共産主義は間違っている!
国際共産主義勢力、文化共産主義勢力の攻勢に勝利しよう!

勝共運動による救国救世

国際勝共連合創始者 文鮮明総裁 逝去

追悼の言

総裁の遺志。共産主義の完全一掃を誓う

国際勝共連合会長 梶栗玄太郎

文鮮明総裁

国際勝共連合(IFVOC)の創始者である文鮮明・世界平和連合(FWP)総裁が9月3日午前1時54分、入院先の韓国・京畿道加平郡の清心国際病院で逝去された。数えで93歳(満92歳)だった。
 文総裁は7月に米国から韓国に戻って以降、風邪により咳が続き、8月に入って体調が悪化。同3日にソウル市内の病院に入院、風邪と肺炎による合併症の治療を受けていた。、同12日に一時退院したが、翌13日に急激に体調が悪化して再入院、危篤状態に陥り、同31日にソウル市内の病院から清心国際病院に移った。文総裁の夫人韓鶴子女史と御子息ら家族が臨終を見守られた。ご冥福を祈るものである。

共産革命から日本と世界を救う
「希望の日」晩餐会

文鮮明総裁は、20世紀最大の脅威である共産主義から、日本とアジア、世界を救ったのである。国際勝共連合は1968年1月13日韓国で、さらに4月1日に日本で創設された。神の愛と真理に根差した「勝共思想」を武器に、「共産主義は間違っている」をスローガンに掲げ「勝共国民運動」を展開したのである。
 その創立の経緯は次の通りだ。67年6月、日韓両国の反共首脳会談が実現し、韓国側文鮮明師、劉孝元氏、日本側は笹川良一氏、児玉誉士夫氏代理・白井為雄氏、市倉徳三郎民らが出席して、山梨県本栖湖畔で「第1回アジア反共連盟結成準備会議」が開催され、勝共運動日本受け入れの合意が成立。同年11月、久保木修己氏が中心となり国際勝共連合の前身、「勝共啓蒙団」が結成された。
 翌68年4月、本栖湖会談の精神に基づき笹川良一氏を名誉会長に迎え、久保木修己氏を会長とし国際勝共連合を結成した。李相憲著「新しい共産主義批判」を翻訳・出版し、共産革命の惨禍から祖国を救う残された唯一の道は、共産主義の理論的矛盾と、革命の実態を誠実に国民に説得する以外にないという結論に達し、理論啓蒙団体として、研究を積み重ねた。初期は勝共遊説隊の街頭活動が中心であった。
 勝共連合創立時の1968年、アジア情勢は未曾有の危機下にあった。英国はスエズ運河以東からの撤退を発表、アジアでのプレゼンスを放棄。これに代わるべき米国も同年、ベトコンのテト攻勢に遭い泥沼のベトナム戦争に疲弊し、国内の反戦運動がピークに達してジョンソン大統領は再選を諦め、朝野ともに著しく自信を喪失していた。
 この隙を突き北朝鮮は同年1月、武装ゲリラをソウルに侵入させ、大統領官邸襲撃事件を起こし、さらに米情報艦「プエブロ号」を拿捕、朝鮮半島情勢は緊迫の度を強めた。また、東欧では同年8月、自由を求めるチェコスロバキアにソ連軍が侵入、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」で武力による共産圏の維持・拡大が確認された。このように国際共産主義が一大攻勢期に入っていた。
 一方、日本は高度成長期にあり、同年、GNP(国民総生産)では世界第3位に飛翔したものの、公害問題などの歪みが噴出、国際共産主義に呼応する学生運動が過激化し、大学紛争が吹き荒れ、「革命前夜」の様相を呈した。また、東京都をはじめ各地で革新自治体ブームが起こり、共産党はこれを「革命の砦」と位置づけ、日本革命へと攻勢を一段と強めていたのである。
 国際勝共連合はまず、学生・青年会員を中心に大学内・街頭で果敢に思想戦を展開した。共産党の教科書である『共産主義読本』を痛烈に批判し絶版に追い込み、共産党に対する公開理論戦を宣言し、「日本共産党への質問状」を宮本顕治委員長(当時)に送付した。だが共産党は、党本部のみならず全国の党地区委員会や大学内の民青(同党青年組織)も悉く逃避し続けたのである。
 続いて本連合は1978年、共産府政と呼ばれた革命の砦たる「蜷川京都府政」打倒のため立ち上がった。その結果、共産党の押す蜷川後継候補が敗北し、28年間続いた「共産府政」に終止符が打たれ、革新自治体ブームも下火になっていった。
 また、WACL(世界反共連盟)世界大会を、キューバの実態を告発するカストロ女史(フィデル・カストロの実妹)らを招聘して日本武道館で開催するなど、国際的連帯にも力を注いだ。中国共産党政権の国連承認・加盟に反対し、中華民国(台湾)擁護、日韓華の自由アジア圏結束を求めアジア勝共大会を開催、東京・数寄屋橋では170人が抗議の7日間断食を決行、「台湾切り捨て」による日中国交樹立にも反対した。  さらに本連合は、共産主義国による間接侵略の危機から日本を守るため、1978年にスパイ防止法制定3千万人署名国民運動を展開し、翌79年にはスパイ防止法制定促進国民会議の創設に加わった。都道府県会議を全国で設置、署名運動のほか地方議会における同法案制定請願運動の先頭を切って奮闘し、スパイ防止法案制定に向け一大国民運動を展開したのである。
 未だ成立に至っていないが、これらの国民運動が左翼革命勢力を追い込み、彼らの野望を悉く打ち砕いたのである。まさしく日本を共産革命から救ったのは、勝共運動にほかならず、文鮮明総裁だったと言えるのである。

勝共運動の世界的連携で冷戦終焉へ

また文総裁はベトナム赤化統一によるインドシナ共産化を憂い、ウォーターゲート事件に揺れるニクソン米大統領と会見し大統領に留まるよう説得したが、サイゴン陥落以降、共産化したカンボジアのポル・ポト体制下で推定200万人が虐殺される悲劇を生んだ。ニクソン弾劾の大合唱に抗し、文総裁は「許せ、愛せ、団結せよ」と米国の危機を警告。結局、ニクソン辞任で次の大統領選で誕生したカーター民主党政権ではさらに世界の共産化が進むことになる。
 文総裁はこうした米国を精神的荒廃から覚醒させるため「アメリカに対する神の希望」と題し全米を講演し、マジソン・スクエア・ガーデン、ヤンキー・スタジアム、ワシントン・モニュメント広場でも「建国の精神に帰れ」と訴えた。こうした背景の下、日本でも岸信介元首相が名誉実行委員長となり74年5月、「希望の日晩餐会」が開かれたのであった(講演抄参照)。
 それまでの米国での活動を基盤に、ソ連を中心に版図を広げた国際共産主義に対抗するため「強いアメリカ」を建てるべく、ソ連を「悪の帝国」と呼ぶロナルド・レーガン第40代大統領を支持した。具体的には米国の首都ワシントンDCに保守系日刊紙「ワシントン・タイムズ」を創設した。当時、米国では左翼リベラリズムが言論界を支配し、米国東部の言論界には神や信仰という伝統的価値観に根差したメディアは存在しなかった。そのような危機克服を目指してワシントン・タイムズが創刊され、保守系言論人に活動の場を提供したのである。
 ワシントン・タイムズは、文総裁の指示でSDI(戦略防衛構想)を支持、レーガン政権にこれを推進させた。結局ソ連は、これにより軍拡路線を放棄せざるを得なくなったが、同構想が冷戦終結の引き金になったことは、後にベススメルトヌイフ元ソ連外相が証言している。
 また文総裁は、1990年に「第11回世界言論人会議」をモスクワで開催し、この期間にクレムリン大統領執務室でゴルバチョフ大統領(当時)と会談して冷戦終結を決定的なものとし、翌年には金日成主席(当時)と歴史的な会談を行った。当時の朝鮮半島は、北朝鮮の核開発により、いつ戦争が起きてもおかしくない危機的状況にあった。文総裁は電撃的に北朝鮮を訪問し、金日成主席との歴史的会談を実現し、南北平和統一に向けた関係改善の突破口を開いたのである。
 「この地球上から共産主義を完全に一掃するとき、初めてこの地上に長い間の神の希望であり、人類の夢であったユートピアの世界が実現される」(1983年12月、韓国8大都市大会講演)。これが文鮮明総裁の信念であり思想である。
 冷戦終焉は共産主義との闘いの終わりではない。むしろアジアに残存する共産主義国家の脅威は増す一方であり、さらに文化の破壊を目指す共産主義思想を背景とする諸政策が広がっている。冷戦終焉のムードが国内外に広がり、国民は共産主義に対する警戒心をなくしてしまっていることが、その背景にある。ゆえに、我々は闘いを継続する。共産主義の完全一掃がその目標である。それこそが文鮮明総裁の御遺志だからである。

2012年9月07日

勝共思想講座 疎外論
勝共思想講座 唯物論