「自由と平和」とは真逆の日共100 年史

「世界思想」4月号から特集「日本共産党の不都合な真実」の一部「『自由と平和』とは真逆の日共100 年史 」をお届けします。

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 日本共産党の創立は1922(大正11)年7月15日とされている。

 昨年「党創立100周年」を迎えた共産党は、志位和夫委員長の写真と「自由と平和。まっすぐ、つらぬく。」と謳う「100周年ポスター」を配布しているが、実際、この謳い文句のように日本共産党は「自由と平和」を貫いてきただろうか。

 そもそもマルクス・レーニン主義は、暴力革命によって資本家階級(ブルジョアジー)の支配する社会を労働者階級(プロレタリアート)が転覆し、社会主義社会を経て、共産主義社会へ移行するというシナリオを描く。

 ロシア革命を成功させ、世界初の持続的な共産党政府を実現したレーニン率いるソ連共産党は、世界に「共産革命」を輸出するべく「コミンテルン(国際共産党=共産主義インターナショナル)」を組織した。

 その「日本支部」として作られたのが日本共産党だが、1923年の一斉検挙を受けて、翌24年に「解党宣言」すると、コミンテルンが激怒。理論的・資金的にモスクワの指導下に置かれることになる。

 そもそも、コミンテルンに加盟するには「自由をつらぬく」どころか「自治を許さず『鉄の規律』による服従を強いる21カ条の条件」を呑む必要があった(『日本共産党 暗黒の100年史』)。条文にはソ連の体制を擁護する義務もあり、事実上の「ソ連共産党日 本支部」だったのである。

2度にわたる暴力革命路線

  日本共産党は、コミンテルン(戦後はコミンフォルム)の「司令」で、2度にわたり暴力革命路線をとった

 コミンテルンは党再建にあたり、「2段階革命論」を旨とする「27年テーゼ」を司令するも奏功せず、第2・第3次検挙で党指導部が崩壊。若手党員が「中央ビューロー」を設置すると、1930年、武装テロ路線に転化した(武装メーデー事件)

 翌31年に「満州事変」が勃発すると、「帝国主義戦争を内乱に転化しブルジョア=地主的天皇制を革命的に転覆させよ」と叫ぶ「32年テーゼ(綱領)を採択し、武力闘争を展開。特に知られるのは東京・大森の川崎第百銀行を、共産党員3人が襲撃、現金強奪した「赤色ギャング事件」だ。

 また、戦後も1950年に朝鮮戦争が勃発すると、コミンフォルムから野坂参三の「平和革命宣言」が批判を受け、日共は「51年綱領(テーゼ)」を採択した。軍事組織「中核自衛隊」が設置され、『球根栽培法』を教本として、火炎ビンや爆弾を製造し、武力闘争を展開。各地で警察官を殺害するなどの痛ましい事件(白鳥事件・練馬事件など)が続いた

「山村工作隊」の農村工作では地主家族を襲撃。さらに皇居前広場の「血のメーデー事件」や吹田事件・大須事件など、大衆を扇動し、数々の騒擾事件を引き起こしたのだ。  こうした数々の暴挙について、現在の共産党は「極左冒険主義に立った徳田(球一)ら分派の仕業」だとうそぶいている。

 しかし、平和路線を批判したコミンフォルムに対し、党書記長の徳田球一は「所感」を発表し野坂を擁護した(所感派)が、宮本顕治、志賀義雄らは批判を受け容れるべきとした(国際派)。つまり当時、より暴力的だったのは、後に主導権を握る宮本ら反主流派だったのだ。

 その後、中国共産党が野坂批判に与することで、野坂は自己批判し、主流派の徳田らも反米を強調するテーゼを提示して宮本らを左遷。ここに至りGHQ(連合国総司令部)が共産党中央委員の公職追放を吉田茂首相に命じた(レッドパージ)。

 結局、武装路線に走った日共を世論は見限り、1952年の総選挙での議席はゼロになった。翌53年にはスターリン、徳田球一が相次ぎ死去、朝鮮戦争も停戦となり「内乱から革命へ」の機運が一気に萎んだ。

「血のメーデー事件」を報じた当時の新聞

「敵の出方論」を否定せず

  そこで1955年の「六全協」で主導権を握ったのが宮本顕治で、中ソ対立を背景に自主独立路線を採り、「61年綱領」を打ち出した。その過程で党を除名された反スターリン主義の学生党員らが「共産主義者同盟」(ブント)を結成して全学連を主導、60年安保闘争の原動力となる。

 「宮本綱領」とも呼ばれる61年綱領は「敵の出方論」を基本に据える。これは、革命が平和的か暴力的かは「敵(既存権力など)」の出方による、というものだ宮本綱領を継承する共産党は2021年に「敵の出方論」の用語を使用しないとしたが、いまだに理論そのものが誤りだとは認めていない。これが、公安調査庁が共産党を破防法調査対象団体から外さない理由である(22年政府国会答弁)

 なお、宮本顕治らは1933年に党員の小畑達夫を特高警察のスパイと疑い、「査問」という名のリンチにかけて死に至らしめている。宮本らは政治犯のみならず刑事犯(傷害致死・死体遺棄)として無期懲役の判決を受けて服役。戦後、GHQにより釈放され、党内抗争を制し独裁体制を築いた。

 共産党は暴力革命路線を宮本綱領下で封印したように見えるが、ブントに流れて過激化した勢力は、ハイジャックや無差別テロ、連合赤軍の同志リンチ殺人を引き起こした。共産主義は、その本質において「暴力的」なのである

 

 

◆2023年4月号の世界思想 日本共産党の不都合な真実
Part 1 「自由と平和」とは真逆の日共100 年史
Part 2 「前衛」という名の「独裁」
Part 3 共産党の「共闘」は破滅への道
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思想新聞号外ビラ – 共産党批判ビラ「日本共産党100年の欺瞞」

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