制」のことである。「国会内閣制」とは、彼が書いた図から一目瞭然、三権分立否定にたったジャコバン独裁体制そのものをモデルとしている。レーニンの独裁体制は、（国家機関はすべて党の指揮下にあるため）党しか存在せず、その政治局は党の最高かつ絶対機関で、むろん国家機関ではない。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-2.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="alignleft wp-image-17151 size-medium" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-2-300x232.jpg" alt="" width="300" height="232" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-2-300x232.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/05/marx49-2.jpg 435w" sizes="auto, (max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　一方、ロベスピエールらの独裁機関「公安委員会」（１７９３年４月６日設立）は、表向きは国会（「国民公会」、92年９月20日設立、非合法）から選出された形をとった国家機関である。すなわち、松下圭一の「内閣」は、日本国憲法が定める〝内閣〟ではなく、フランス革命の「公安委員会」をイメージしており、それは日本国憲法を全面無視する妄想と暴論から生まれる非合法機関である。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　松下が、自分の奇怪な言葉「国家主権型」と「国民主権型」を説明するに描いた『政治・行政の考え方』の33頁にある図の左側にある「内閣」とは、ジャコバン独裁体制の頂点で血塗られた独裁の執行機関「公安委員会」をモデルにしている。また、松下の三権分立全面否定論にかかわる奇怪な屁理屈は、この図に続く59〜60頁に書かれている。（嶋田陽一「民主党が奉戴する〝松下圭一イズム〟」『リバティ』２０１１年６月号参照）</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年5月1日号より）</span></p>
<p>&nbsp;</p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像～共産主義の新しいカタチ～（48）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group48/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 26 Apr 2026 08:47:45 +0000</pubDate>
				<guid isPermaLink="false">https://www.ifvoc.org/?post_type=work&#038;p=17123</guid>

					<description><![CDATA[普遍基本法原理を至上視するが… 松下圭一の構造改革理論 （上） 戦後日本と構造改革と松下圭一の憲法観 　前回も言及したように、トリアッティの率いるイタリア共産党が日本の左翼リベラル界隈（特に戦後日本の）にもたらした重要な [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">普遍基本法原理を至上視するが…</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>松下圭一の構造改革理論 （上）</strong></span></h3>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">戦後日本と構造改革と松下圭一の憲法観<br />
</span></h5>
<div id="attachment_17124" style="width: 226px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17124" class="wp-image-17124 size-medium" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-1-216x300.jpg" alt="" width="216" height="300" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-1-216x300.jpg 216w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-1.jpg 400w" sizes="auto, (max-width: 216px) 100vw, 216px" /></a><p id="caption-attachment-17124" class="wp-caption-text">松下圭一</p></div>
<p><span style="font-size: 12pt;">　前回も言及したように、トリアッティの率いるイタリア共産党が日本の左翼リベラル界隈（特に戦後日本の）にもたらした重要なものは、「構造改革（改良）」路線です。それはかつて第２インターでベルンシュタインらが提出した「修正主義」の烙印を押され「正統派」に否定された歴史的経緯をふまえ、周到かつ慎重に理論構築しようと試みたのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　戦後日本をプロデュースしたと言えるＧＨＱ（連合国軍総司令部）による占領政策とこれに絡むコミンテルンの意を受けたＯＳＳ（戦略諜報局）による意思も含む歴史観と共産主義的政策に、戦後日本は翻弄されてきたともいえます。それはトリアッティの構造改革論を打ち立てた無関係の話ではないからです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　実はそれを代表しているのが、松下圭一・法政大名誉教授（１９２９～ ２０１５）の理論です。トリアッティの稿でもふれたように、旧民主党政権、とくに「菅直人│仙谷由人政権」で目指したものが実は、松下圭一教授の「構造改革路線」であったことは、周知の通りです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　２０１５年に85歳で死去した松下圭一法大名誉教授は、福井市生まれで第四高等学校から東大法学部へ。東大では戦後の政治学の頂点に君臨したリベラル知識人の丸山真男の門下生となり、長らく法政大教授を務め、日本政治学会理事長や日本公共政策学会会長を歴任しました。ゴリゴリのマルクス主義イデオロギーとは毛色の異なる「大衆社会論」を唱え、旧社会党の江田三郎（江田五月元参院議長の父）らの主張した「構造改革」路線のイデオローグ（理論家）として知られてきました。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">社民連、さきがけ、そして民主党政権<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　１９７７年、社会党左派と対立して離党した江田三郎と五月父子、市川房枝の薫陶を受けた菅直人氏らが「社会市民連合」を結成、田英夫らの「社会クラブ」と合流して１９７８年に「社会民主連合」（社民連）が結成されたが、武村正義、鳩山由紀夫元首相ら自民党左派が立ち上げた新党さきがけに菅直人氏が加わり、やがて後に社会党の後身である社会民主党の右派らが合流して旧民主党を結成した（１９９６年）。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　かつて２００９年秋の総選挙を受けた「政権交代」から３年半に及んだ旧民主党政権、特に菅直人政権の社会民主主義的「リベラル路線」で登場した「新機軸」と称された政策は、ことごとく松下圭一の「提唱・造語」にあると言っても過言ではありません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　しかしながら、松下圭一が憲法をどのように捉え、「市民自治」「地域主権」「国会内閣制」「シビル・ミニマム」「新しい公共」を説いているのか、見極める必要があります。その意味で、これまで述べた戦後の憲法制定過程の内容に照らし合わせ、松下の著書からその内容を探ってみたいと思います。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　松下圭一の著書の中でも『市民自治の憲法理論』（岩波新書）を菅直人元首相がバイブル視していましたが、ここでは冷戦崩壊後に書かれた松下の『政治・行政の考え方』（岩波新書）に沿って松下理論の憲法観を紹介してみましょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　同書の第一章は「日本国憲法の50年」と題するもので、まず「私は〈政治文書〉である憲法の聖典化に反対なので、憲法については、いったん、その『文章』と『意義』とをきりはなして考える必要がある」とし「憲法とは、いわば国レベルの政治・政府の基本構成をかたちづくるために、市民がつくる社会工学的設計図です。天皇制絶対国家を権威づけるために、憲法という『いかめしい』言葉が使われてきましたが、今日では、国の基本法と言いかえた方がよい」と見ます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この部分からして既に松下理論の特異性がにじみ出ています。つまり、「国レベル」での政治の基本構成というにもかかわらず、「国民」が登場せず、替わって「市民」が活躍します。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　また、憲法学者の専門意見は参考意見にすぎないとし「私たち市民は、個人として、日常の生活を基盤に、自治体、国については直接、国際機構では間接に、政治・政府の基本テキストを自由に策定、運用、解釈すればよい」と考えています。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-2.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-17125" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-2-1024x896.jpg" alt="" width="1024" height="896" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-2-1024x896.jpg 1024w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-2-300x263.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-2-768x672.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-2-980x858.jpg 980w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx48-2.jpg 1040w" sizes="auto, (max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">「世界共通文化」でも解釈は恣意的？<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さて次に憲法制定過程の「正統づけ」ですが、ＧＨＱによる占領憲法は、日本の「講壇憲法学」では「明治憲法の微調整にとどまる時代錯誤性」のため、ＧＨＱに拒否されて当然だとする見方です。そしてポツダム宣言と国連憲章に顕れた「民主政治ないし普遍基本法原理」が「世界共通文化」とし次のように述べます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　憲法制定の詳しい経過は、今日ではほぼ明らかとなっており、１９９５年の９月には、憲法を審議した最後の帝国議会における芦田小委員会議事録もようやく公開されました。非公開とせざるをえなかったのは、日本国憲法はＧＨＱ案を修正はしますが、実質は原案としていたからです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　個人案は別として、当時、各党はニュアンスの差はあれ戦前をひきついで天皇統治に肯定的でした。日本共産党だけは「人民主権」を掲げたといわれますがまだ骨子だけで、草案は政府案の発表のあとになっています。ただ、高野岩三郎、鈴木安蔵さんらの「憲法研究会」案は、国際水準をほぼ保っていたことが救いで、実質、ＧＨＱ案に反映していきます。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　ここで登場したのはやはり鈴木安蔵らの「憲法研究会」案です。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　日本国憲法の成立については、「国民主権を起点とするにもかかわらず、天皇主権を掲げる明治憲法の改正手続をふみました。公職追放の衝撃の中で憲法改正を審議する帝国議会の改選は行われましたが、事前の制憲会議、事後の国民投票、いずれにもかけられていません」と述べています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ここで想起すべきなのが「ハーグ条約（陸戦法規）」で、占領国（軍）は被占領国の憲法を制定することはできないという国際法上のルールです。これは、前段で「普遍基本法原理」「世界共通文化」を至上の法則のように重視しておきながら、この国際法上当然の原則に対しては完全に沈黙しています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さらに、憲法解釈で「権威」視される宮沢俊義「八月十五日革命説」については次のように述べます。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　この憲法改正手続は明治憲法七三条を使い、天皇による「裁可」でした。ＧＨＱも日本国憲法の手続的正統性という理由で、この手続を望んでいたのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このため、明治憲法の天皇主権から日本国憲法の国民主権への転換をどう説明するかという難問が起きてきます。日本の憲法学では「革命説」がみられました。だが、実際、革命は起きず、旧支配層が持続する結果、戦争責任が今日も明確にできていないのも、ここに遠因があります。当時の日本支配層の憲法感覚は明治憲法型だったのですから、革命といってもテキストの革命にすぎません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　私には、ポツダム宣言の受諾による明治憲法の「失効説」が必要と思われます。ポツダム宣言受諾後は日本政府はいわば「事務取扱」でした。なぜ、ＧＨＱないし連合国がポツダム宣言に基づいて間接統治を行ったかを説明でき……ます。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　このように、松下氏は「明治憲法失効説」による「日本政府＝事務取扱」論を主張しています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ここで不思議なのは、「市民自治」「国（市）民主権」を唱える割に、国や民族の基幹的規範とも言える「憲法」の成立が、「民主的手続」を経ていないことについて「国民投票にもかけられていない」と淡々と事実を伝えるのみで口を閉ざしていることです。それは恣意的なものでしかないことは明らかでしょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　なお、下記は政治学者・嶋田陽一氏による過激な松下批判の言説です。</span></p>
<hr />
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>「新しい公共」「地域主権」は下からの共産革命</strong></span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　民主党の芯を形成している菅直人･大塚耕平……および仙谷由人／枝野幸男ほか……マルキストたちは、民主党結党以来、共通して堅持している民主党の革命ドグマがある。共産党系の政治学者・松下圭一が過去40年にわたる著作を通じて展開した松下共産革命ドグマである。具体的には『市民自治の憲法理論』『日本の自治･分権』『政治・行政の考え方』『自治体は変わるか』などであり、おおむねこの４冊を民主党はバイブルとしている。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　現に、『市民自治の憲法理論』は、菅直人にとって30年以上もの永きにわたって座右の書であった。また、菅直人の著書『大臣』は、松下圭一著『政治・行政の考え方』からのふんだんな盗用が目に付く。松下圭一とは、このように、多くの民主党議員にとって、共産党色を隠したマルクス抜きの〝透明な共産革命〟を理論指導する大師匠である。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　だから、マニフェストなど民主党の使う政治用語の多くが、松下圭一の特殊語を若干はデフォルメしているが、実態は松下のそれをそっくり用いている。民主党の『政策集』とは、まさしく「松下圭一＋α」と言ってよい。……例えば、民主党のスローガン「官僚主導政治の打破」は、……ジャコバン党独裁体制を、松下が「国会内閣制」と命名したものを、平易に表現し直したもの。もともと民主党の言語「官僚主導政治」自体、松下の「官僚主権国家」の別表現だから、その〝打破〟とは、　松下の「国会内閣制」の実現を意味するのは言うまでもなかろう。とすれば、「官僚主導政治の打破」とは、日本の政体をジャコバン独裁体制にする、という意味である。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このように、松下圭一が考案した共産革命の方法は、１９９１年までの共産党主流派のそれと比較すれば、大きな特長がある。かつての共産党本部が堅持してきたやり方とは、国家の権力を簒奪・掌握し、〝上からの共産日本づくり〟のみを指向していた。<br />
（嶋田陽一「民主党が奉戴する〝松下圭一イズム〟」『リバティ』２０１１年６月号参照）</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年4月15日号より）</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/work/marx-group49/"><span style="font-size: 12pt;">続きを読む、連載49へ</span></a></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜(47)</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group47/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 16 Apr 2026 16:09:45 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[戦前･戦後と繋がる共産主義者の“輪” 福本和夫と日本の構造改革派 名作漫画に顕れたトリアッティの言 　トリアッティのいわゆる「構造改革路線」を日本で最初に紹介したのはフランクフルト学派の一人、福本和夫でした。戦前、「福本 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">戦前･戦後と繋がる共産主義者の“輪”<br />
</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>福本和夫と日本の構造改革派</strong></span></h3>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">名作漫画に顕れたトリアッティの言<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　トリアッティのいわゆる「構造改革路線」を日本で最初に紹介したのはフランクフルト学派の一人、福本和夫でした。戦前、「福本イズム」として共産党内で大物となった福本が、実は戦後も大きな影響力を保ってきたのです。その人脈関係から浮かび上がるのは、戦後日本に刻まれた共産主義者の足跡です。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　『サスケ』『カムイ伝』などで知られる漫画家・白土三平（１９３２〜２０２１）はプロレタリア画家・岡本唐貴の息子に生まれ、唯物史観的で即物的な描き方で知られました。その最高峰とされる作品が『忍者武芸帳』です。その中の「影丸伝」で、主人公の忍者「影丸」が信長軍に捕らえられて処刑される際に言わせた台詞が、「われらは遠くからきた。そして、遠くまでいくのだ……」というものでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　みなもと太郎著『お楽しみはこれもなのじゃ 漫画の名セリフ』の中で、「遠くから〜」はトリアッティの言葉と指摘しています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　そして日本のマルクス主義者界隈では、羽仁五郎（１９０１〜83）著『明治維新史研究』（１９５６年）のエピグラフ（巻頭の引用句）に「われわれは遠くからきた。そして、われわれは遠くまで行くのだ」──パルミロ・トリアッティ──と掲げられています。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-3.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-17112" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-3.jpg" alt="" width="700" height="291" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-3.jpg 700w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-3-300x125.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 700px) 100vw, 700px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">羽仁五郎とノーマンとの同志的関係<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　羽仁五郎はバリバリの共産主義者として鳴らしたマルクス主義歴史学者であり、羽仁の薫陶を受けカナダ外交官からＧＨＱ（連合国軍総司令部）の嘱託となったハーバート・ノーマン（１８８８〜１９５４）も共産主義者でした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　東洋史の専門家として知られたノーマンは、内大臣・木戸孝一の娘婿だった都留重人（後の一橋大学長）とハーバード大学時代から懇意であり、このノーマンの「戦犯メモ」により、近衛文麿元首相は「戦犯」としてＧＨＱに逮捕されようとします。コミンテルンによる大規模な諜報工作により日本は破滅の道を突き進んだとする「近衛上奏文」と同じ内容を、「憲法改正」作業を依頼されたマッカーサーの前で披瀝した近衛文麿元首相が突然、戦犯としてリストアップされ、「巣鴨」に出頭することを潔しとしなかった近衛は、服毒自決しました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　マルクス主義史家の羽仁五郎は戦前、ノーマンに近代日本史を個人教授したことが知られています（鳥居民『近衛文麿「黙」して死す』等参照）。羽仁は戦後参院議員として政治家に転身するも、一貫して新左翼運動の革命理論家としても名を馳せ、学生運動のシンパとなりました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ちなみに今日、尖閣問題で中国政府が「自国領」の根拠に名を挙げる、京大名誉教授を務めた井上清（１９１３〜２００１）は東大で羽仁五郎の薫陶を受けた直弟子に他なりません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　井上は名だたる反日共系マルクス主義者で、中核派などの新左翼運動を積極的に支援し、自身が「日本帝国主義」「米帝国主義」と呼んで「天皇制」を批判していたバリバリの共産主義者でした。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-2.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-17109" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-2-1024x1002.jpg" alt="" width="1024" height="1002" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-2-1024x1002.jpg 1024w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-2-300x294.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-2-768x752.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-2-980x959.jpg 980w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/04/marx47-2.jpg 1040w" sizes="auto, (max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">構造改革派の嚆矢となった福本和夫<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さて、日本で「構造改革」路線の嚆矢となったのは、江田三郎や松下圭一ら社会党構造改革派より以前、日本共産党で一時期大きな影響力を持った福本和夫（１８９４〜１９８３）でした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　福本はドイツのフランクフルト大学でルカーチに師事しており、ホルクハイマーと盟友たちが主宰した、「新しいマルクス主義」の可能性を模索すべくフランクフルト大学社会科学研究所の前身にあたる「マルクス主義研究週間」に参加しました。そこで一緒だったのは後にコミンテルンの大物スパイとなるリヒャルト・ゾルゲ、カール・ウィットフォーゲルらでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ゾルゲがコミンテルンのスパイであったことを考えれば、近衛内閣における政府中枢の情報が筒抜けだったこと、このことへの忸怩たる思いが、近衛に吉田茂と協力して終戦間際の「上奏文」を書かせたことが窺えます。しかし、その近衛の「告発」は不思議なことに、「終戦工作」には全く生かされず、ヤルタ密約によって対日参戦を既に決めていたソ連に仲介を頼む愚挙となって現れました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　近衛上奏文の内容は、以下にまとめられます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　①戦局の悪化で敗戦はもはや必至②「国体護持」を考えれば、脅威・リスクは降伏よりも混乱に乗じた共産革命の方が大きい③ソ連を主軸とするコミンテルンの脅威（例・ゾルゲ事件）④一部軍人や右翼によるテロ＝共産主義者と同根⑤日本を破滅に導く軍人を排除、挙国一致内閣を組織すべき──というものです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この近衛の認識は終戦後も変わらず、マッカーサーとの会見が以下に記述されています。（古関彰一『新憲法の誕生』）</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　近衛は戦争責任を軍閥と共にマルキストに求めてこう述べたという。「軍閥や国家主義勢力を扶け、その理論的な裏付けをしたものはマルキストであり、日本を今日の破局に導いたものは、軍閥勢力と左翼勢力との結合によるものである」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">いかにマッカーサーが反共主義者であるとはいえ、いま自ら釈放せんとしている左翼政治犯に戦争責任があるという近衛の主張を驚きをもって聞いたであろうことは想像に難くない。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">ともかく近衛は長々と話したあと「ちょっと調子を変えて」マッカーサーに聞いたという。奥村（秘書官）はこの場面を次のように復元している。「政府の組織および議会の構成について、何かご意見なりご指示があれば、承りたい」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">これを聞いて、マッカーサーは急にキッとなり、特有の軍人口調で、「第一に、日本の憲法は改正しなければならん」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　さて、トリアッティの言をエピグラフに引用した羽仁五郎は戦前、治安維持法違反で投獄。ですが、羽仁やその弟子である井上清らが、戦後の近代国史学を大きくマルクス主義的イデオロギーに染めてしまったこと、そしてこれらが、東大と京大という東西アカデミズムの両雄によって長らく権威と見做されてきたことに、戦後日本の歴史学の偏向の一端が現れています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　これまでそれほど注目を集めなかった戦後間もないマルクス主義・共産主義者の動向は、批判的に総括する必要がありそうです。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">ＧＨＱ民政局が参照した鈴木らの憲法案<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　羽仁五郎とトリアッティ、ノーマンやゾルゲを結びつけるのが福本和夫であり、福本の弟子が「憲法研究会」をつくった鈴木安蔵（１９０４〜83）でした。鈴木らの憲法研究会案は、たった９日間で作ったＧＨＱ民政局のニューディーラーたちにとり絶好の「虎の巻」となったと言えます（古関『新憲法の誕生』）。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　こうした現憲法の来歴はまさに、マッカーサー憲法というよりはむしろコミンテルン憲法と呼ぶにふさわしいものであったことが分かるのです。吉田茂は確かに戦後日本の独立の功労者ですが、近衛の「同志」にしては、近衛の憲法に対する熱意を受け継いだとは思えないのが、いわゆる「吉田ドクトリン」です。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　サンフランシスコ講和条約で独立主権国家となった日本が今の今まで憲法を修正すらしなかったことは、政治的不作為に当たりますが、それだけ改正や修正が困難な硬性にしてしまったことは戦後日本の悲劇にほかなりませんでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さてハーバードで都留重人の同僚だったＰ・バランはコミンテルン人脈に連なり、戦略爆撃調査団に属し近衛を軍艦で激しく尋問した取調官でノーマンもその背景に居ました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　田中英道・東北大名誉教授も『戦後日本を狂わせたＯＳＳ「日本計画」』で、「マッカーサーが日本政策において最も信頼していたアドバイザーの一人」としてノーマンを挙げています。</span></p>
<hr />
<p><span style="font-size: 14pt;"><strong>コミンテルンと共産主義者と日本国憲法</strong></span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　<strong>中西</strong>　ノーマンは日本生まれのカナダ人ですが、戦前のイギリス留学時代にコミンテルンに加入して、それ以後、秘密工作員としてカナダ外務省に入り、戦後、ラティモアの強い推薦があったので、マッカーサーの特別の信頼を得て東京にやってきます。昭和二十九年九月に焼け野原の東京に入った時に、ノーマンが最初にやったことは、アメリカ共産党の秘密党員だった都留重人との接触を再開し都留と一緒に鈴木安蔵というマルクス主義憲法学者を探し出したことでした。そして、鈴木に「憲法研究会」を作らせたのです。ノーマンは、いずれＧＨＱや日本政府で憲法草案作りが始まることを見越して、日本人の〝自発的意思〟による「民主的な」憲法草案をマッカーサーに突きつけることで、日本革命への一里塚としての憲法採択をやったわけです。こうして鈴木らの「憲法研究会」がいわば「やらせ」として作らされた草案が、現行の「日本国憲法」に最も近似したものとされていますが、これは当然のことだったんです。……鈴木安蔵と憲法研究会自体が、実はハーバート・ノーマンによってオーガナイズされたコミンテルンの工作組織の一端だったわけですから。（中西輝政・小堀桂一郎『歴史の書きかえが始まった コミンテルンと昭和史』）</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年4月1日号より）</span></p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜（46）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group46/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 31 Mar 2026 01:18:41 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[「民主主義＋社会主義」Ｗ革命を企図 パルミーロ・トリアッティ（下） クレムリンの闘争が第２ステージへ 　レーニン亡き後のクレムリンにおける権力闘争は、ソ連のみならず、書記長に納まったトリアッティのイタリア共産党（ＰＣＩ） [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">「民主主義＋社会主義」Ｗ革命を企図<br />
</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>パルミーロ・トリアッティ（下）<br />
</strong></span></h3>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">クレムリンの闘争が第２ステージへ<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　レーニン亡き後のクレムリンにおける権力闘争は、ソ連のみならず、書記長に納まったトリアッティのイタリア共産党（ＰＣＩ）をはじめコミンテルン加盟諸国の共産党指導部にも甚大な影響を与えました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　クレムリンではスターリンがトロツキーとジノヴィエフを追い落とすと今度は、ジノヴィエフ失脚後にコミンテルン（第３インター）議長に収まったソ連共産党きっての理論派ブハーリンとスターリンとの路線対立が表面化します。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　しかもコミンテルン加盟諸国の信任が篤かったのはむしろブハーリンの方で、伊共産党としてもグラムシ逮捕もありトリアッティが書記長となり、盟友アンジェロ・タスカ（一八九二〜一九六〇）をコミンテルン本部に派遣しました。トリアッティは当初、個人的にも関係の深かったブハーリンを支持していました。ＰＣＩ代表のタスカには、「あくまでＶＫＰ（ソ連共産党）内の権力・路線闘争であり、問題に深入りはしない」と指示しました。が、　ブハーリンの敗北が決定的となり、トリアッティはタスカに対し、スターリンに恭順の意を表するように書面で指令を出すもタスカはブハーリンとの誼みからこの説得を拒否、ついに１９２９年２月、ＶＫＰでブハーリン派を糾弾する決議が採択され、ブハーリンは失脚。そしてコミンテルンの指令で翌年タスカはＰＣＩを除名となりました。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">スターリン主義にあらずんば共産主義者にあらず<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　山田薫氏の前掲書では、トリアッティは後年、スターリン指導部の誤りを認めつつ、「なぜ抵抗しなかったのか」との問いに、「そんなことをしたら、私は殺されていただろう。歴史は、死ぬか、あるいは党を守るために生きるか、いずれがましであったかを問うだろう」と答えを引き、「当時はスターリン主義者でなければ、少なくともそれを装わなければ、共産主義者であることは不可能であり、ボルシェヴィキ的前衛とは異なる社会主義的発展を観念化することも不可能であった」と論評しています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このようにして独裁者の地位を固めたスターリンは１９３０年代から、ソ連国内はもとよりコミンテルン加盟国に至るまで徹底的な粛清を行いました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このように、「スターリンの腰巾着」と見られ、日和見主義者と見られたトリアッティですが、独自路線を打ち出すまでには、１９５３年のスターリンの死まで待たねばなりません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　１９３５年の第７回コミンテルン大会でしたが、実はこれが最後のコミンテルン大会でした。同大会においてトリアッティは、「反ファシズム」の旗下に「人民戦線」路線を貫くというコミンテルンの方針を積極的に立案・提言化します。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　しかしあれほど大きな影響力を持ち、世界を席巻したコンミテルンは、第２次世界大戦終結前の１９４３年、突然解散したからです。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx46-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-17093 size-full" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx46-1.jpg" alt="" width="1040" height="1076" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx46-1.jpg 1040w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx46-1-290x300.jpg 290w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx46-1-990x1024.jpg 990w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx46-1-768x795.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx46-1-980x1014.jpg 980w" sizes="auto, (max-width: 1040px) 100vw, 1040px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">ソ連スパイの巣窟化ルーズヴェルト政権<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　これは当面の敵ナチス・ドイツとその同盟国に対する戦いをスターリンは重視し、ともかく米国、なかんずくルーズヴェルト大統領との関係構築に細心の注意を払ったのでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　その中から終戦後の青写真を描き、その戦後体制でソ連が強力な権限を賦与されること（国連での拒否権を持つ常任理事国となることなど）を確約させた上で、共産主義イデオロギーによる国際組織「コミンテルン」の解散を認めたのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ルーズヴェルト政権にはともかく政権中枢にソ連スパイが数多くいました。クレムリンばかりではなく、中国共産党と毛沢東にべったりの親中共産勢力が、戦後の日本をすら動かすことになるのです。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">コミンテルンの解消とコミンフォルムへ<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　米国はソ連のコミンテルン解散で、得をしたと思っていたはずです。すなわち、ソ連が世界革命を名実ともに諦め、一国社会主義の道を突き進むにすぎないと見くびっていたのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ところが、それは米国の希望的観測に過ぎませんでした。というのも、終戦後直ちにスターリンは新しい共産主義理念による国際組織「コミンフォルム」（共産党国際情報局）を結成したからです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このコミンフォルムを中心として、ＮＡＴＯ（北大西洋条約機構）に対抗した「ワルシャワ条約機構」が結ばれることになり、ここに本格的な「冷戦時代」が到来することになったのです。この「コミンフォルム」にはもちろん、コミンテルン時代の各国共産党も参加しました。トリアッティの率いていたイタリア共産党もその例に漏れません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　しかし、１９５０年代からすでに、コミンフォルム加盟諸国は「民族自決」など完全に無視するソ連の武断統治のやり方に疑問を抱いていました。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　その後スターリンの死によって求心力が低下し、コミンフォルムはスターリン批判と共に１９５６年に廃止ということになります。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">スターリンだけでないソ連帝国体質<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　トリアッティが新しく打ち出した「構造改革」論は、世界の左翼人士たちに少なからぬ衝撃をもたらしました。１９５３年のスターリンの死で、スターリン批判が「解禁」され、「デタント（雪解け）」の時代を迎えます。ところが実際には、専制独裁者が替わったとはいっても、一九五六年の「自由」を希求するハンガリーの人々の「反乱」は、フルシチョフの命令の下にソ連軍の戦車によって武力弾圧（ハンガリー動乱）。まさにこれが「ＮＡＴＯ対抗」を謳った「ワルシャワ条約機構」すなわち「ソ連型帝国主義」の本質でした。<br />
</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">「民主主義＋社会主義」Ｗ革命を企図<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　レーニンの率いるボリシェヴィキが成し遂げた「ロシア十月革命」は、マルクスの「予言」（高度に発達した資本主義社会において社会主義革命が必然的に起こる、とした説）とは異なる結果をもたらした「故事」を引きながら、今度はレーニンの理論的言説にも「修正」が加えられることはあっても可ではないか、というトリアッティの「言い訳」は、責められるべきものではなく、同じ「社会主義」への道を歩もうとする点で、選択肢の一つだ、というものでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　こうした考え方は、冷戦の真只中においては、ソ連を「共産主義国家の総本山」と見たり、少なくとも一目を置く「スターリニスト」と呼ばれたソ連擁護派（日本では共産党）や、「世界革命」を唱えたトロツキーを評価し「反ソ・反スターリニズム」をスローガンとした「トロツキスト」勢力はともに「暴力革命」を否定することはありません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　もちろん、ここでトリアッティも「暴力革命」を全否定するわけではありません。キューバ革命でのカストロ政権登場も積極的に評価しました。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">議会的手段による社会主義達成の夢<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　 「イタリアが議会的手段で社会主義に到達する可能性」に、トリアッティは、次のように答えています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　「社会主義的改造に反対している諸政党の中には、反民主的手段をもって、労働また民主運動の抑圧をもってまたファシストがなそうと試みたように公然たる暴力をもってさえ、進歩を阻止しようとする潮流が優勢となることはありうる」</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この言を踏まえ、山崎功・著『パルミーロ・トリアッティ その生涯と業績』では次のように述べます。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　つまり相手が暴力に訴えるならば、それに応じる用意があるということである。……民主主義が徹底し、国会がそれを正当に反映する鏡であることが条件であり、さらに共産党が強力に組織され、また社会主義のためにたたかう諸政党が行動のうえで統一されることも条件となっている。これらの条件が実現されたとき、議会利用の可能性が生じるのであり、しかもなおかつ、これを阻止する反対勢力が、暴力の行使に及ぶという情勢が生じるならば、そのときには、その情勢に対応する措置をとるということなのである。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　　◇</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">ブルジョア民主主義と社会主義の同時革命<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　「暴力革命」を留保しつつ、「レーニンの修正」をトリアッティが試みたのは、「民主主義・社会主義革命」であるというのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">　「それはイタリア社会の経済構造および政治構造の二重性、南部農業の後進性と北伊工業の進歩性との対立、前者の後者に対する従属、後者の前者の搾取による繁栄、このうえに樹立された政治構造の複雑性、それからも生じている階級構成の特殊性、それらにからむ教権世界の支配、などに特徴づけられた状況から決定されたものであった。それは『資本主義的旧指導階級に対する闘争には、労働者階級と農民大衆との階級的政治的同盟が確立されるべきであったが、この分析は、労働者級と農民の中に、民主主義・社会主義革命の原動力を明らかにした。……後進地域の状態の中に、わが国の歴史的諸条件をはっきり見た。この諸条件こそは、この階級的同盟に特殊な内容を与えるものであり、……この階級的同盟の幅を、都市中小ブルジョアジーの広範なグループさえも包含するところまで広げる』ものとなる。</span></p>
<p><span style="font-size: 14pt;">　ここでは、ブルジョア民主主義革命と社会主義革命とが同時に遂行されねばならぬのであり、両者の段階的対置はありえない。一方における民主主義革命への推進こそが他方における社会主義革命の成功を助成し、民主主義的任務も社会主義的任務も両者の同時的革命でしか遂行しえぬとする不可分の統一性は、イタリアの現在の歴史的局面によって与えられたとしている。それは労働者・勤労者階級の民主主義政府確立の闘争のための局面である」</span><span style="font-size: 14pt;">（『生涯と業績』）。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">フランス革命とロシア革命の経緯<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　すなわち、「構造改革路線の本質」とは、ズバリ「ブルジョア民主主義革命と社会主義革命の同時遂行」ということになるわけです。もっとも、ロシア革命やフランス革命の経緯を見ても、最初期には「ブルジョア革命」として始まり、それが暴力や恐怖政治による社会主義ないし共産主義による革命へと変貌したということが言えましょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この点において、トリアッティは歴史をよく見ていたと言えます。しかし注意すべきは、民主的方法で権力を手にしても、「革命」は終わりではありません。それが「暴力的手段への留保」につながり、あくまで「共産主義革命」への道程に過ぎないと位置づけていることが窺えます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年3月15日号より）</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/work/marx-group47/"><span style="font-size: 12pt;">続きを読む、連載47へ</span></a></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜（45）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group45/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 16 Mar 2026 15:50:49 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[クレムリンの闘争と盟友との対立 パルミーロ・トリアッティ（中） 　前回は「構造改革路線」を理解しやすくするために日本の旧民主党政権における事例を挙げました。イタリア共産党（ＰＣＩ）が１９４０年以降採った「社会主義へのイタ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">クレムリンの闘争と盟友との対立</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>パルミーロ・トリアッティ（中）<br />
</strong></span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;">　前回は「構造改革路線」を理解しやすくするために日本の旧民主党政権における事例を挙げました。イタリア共産党（ＰＣＩ）が１９４０年以降採った「社会主義へのイタリアの道」が、ある意味でかなり現実路線でしたが、それはコミンテルンを中核とする「正統派マルクス主義」たる「ソヴィエト＝ロシア・マルクス主義」とは明らかに方向性を異にしています。</span><span style="font-size: 12pt;">。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">グラムシの革命戦略をさらに「薄める」<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　トリアッティの構造改革路線は、ユーロコミュニズムという思想潮流の必然的帰結と言えそうですが、重要なのは、トリアッティの打ち出した理論が、盟友グラムシを敷衍したと見なすなら、それは「マルクス主義の変質」というよりむしろ、グラムシの革命戦略論が薄められたにせよ、「革命への過渡的なアプローチ」と見なすべきでしょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「社会主義へのイタリアの道」の主張は、実にシンプルで明快です。すなわち、マルクスの予言した「資本主義の終焉」は迎えておらず、しかも「帝国主義」も残存する。その現状をはっきり認識しているのが、トリアッティの分析です。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このトリアッティの「宣言」は、レーニンが革命的現実をマルクスの体系の中で捉え、「マルクス＝レーニン主義」というドグマを構築したのに対し、トリアッティら構造改革路線は、マルクスの「予言」や「教説」に現実を押し込めることはなかったものの、「我々はイタリア社会の経済諸構造を大きく修正させるために、民主主義の領域で労働者大衆及び勤労者大衆の行動と闘争とを発展させようとしている」という基本路線を呈示し、暴力革命による「ボリシェヴィズム」とは異なる方法論を採ろうとしたわけです。しかし、かといって人民民主主義やボリシェヴィズムそのものを否定したわけではなく、「異なる社会主義への道」ということでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　ただ、日本共産党の言う「民主主義」と、社民党の言う「民主主義」、民主党の言う「民主主義」というのは実は微妙にニュアンスが異なると言えます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　日本共産党では「民主集中制」と呼ばれるように、中国共産党と同じくプロレタリアートの民主主義、つまり「人民民主主義」を意味しています。これが「プロレタリア独裁」の素地になります。しかし、トリアッティや社会民主主義ではより大衆を重視し、ブルジョワジーを打倒すべき存在として敵視するのは変わりませんが、漸進的に克服すべきものと見なします。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さて、戦後ヨーロッパで独自の「ユーロコミュニズム」路線をいち早く取ったのがイタリア共産党と言え、東側諸国のいわば「閉鎖的な暗さ」とは異なっているような印象を受けます。ところが、実際には、スターリン全盛の時代には、トリアッティらも過酷なサバイバル・ゲームを生き残っていかなければなりませんでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　その一端として現れたのが、「グラムシ書簡事件」です。トリアッティは早世したグラムシの遺志を引き継ぎ伊共産党を牽引していったと言えますが、コミンテルンの問題に関し実はトリアッティはグラムシと対立したことがありました。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx45-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-17065" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx45-1-1024x968.jpg" alt="" width="1024" height="968" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx45-1-1024x968.jpg 1024w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx45-1-300x284.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx45-1-768x726.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx45-1-980x926.jpg 980w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/03/marx45-1.jpg 1040w" sizes="auto, (max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">コミンテルン分裂を危惧したグラムシ<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　１９２０年のミラノのアルファロメオ工場の労働者評議会による占拠事件、21年の社会党（ＰＳＩ）の脱退と共産党（ＰＣＩ）結党、22年のムッソリーニ政権の誕生と続き、26年のリヨンでの党大会直後にソ連に出国しコミンテルンのＰＣＩ代表となります。このコミンテルンとの関係から、トリアッティの「したたかな政治家」というキャラクターが醸成されたと見てよいでしょう。そこで山田薫著『イタリア共産党と戦後民主体制の形成　トリアッティの政治戦略の展開』では次のように記述されます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　　◇</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　１９２６年夏、ＶＫＰ（ソ連共産党）内部の権力闘争に勝ったスターリンやブハーリンらは、トロツキーやジノヴィエフらの反対派を党内の役職から解任し、あるいは除名した。この問題をめぐり、トリアッティとグラムシとの間に対立が発生する。トリアッティは主流派を支持していた。一方グラムシは、（ＰＣＩ政治局の名で）10月14日付の在伊ソ連大使館に宛てた書簡において、ＶＫＰがレーニンの影響の下で「……革命の原動力」と称賛しながらも、トロツキーら反対派を中傷から弁護する態度を表明。さらにグラムシは、トリアッティに宛てた書簡で前述の書簡をＶＫＰ関係者に直接見せないように要望したが、トリアッティはそれを裏切る形で交友関係のあるブハーリンに見せて……ブハーリンとＶＫＰ政治局は、ＰＣＩがトロツキー的路線に基づいているという疑惑を深めた。トリアッティは、グラムシの書簡がＰＣＩ政治局の名で出されたことで、ＰＣＩの前途を懸念していた。彼は、グラムシへの返信において、ＶＫＰ指導集団内に発生した分裂を現実として認識し、勝者と敗者との区別を明確にすべきであり、敗者の手助けをするようなことは厳に慎むべきだ、と強い調子で忠告した。これに対し、グラムシの返書は非常に辛辣な論調を帯びており、ＶＫＰの統一を無傷のまま保つのは……一応認めながらも、このことは「ソ連の同志たちの政治的良心を喚起すると共に、彼らの態度が取り返しのつかない事態を招きつつある危険性を精力的に訴えることが我々の絶対的義務だ」。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　　◇</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">グラムシを売った？　トリアッティの保身<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この間のクレムリン内部での闘争とＰＣＩ（伊共産党）執行部を図式化したものが、別掲のチャートになります。グラムシの書簡はコミンテルン最高指導部が分裂含みの内部抗争を行っている事実を危惧したものですが、あえてこれをグラムシの要望に反しブハーリンに見せたことで、トリアッティは自身がトロツキー派に肩入れしているのではという嫌疑を免れるための、いわば自己保身の所業と見なせなくもありません。実際にこの後、ＰＣＩ関係者は、疑心暗鬼となったクレムリンからは苛烈な制裁を受けることになるのです。トリアッティにとりともかく「勝ち馬」に乗ることが先決だったのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年3月1日号より）</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/work/marx-group46/"><span style="font-size: 12pt;">続きを読む、連載46へ</span></a></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜(44)</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group44/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 21 Feb 2026 12:43:01 +0000</pubDate>
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					<description><![CDATA[「市民自治」という名の“置き土産” パルミーロ・トリアッティ（上） 　（１８９１〜１９３７）の盟友であり、グラムシ没後、イタリア共産党の最高指導者として、ユーロ・コミュニズムにおける「現実路線」の牽引者となった人物こそ、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">「市民自治」という名の“置き土産”</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>パルミーロ・トリアッティ（上）<br />
</strong></span></h3>
<div id="attachment_17045" style="width: 160px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-4.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17045" class="wp-image-17045 size-thumbnail" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-4-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-4-150x150.jpg 150w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-4-300x300.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-4-120x120.jpg 120w" sizes="auto, (max-width: 150px) 100vw, 150px" /></a><p id="caption-attachment-17045" class="wp-caption-text">パルミーロ・トリアッティ</p></div>
<p><span style="font-size: 12pt;">　（１８９１〜１９３７）の盟友であり、グラムシ没後、イタリア共産党の最高指導者として、ユーロ・コミュニズムにおける「現実路線」の牽引者となった人物こそ、パルミーロ・トリアッティ（１８９３〜１９６４）です。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　トリアッティはグラムシ獄死後の１９４０年代にいわゆる「社会主義へのイタリアの道」を説き、「世界の共産主義運動はソ連型の社会主義に従って各国の革命を推進する」と「コミンテルン」式態度にあえて距離を置き、自国の（イタリアの道）改革を主張する路線で、「現状の社会が抱えている問題は表面的な制度や事象のみならず社会そのものの構造にも起因するものであり、その社会構造自体を変えねばならないとする」立場を明らかにします。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　これはいわゆる「構造改革路線」と呼ばれるもので、「社会民主主義とは異なるも暴力革命という手段を取らず、長期的な社会変革を目指す点で社会民主主義に近い」と見られる政治的立場です。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「構造改革路線」という時、日本に置き換えて想起する向きは少なくないかもしれません。故安倍晋三元首相が「悪夢の民主党政権」と呼んだ、２００９年秋から３年半続いた旧民主党政権の政治スタンスこそが、まさに「構造改革路線」そのものだったからです。</span></p>
<div id="attachment_17046" style="width: 160px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-3.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17046" class="wp-image-17046 size-thumbnail" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-3-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-3-150x150.jpg 150w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-3-300x300.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-3-120x120.jpg 120w" sizes="auto, (max-width: 150px) 100vw, 150px" /></a><p id="caption-attachment-17046" class="wp-caption-text">アントニオ・グラムシ</p></div>
<p><span style="font-size: 12pt;">　</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　旧民主党政権や旧社会党を知らずとも、２０２６総選挙で公明党と「中道改革連合」を結成し高市自民党に惨敗した旧立憲民主党の「前身」と呼べる政党です。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　実際、旧民主党の中枢にいたのが鳩山由紀夫、菅直人、枝野幸男、岡田克也、小沢一郎、野田佳彦各氏。このうち最も意識的に「構造改革路線」による政策を採ったのが菅直人氏です。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　元共同通信記者の古沢襄氏の「杜父魚文庫ブログ」によれば、まさにトリアッティ理論の日本受容をめぐる旧社会党の群像が比較的詳しく書かれています（「杜父魚ブログ」２００９年９月７日付参照）。60年安保闘争時代の政治部記者だった古沢氏の証言は貴重で、「トリアッティの構造改革論」と題された記事には、「トリアッティ〜江田三郎〜松下圭一」という明確な系譜、すなわち旧社会党から民主党政権への「思想的血脈」が明らかにされているのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　というのも、菅直人元首相は自著で「松下（圭一）理論を現実の政治の場で実践する」（『大臣　増補版』）と明記。首相所信表明演説でも、「松下思想は私の政治理念の原点」と掲げたように、松下圭一法政大名誉教授の「不肖の弟子」と称するほどの確信犯的「構造改革派」だったからです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　特に菅内閣は、東日本大震災後の対応の拙劣さや安全保障への対応等で国民に「ダメ出し」されたわけですが、菅氏や官房長官を務めた仙谷由人氏ら民主党の「松下圭一スクール」は、その学派的政策を迷惑千万な「置き土産」にしているのです。それがすなわち、「市民自治」という考え方です。</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-0.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-17050" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-0.jpg" alt="" width="800" height="268" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-0.jpg 800w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-0-300x101.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx44-0-768x257.jpg 768w" sizes="auto, (max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">形を変えて現れた《江田ビジョン》<br />
</span></h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　古沢氏は、民主党政権の登場で、「日本の構造改革論は共産党内の理論闘争に敗れ、社会党内でも敗北する憂き目に遭っている。しかし、この流れは民主党の旧社会党グループに受け継がれ、今では《江田ビジョン》が形を変えて復活しようとしている。その内容はトリアッティの《戦う構造改革》とはほど遠いが、イタリアやフランスに根付いた社会民主主義に近いものがある」としています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　北欧的な社会民主主義と言えば、「理想の福祉国家」とのイメージが強いでしょう。そしてマルクス主義の代名詞とも言える「暴力革命」の否定（ないしは放棄）という考えで、実は多くの人々が「安心」し、「人畜無害」のように思っているのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　しかしながら、「市民自治」の考え方は今日、現実的に「自治基本条例」として成立し、多くの地方自治体で「まちの憲法」の名の下に知らない間に「地方議会」や「首長」の権限をすら脅かすものになろうとしています。すなわち、「市民自治」と言えばいかにも「民主主義の鑑」のように思われるものが実は、特定の思想を持ち一般市民を装った「プロ市民」組織に権限を与え、正統な民主的手続きを経て選ばれた「議会」や「首長」を上回る権限を与えかねない恐るべき怪物と化す││そこに実はマルクス主義独特の「戦略」が横たわっているのです。<br />
</span></p>
<hr />
<p><strong><span style="font-size: 12pt;">【トリアッティの構造改革論】</span></strong><br />
<span style="font-size: 12pt;">　（【杜父魚ブログ】09・９／７）</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　構造改革論は…イタリア共産党のパルミロ・トリアッティが唱えた理論。…戦後、日本共産党の佐藤昇氏がトリアッティ理論を紹介して、導入されたが、党内の理論闘争に敗れて、多くの構造改革論者が脱党した歴史がある。このグループが、社会党の江田三郎、成田知巳氏らの理論的な支柱となった。…江田氏は自民党の三木・松村派という社会党からみれば右にウイングを広げた政界再編成を目指して、政権奪取を目論んだ。「江田ビジョン」…は①アメリカの平均した生活水準の高さ②ソ連の徹底した生活保障③イギリスの議会制民主主義④日本国憲法の平和主義…という国民には分かりやすく新鮮な響きを持っている。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　日本の構造改革論は共産党内の理論闘争に敗れ、社会党内でも敗北する憂き目に遭っている。しかし、この流れは民主党の旧社会党グループに受け継がれ、今では「江田ビジョン」が形を変えて復活しようとしている。その内容はトリアッティの「戦う構造改革」とは、ほど遠いが、イタリアやフランスに根付いた社会民主主義に近いものがある。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　逆に左派社会党の理論は、社会党の消滅によって力を失っている。民主党は自民党的なものと、社会民主主義的なものの混在した政党である。参議院で過半数を得ていない現在、社民党や共産党の影響を少なからず受けざるを得ない。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　いわば過渡期にある政党といっていい。それが保守政党に回帰するのか、ある程度は社会民主主義的なものを残して発展するのかは、これからの課題といえる。江田氏はどういう想いで民主党の大勝利をみているのであろうか。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年２月15日号より）</span></p>
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]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜（43）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group43/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 01 Feb 2026 15:11:40 +0000</pubDate>
				<guid isPermaLink="false">https://www.ifvoc.org/?post_type=work&#038;p=17014</guid>

					<description><![CDATA[マルクス主義と共産党の「死」を宣告 ルイ・アルチュセール（下） 　アルチュセールは晩年、マルクスの経済決定論を否定したベンヤミン思想に接近し、さらにマルクス思想が共産主義社会実現への終末的目的論という観念論だと批判し、や [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">マルクス主義と共産党の「死」を宣告</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>ルイ・アルチュセール（下）<br />
</strong></span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;">　アルチュセールは晩年、マルクスの経済決定論を否定したベンヤミン思想に接近し、さらにマルクス思想が共産主義社会実現への終末的目的論という観念論だと批判し、やがて「マルクス主義と共産党の死」を宣告することになるのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　アルチュセールは晩年、論文「限界の中のマルクス」で、マルクスとマルクス主義の思想及び運動の歴史的文脈の中で「マルクス主義と共産党の貧困」を徹底的に露わにすることによって、そこから新たな思想的展望を開こうとしました。それはマルクスの「歴史的功績」に対する賛辞は惜しまないものの、「あたかも死者の遺産を調べて財産目録を作っているかのようだ」（『アルチュセール全哲学』）と今村仁司が述べるように、「マルクスの限界性」についても率直に認めたものでした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さらに今村は「マルクスの思想と科学的研究が人類にもたらしたものは大きい。それは言うまでもない。しかし哲学者としてのマルクスに対して、アルチュセールが哲学者として対面するときには、『マルクスの哲学』なるものへの彼の懐疑はますます大きくなる。マルクスの『哲学』ですら疑われるのだから、当然ながらもっと強い意味で、諸々の共産党への懐疑と批判は過酷なまでに厳しくなる」と続けます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　そしてアルチュセールは 「『共産党宣言』『資本論』の大切な部分のマルクス主義は死んだ。資本主義論や階級闘争論の知は残るとしても、その他の部分は死滅した。すべての共産党も死んだ」と決定的な文言を残しているのです。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">共産主義と冷戦崩壊の序章にも<br />
</span></h5>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-4.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-large wp-image-17016" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-4-1024x761.jpg" alt="" width="1024" height="761" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-4-1024x761.jpg 1024w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-4-300x223.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-4-768x571.jpg 768w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-4-980x728.jpg 980w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-4.jpg 1040w" sizes="auto, (max-width: 1024px) 100vw, 1024px" /></a></p>
<div id="attachment_17017" style="width: 248px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17017" class="wp-image-17017 size-medium" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-1-238x300.jpg" alt="" width="238" height="300" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-1-238x300.jpg 238w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-1.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 238px) 100vw, 238px" /></a><p id="caption-attachment-17017" class="wp-caption-text">エピクロス</p></div>
<div id="attachment_17018" style="width: 278px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-2.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-17018" class="wp-image-17018 size-medium" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-2-268x300.jpg" alt="" width="268" height="300" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-2-268x300.jpg 268w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/02/marx43-2.jpg 300w" sizes="auto, (max-width: 268px) 100vw, 268px" /></a><p id="caption-attachment-17018" class="wp-caption-text">デモクリトス</p></div>
<p><span style="font-size: 12pt;">　今村は結局、「アルチュセールの構造的マルクス主義」という思想は、「アルチュセールの思想」ではあるけれど、つまるところは「マルクス主義」とは似て非なるものであることを言いたかったのでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さしずめ、「正統派マルクス主義」からすれば、アルチュセールは「転向者」に映ることでしょう。その意味でアルチュセールは（「正統派マルクス主義」に比べると）まだしもドグマやイデオロギーに囚われていなかった、逆に言えば、「アルチュセールの知的真摯さ」を傍証していると言えるかもしれません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　旧ソ連の共産主義は「スターリニズム」と呼べるものであり、それと反目する形で登場した中国共産党の「毛沢東主義」（マオイズム）も「大躍進」「文化大革命」の失敗と毛沢東の死、「四人組」失脚によって、「目からウロコ」が落ちたような思いだったのかもしれません。それに加えフランス、ドイツ、日本を含む六〇年代末の「世界同時革命」の挫折という時代背景も大きかったと言えるでしょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　アルチュセールの「すべての共産党は死んだ」という衝撃的な記述にはそうした時代背景を感じさせますが、未発表の「限界の中のマルクス」が書かれた１９７８年の時点ではソ連はブレジネフ体制のまま、中国は鄧小平による「改革開放」が始まっていませんでした。その意味でアルチュセールの記述は、後の「冷戦崩壊」をも予感させる幾分予言的な意味を帯びていると言えるかもしれません。それでもアルチュセールは当時、フランス共産党に対し、「プロレタリアート独裁」を放棄することに反対し続けたと言います。その意味でアルチュセールは「マルクスによらざる共産主義」「マルクス主義ドグマを離れた唯物論」を模索したと言えそうです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　アルチュセールの論文「限界の中のマルクス」は生前は発表されませんでしたが、以降、最晩年は「マルクス主義のドグマ（教説）を離れた唯物論」の可能性を模索するようになり、対話集『不確定な唯物論のために』として結実します。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　この「不確定な（偶然性の）唯物論」とは何か。アルチュセールは『不確定な唯物論のために』で次のように述べるのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　「『真の』唯物論＝マルクス主義に最も適した唯物論＝不確定な唯物論」だとして、「エピクロスやデモクリトスの路線」の伝統の中にマルクスを位置づけているのは、「合理論的伝統のうちにあるいっさいの唯物論と同様、…必然性と目的論の唯物論、つまり、観念論が偽装した形式である唯物論」に反対している、というのです。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　そこでアルチュセールが強調するのは、「フォイエルバッハに関するテーゼ」（「哲学は世界を様々に解釈してきたにすぎない。重要なのは世界を変えることである」）でした。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　こうして哲学とは結局、「体制（権力）側」のものとなり、「日和見主義者は権力の手先」という、共産主義イデオロギーの呪縛を踏襲することを意味します。実はこのイデオロギーこそ、「賛同しない者は全て敵」と見なす戦闘的唯物論の論理に他なりません。ここから設計主義に基づく社会主義体制の過誤が繰り返され、その犠牲者が死屍累々と横たわるのです。この点を、アルチュセールは一切指摘しません。</span></p>
<h5 class="style5b">機械論的設計主義を免れても無政府状態</h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　　アルチュセールは目的論を否定し真理性をも否定するに至り、「唯物論的な諸哲学は、理論に対する実践の優位を主張する」「絶対的な真理とは……最初から存在せず、偶然的な実践の積み重ねにより、生成する《真理めいたもの》が後付けされる」としました。しかしながら、真理や目的論を排除して「構想」も認めないなら「無政府状態」に陥りやすくなる。これがまさにアルチュセールの難点と言えるのです。<br />
</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年２月1日号より）</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/work/marx-group44/"><span style="font-size: 12pt;">続きを読む、連載44へ</span></a></p>
]]></content:encoded>
					
		
		
			</item>
		<item>
		<title>文化マルクス主義の群像～共産主義の新しいカタチ～（42）</title>
		<link>https://www.ifvoc.org/work/marx-group42/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[政弘菅野]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 15 Jan 2026 00:06:48 +0000</pubDate>
				<guid isPermaLink="false">https://www.ifvoc.org/?post_type=work&#038;p=16926</guid>

					<description><![CDATA[「問いの体系」と「認識論的切断」 ルイ・アルチュセール（中） 　アルチュセールはマルクス主義哲学を「認識論的切断」という概念で捉え直すことで「構造主義的マルクス主義」という「ポストモダンなマルクス」の可能性を引き出しまし [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<h2><span style="font-size: 24pt;">「問いの体系」と「認識論的切断」</span></h2>
<h3><span style="font-size: 18pt;"><strong>ルイ・アルチュセール（中）<br />
</strong></span></h3>
<p><span style="font-size: 12pt;">　アルチュセールはマルクス主義哲学を「認識論的切断」という概念で捉え直すことで「構造主義的マルクス主義」という「ポストモダンなマルクス」の可能性を引き出しました。</span></p>
<h5 class="style5b"><span style="font-size: 12pt;">プロブレマティックとは「思考の図式」<br />
</span></h5>
<div id="attachment_16928" style="width: 160px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-2.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16928" class="wp-image-16928 size-thumbnail" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-2-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-2-150x150.jpg 150w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-2-300x300.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-2-120x120.jpg 120w" sizes="auto, (max-width: 150px) 100vw, 150px" /></a><p id="caption-attachment-16928" class="wp-caption-text">ガストン・バシュラール</p></div>
<p><span style="font-size: 12pt;">　マルクス史家のマクレランは「『認識論的切断』という概念は、フランスの科学哲学者、ガストン・バシュラールから借りたものであるが、それは、時を同じくしてトーマス・クーンが詳しく展開していた科学的パラダイムという観念にほぼ相当するものである。アルチュセールによれば、マルクスの初期の著作と後期の著作は、二つの別個の問題設定を含んでいる。問題設定とは、『それに固有の主題の客観的な内的参照体系、与えられる答えを支配している問いの体系』である」（『アフター・マルクス』）と述べます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　確かに科学哲学者バシュラールの「認識論的切断」は、クーンが主張した概念「科学的パラダイム」「パラダイム転換」に相当します。ここでいう「問題設定」＝「問いの構造」（プロブレマティック）とは、「それに固有の主題の客観的な内的参照体系、与えられる答えを支配している問いの体系」とアルチュセールは定義づけています。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　このアルチュセール自身の記述を踏まえ、今村仁司は「ひらたく言えば、どのような思想もその内部に自覚されざる『思考の図式』を抱えており、その図式は思想家の思考に対して深いところから（つまり知らぬ間に）方向を与えるばかりでなく、用語ないし言葉の意味までを徹底的に方向づけ規定する。このような思考の図式を『問いの構造』と呼ぶのである」（『アルチュセール全哲学』）と解説しています。</span></p>
<div id="attachment_16927" style="width: 160px" class="wp-caption alignleft"><a href="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-3.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-16927" class="wp-image-16927 size-thumbnail" src="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-3-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" srcset="https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-3-150x150.jpg 150w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-3-300x300.jpg 300w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-3-120x120.jpg 120w, https://www.ifvoc.org/wp-content/uploads/2026/01/marx42-3.jpg 391w" sizes="auto, (max-width: 150px) 100vw, 150px" /></a><p id="caption-attachment-16927" class="wp-caption-text">トーマス・クーン</p></div>
<p><span style="font-size: 12pt;">　こうしてアルチュセールは、「マルクスは、歴史理論（史的唯物論）を築くことによって、ただ一つの同じ動きの中で、それ以前に彼が持っていたイデオロギー的な哲学的意識と断絶し、同時に新しい哲学（弁証法的唯物論）を築いた」（『マルクスのために』）と見立てることで、「（若い）ヒューマニズム」というイデオロギーを克服したマルクスが、「マルクス主義者」となりえた境地を『資本論』に見たのです。</span></p>
<h5 class="style5b">イデオロギーからの解放のプロセス</h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　その「マルクスのイデオロギー克服」について、マルクス主義全体の中で占める「哲学」の地位の低下は、特にロシア革命以後に顕著に見られた中で、アルチュセールはマルクス主義思潮におけるいわば「哲学の復権」を企てたと言えます。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　社会主義体制下で「ルイセンコ主義」や「大躍進」など「イデオロギーの下僕となった疑似科学」の横行に代表されるように、マルクス主義・共産主義思潮を哲学的次元から立て直そうと試みたのが、アルチュセールでした。そのための「イデオロギーからの解放」というプロセスを、今村は次のように述べています。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　◇</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　マルクスの言説から、いくつかの要素を取り出して、それらを観念論と唯物論に振り分ける操作がある。そうした操作は、マルクスの思想の「源泉」や「先駆者」を語ったり、あるいは反対に、観念論的でありながら「既に唯物論を先取りしていた」といった、「後に発芽し開花するであろう萌芽」論を語ったりする。……アルチュセールはこうした歴史の書き方を「前未来形で書く歴史」と呼んでいる。このような読み方にはいくつかの前提が隠されている。<br />
</span><br />
<span style="font-size: 12pt;"><strong>１・要素還元的前提</strong>。あらゆる理論体系や思想は要素に還元できると主張する。それは分離された要素を、先駆者と後継者、観念論と唯物論に割り振り、相互の比較が可能と考える。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;"><strong>２・目的論的前提</strong>。目的＝終わりから遡及して理論や思想を裁く。歴史の中で複雑な条件を受け止めながら進行する思考の過程を無視して最初から「ゴール」を設定している。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;"><strong>３・観念の自律性の想定</strong>。これは思想が自分自身の内部だけで自己了解を遂げうると前提している。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　これらの前提を持つ読み方は、一言で言えば、<strong>目的論的読み方</strong>と言える。それは、諸要素が全体の構造の中で持つ意味を無視して、単独に取り出したり、割り振ったりできると信じている。決してゴールなど予定されえないのに、独断的なゴールを設定するところから、こうした無理がまかり通る。決して自己の外部に出ることなく、観念の内部で自己了解を遂げて、思想の自己内発展のモデルを作り上げる操作、それがイデオロギーの特徴である。これを退ける時、新しい読み方が可能になる。（『アルチュセール全哲学』）</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">　　　◇</span></p>
<h5 class="style5b">マルクス自身が独断的ゴールを設定する</h5>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さて、以上の今村の記述は、「もっともだ」と思うかもしれません。確かに「読み方＝解釈」の違いが、マルクス主義における「哲学の悲劇（あるいは苛酷な運命）」を招いてきたのではないかと。ところが、私たちの知る限り、今村＝アルチュセールのいう「目的論的読み方」に立っているものこそ、実は「マルクス主義」自身である、と言えるのではないでしょうか。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　今村は「マルクス主義の哲学は、他の諸々の思想類型をブルジョワ的だと批判し告発する批判主義的思想ではない」と弁明しますが、これはプルードンの『貧困の哲学』を揶揄したマルクスが『哲学の貧困』を著したように、プルードン批判のためなら何でもありという「戦闘的アジテーター」というのが、残念ながらマルクスの本質と言わねばなりません。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">　さらに、「目的論的読み方」の前提の二番目にある「最初から独断的なゴールを設定している」のは、マルクス自身と言えるのです。すなわち、プロレタリアートによる暴力革命によって社会主義社会、共産主義社会が実現するというのは、ある種の「終末的ユートピア論」であると言え、まごうことなく「予定調和的な目的論」のはずです。「いや違う、この点はヘーゲル哲学からの受け売りにすぎない」と弁明されるかもしれませんが、この点こそが、いわば若者たちを「革命幻想」へと駆り立てていった左翼の「イデオロギー」であったことを指摘せねばならないでしょう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（「思想新聞」2026年1月15日号より）</span></p>
<p><a href="https://www.ifvoc.org/work/marx-group43/"><span style="font-size: 12pt;">続きを読む、連載43へ</span></a></p>
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