勝共連合、共産党の「最終決戦」へ(2)

 (1)では志位和夫氏のツイートから、安倍氏暗殺テロに乗じた卑劣な本連合への「宣戦布告」であることをとりあげた。そして1972年に「日本共産党への質問状」を発表し、公開理論戦を求めるなどした戦いの歴史を振り返った。今回はツイートでも言及された「京都府知事選」と、共産党との言論裁判闘争について紹介する。

歴史的な「京都府知事選」

1978年、京都府知事戦で京都に結集した勝共連合の青年たち

 1972年2月、「連合赤軍事件」が発覚、共産主義の真の姿が露わになった。彼らが人質を盾に占拠し、たてこもったあさま山荘(長野県北佐久郡軽井沢町)事件で2人の警察官が殉職し、さらに同志間の凄惨なリンチ殺人によって14人が殺され埋められていた事実が明らかになったのである。

 連合赤軍は共産党赤軍派と京浜安保共闘の連合組織であるが、前者は1955年に日本共産党から分裂したブント(共産主義者同盟)の一派であり、後者は1969年に同じく日本共産党から分裂した親中派の「日本共産党革命左派神奈川県委員会」を上部団体として組織されたグループである。いずれも日本共産党から分かれたものであり、根は同じなのである。

 質問状は12項目からなっていた。①日本共産党と連合赤軍との関係について②宮本・袴田里見「スパイ査問事件」について③伊藤律、志田重男両氏のその後の消息は④火焔ビン闘争は日本共産党に責任がないのか⑤日本共産党も、かつては「毛沢東盲従集団」ではなかったか⑥共産党政権下で、職業選択の自由、変更の自由など基本的人権が侵されないという確かな保証があるのか⑦共産党政権下で、生産手段の社会主義的国有化、社会化は具体的にどのような形で行われるのか⑧共産党政権下で議会制度が最後まで存続されるという確かな保証があるのか⑨共産党政権下で、複数政党や選挙権の制限が生じないという確かな保証があるのか⑩日本共産党の革命プログラムは⑪共産党の「人民共和国憲法草案」について⑫日本共産党50周年によせて―という内容であった。

 1973年、宮本顕治委員長(当時)は第12回党大会で「民主連合政府綱領」を発表し、「70年代の遅くない時期に民主連合政権を樹立する」と豪語した。だが、国政選挙で後退、頼みの綱の革新自治体も凋落してきた。そのため、共産府政と呼ばれた「蜷川虎三京都府政」を最後の砦として死守しようと、78年4月の京都府知事選に全国動員をかけて臨んだのである。一方、共産革命から日本を守るため国際勝共連合の青年たちも京都に結集した。

 共産党は、選挙期間中でも政党機関紙「しんぶん赤旗」拡大を名目に膨大の「勝共連合」批判のビラを配布した。他県では禁止されていたビラの個別配布が白昼堂々と行われていることは公職選挙法違反であることから、弊連合は、即時中止を選挙管理委員会に抗議した。ところが、赤旗の号外ビラ配布は商業行為とみなすという回答。ならば、弊連合の機関紙「思想新聞」の号外ビラはどうかと問い、選管は赤旗と同様に商業行為として認めるとの返答だった。京都は共産党と勝共連合の戦い一色に染まっていった

 共産党は「勝共連合・思想新聞はKCIAがつくった」との事実無根の謀略ビラ、弊連合は宮本顕治氏、袴田里見氏らによる「スパイ査問事件」の本質をとうビラだった。

 知事選では共産党の押す蜷川後継の杉村敏正候補が敗北。自民党推薦の林田悠紀夫氏が7万票の差をつけて当選した。こうして28年間続いた「共産府政」に終止符が打たれた。「革新の灯台」の火は消え、「民主連合政府」への道は閉ざされたのだ。

共産党との言論裁判闘争

 京都府知事選と同じ1978年6月、国際勝共連合は東京・立川市で宮本顕治委員長(当時)による戦前の「同志リンチ致死事件」を追及する本紙「思想新聞」号外を配布すると、同党立川・昭島地区委員会は配布差し止めの仮処分を申請した。

 そもそも1933年の「同志リンチ致死事件」とは、次のようなものである。
 党内では「特高警察のスパイが潜んでいる」との噂が広がった。こうして起きたのが「スパイ査問事件」である。これは後に党書記長、委員長となる宮本顕治氏が、同志2人をスパイと決めつけ、「査問」と称し凄惨なリンチを行った事件である。当時の「赤旗」(現「しんぶん赤旗」)には、「(2人を)党規に基づき極刑をもって断罪する」と掲載。結局宮本氏、監禁致死罪や死体遺棄罪など7つの罪状で無期懲役が確定し、網走刑務所に収監。しかし戦後に政治犯が釈放された際、誤って釈放された事件であった。

 勝共連合はこの共産党の仮処分申請に受けて立ち、「日共リンチ殺人事件」は遂に裁判で争われることになった。これが、多くの国民の関心を呼ぶことになる勝共連合と共産党との言論裁判闘争である。この裁判を通じ、勝共連合は宮本委員長の「リンチ殺人」(傷害致死罪などの確定判決)の証拠を列挙し、また終戦後に「資格回復」したとする確定判決書のウラ書きの欺瞞を暴き、宮本氏にその罪状を素直に認めるよう裁判所に出頭することを求めたのであった。

 しかし宮本委員長は「証人」としての出頭を拒み続け、88年12月、共産党は自ら起こした仮処分申請自体を取り下げ、ここに10年裁判は終結した。82年に委員長から議長に就任し最高ポストを24年間務めた宮本氏。結局共産党は、「リンチ致死実行犯」が率いた集団だったと言える

 そして当時の10年裁判闘争と同様に今また、歴史的事実から共産主義と共産党の誤りについて啓蒙する我々の活動を抹殺しようとし、共産党を中核とした「言論統制」の動きを強めていることに対しては、本連合は徹底して闘うものである。
次回はスパイ防止法運動と共産党の策謀について論じることとする。

【思想新聞11月15日号】愛知・勝共研修会/朝鮮半島コンフィデンシャル/共産主義「定点観測」

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