文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜(31)

文化破壊に繋がる記号の恣意性

フェルディナン・ド・ソシュール(下)

 ソシュールは「価値が差異から生ずる」と考え、「記号」(シーニュ)としてのコトバが、世界や社会の中で他のものと「区分」されできあがるとしました。そのトータルなものとして文化を捉えたのですが、それが実は、「絶対」「不変」とは対極にある「恣意的なもの」と見なしたのです。

 前回の「箱の中の風船」にたとえられたコトバは、例えば「オオカミ」という「コトバの風船」が、何らかのショックで割れると、「箱」の中は「イヌ」や「キツネ」「タヌキ」といった残りの「風船」で空いた空間も占められるようになり、結局、「オオカミ」というコトバも消滅することになり、「雪」や「コメ」あるいは「肉」というコトバや観念も、文化によって変わってくるものだとソシュールは考えました。

 私たちは、「イヌ」という音響イメージ(シニフィアン)によって、ある種の動物の概念(シニフィエ)を区分しています。しかし世界には、(あえて綴れば)「dog」や「chien」という音響イメージで、ある種の動物の概念を区分している人もいます。「イヌ」という音響イメージによって区分されている種類の動物を、仮に「ネコ」という音響イメージによって区分もできるでしょう。

 これこそソシュールが「コトバ(記号)の恣意性」と呼ぶもので、絶対的ではないことが重要です。

「記号の恣意性」という起爆装置

 このようなソシュールの考え方はもはや、絶対的とか相対的という以前に、一つの「パラダイム」(知の枠組み)として、あらゆる分野に影響を及ぼし支配する巨大な兵器ともなりかねないものを予感させます。

 だからこそ、ソシュールに起源を持つ「記号学」「記号論」が、20世紀末の思想界に極めて大きな影響を及ぼしたと言えます。

 つまりここで問題にしたいのは、ソシュールが「記号の恣意性」を唱えたことで、絶対性、必然性、合目的性という基準(メルクマール)が存在しなくなる、ないしは破壊してしまうことになるのではないか、ということです。それは、コトバのみならず、まさに「文化共産主義」において容易に転用ないし援用できる倫理道徳や文化伝統に対し適応されたらどうなるか、という懸念が当然出てくるからです。「イヌ」と呼ばれる動物の概念を区別づけているのは集団的習慣でしかないわけですから。

意味と価値において基準となる差異概念

 さて、記号学がこうした内容を説くだけのものであれば、それは何も唯物論や言語原子論のようなものとは趣きを全く異にする思想として、別段目くじらを立てる必要もないでしょう。

 しかしながら、如何せん、ソシュールは言語学の領分を遥かに踏み超え、自らの言語学を中核に据えた「普遍的な学問体系としての記号学」の樹立を企図したのです。先にも触れましたが、その上で重要な役割を担ったのが、「差異」の概念とそこから生じてくる「価値」の考え方なのです。

 「記号の恣意性」を説いたソシュールの思想体系は、言語のみならず、文化全般というものが、「絶対」「不変」「普遍」「当為」とは対極にある「恣意的なもの」と見なすことで、その文化の持つ様々な意義や価値を解体するよう結果的に仕向けることになりました。それがポストモダン思想に直結するのです。

君が代反対闘争に通じる恣意性

 ここで一例を挙げてみましょう。日教組などが展開する「反国旗・国歌闘争」がそれに当てはまります。

 入学式や卒業式で日の丸を掲げ君が代を斉唱することに反対する教師らは、「君が代を強制させるのか。歌うも歌わぬも自由ではないか」という論法で法廷闘争を展開しています。

 つまり彼らにとって「君が代は恣意的な記号にすぎない」ものであり、それによって式典がどうなろうと関係ないのです。

 ところが実は、そうした論理でもって闘争を展開する彼らこそ、君が代の斉唱を「恣意的に戦前の軍国主義」と結び付けていることを、指摘しなければなりません。なぜなら、これは現在の日本国の国歌と定められている君が代を歌うということと、「戦前の軍国主義」とは何の関係もない、つまりその結びつきはまさに「恣意的」にほかならないからです。さらに言えば、彼らの方こそが逆に、警察や自衛官などの社会や国家・国民の安全を守る誇り高き職業に従事する人々やその家族を「差別」してきたことが、戦後の歴史を振り返ってみると明白に言えるのです。

 このように、一方的に「伝統文化」に込められた「価値」を恣意的なものだと糾弾し、「多様な価値の中の一つに過ぎぬ」と解体・無意味化を図ろうとするイデオロギーこそ、アラン・ブルームが『アメリカン・マインドの終焉』で強調する「ニーチェ主義の左翼化=ポストモダン」の意味するものと同じであると言えるのです。

 ソシュールの理論からはコトバの意味から「価値」が次のように決められることがわかります。
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 それでは、どうすれば語の意味と価値を区別できるだろう。そこでソシュールは、「シーニュ」(記号)に特有の二種類の関係に注目する。第一は、「シーニュ」を構成している二つの要素、つまり「シニフィアン」(意味するもの)と「シニフィエ」(意味されるもの)の関係、そして第二は、ある「シーニュ」とそれ以外の「シーニュ」の関係、つまりシーニュ同士の関係である。

 まず第一の関係。次の図では、それがタテの矢印で示されている(図4)

 ソシュールが考える語の「意味」は、このタテの矢印の関係、つまり「シーニュ」を構成している「シニフィアン」と「シニフィエ」が相互に働きかけ合って発生する。この語の「意味」が、しばしば語の「価値」と混同される。

 そこでソシュールは、語の「意味」と区分して語の「価値」を説明するために、「シーニュ」に特有の第二の関係、つまり複数のシーニュ間の関係に注意を促す。次の図ではそれがヨコの矢印で示される(図5)

 ソシュールが考える語の「価値」は、このヨコの矢印の関係から発生する。なぜなら、それぞれのシーニュは、それ以外のシーニュではないことによって、それ独自の存在の根拠を持つからである。ソシュールはこうした相互のズレのことを「差異」と呼んでいる。(『現代思想のパフォーマンス』)
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 このように「価値」は、ある種のものと別種のものの交換(ここでは貨幣と品物)を介して形成され、これが「あるものが異なるものと交換されて、その価値が決まる場合」です。マルクスはこれを「使用価値」と区別して「交換価値」と呼んだのです。

 ソシュールの価値論は、貨幣と商品(品物)とが「交換されることで価値が決まる」、つまり「交換価値」というマルクスの考えを多分に採り入れていました。マルクスは「使用価値」と「交換(商品)価値」概念を唱えるも、その根本に「労働」を据える「労働価値説」を主張しました。

 ソシュールは、①あるものが異なるものと交換されて、その価値が決まる場合②あるものが類似したものと比較されて、その価値が決まる場合││という二つの場合を考えました。

 しかるに、この二種類の「価値」の捉え方からすると、果たして何が導き出されるでしょうか。この「価値決定」プロセスが、本当にこのどちらかしかないとしたら、どのような事態が起こるでしょうか。

 さて、「交換(商品)価値」概念からすると、例えばヴィンセント・ファン・ゴッホの「ひまわり」と題された油絵がオークションで、百億円の値をつけたとします。ところが、そのオークションがまた開かれた時に同じ値をつけるとは限りません。展覧会や広告収入といった経済効果などのそろばんを弾いて決まるのではなく、専ら落札者の主観が大きく作用するからでしょうか。こうした「世界で唯一」といった芸術作品などの場合、貨幣による交換価値というものはある程度「相場」というものが存在していたとしても、「差異から生じる価値」というものは全く意味をなさないことになります。なぜなら、どんなに比較したとしても、それは「唯一無二」の価値でしかないからです。

 またイタリア・クレモナの弦楽器製作の巨匠、アントニオ・ストラディヴァリの製作した「ストラディヴァリウス」と呼ばれるヴァイオリンは、一挺でも時価数十億円と言われています。これは完全な手工品ですが、現存するものが六三〇挺ほどあると言われています。その多くは世界的な一流ヴァイオリニストらが所有したり、貸与されて使用しています。

 しかし、現代でも世界中で手工ヴァイオリンは名匠たちによって造られますが、名器ストラディヴァリウスの音も値段も絶対に超えられないと言われています。この事実も、マルクスの労働・商品価値説では説明できません。

 同じストラディヴァリというマイスター職人の手から生まれた楽器でも、それぞれに「特徴」があり「比較」は可能かもしれませんが、ストラディヴァリを複数挺持って個人が弾き比べなどということは、経済的に考えても通常ありえません。その意味では、いわば自分の家のようなものを何軒も持つことは一般的にないのと同様に、これを「所有の排他性」ということが言えるかもしれません。

要素還元主義とは対極にある絶対的価値

ゴッホの「ひまわり」

  さて、こうした「所有の排他性」というものを考えた時、そこに「差異による価値」は果たして生じるのか。「所有の排他性」ないし「排他的価値」とは、換言すれば「交換できないこと」だからです。

 例えば、当然のことですが、私たちは両親から生まれました。つまり「子は親を選べない」としばしば言われるように、モノを選んだりするようには家庭環境を選べないわけです。自分の都合のいいように親や子供を取り換えたりできないこと、「取り替えられなさ」「交換できない関係」というものは、世の中に少なからず存在しているのです。

 あるものと別のものとは、その「差異」によって価値が決まる、というのがソシュールの考え方でした。しかし、それでは自分の親とか家族といったような「取り換えることのできない存在」「取り換えられない価値をもつ存在」という場合は明らかに当てはまりません。

 「所有の排他性」(交換できない価値)という場合、人間関係における「所有」と言えば、「子は親のもの」「親は子のもの」「夫は妻のもの」「妻は夫のもの」という日本語の表現は、極めて強い所有の意味を有しており、何か違和感があるのですが、フランスの実存主義哲学者ガブリエル・マルセルの主著『存在と所有』という場合や、「私には子供が3人いる」という英語表現のように、広い意味での「所有」を表わす概念は存在すると言えますので、「所有の排他性」という表現は、それほど語弊があるとは言えないでしょう。

 いずれにしても、この「所有の排他性」は、言い換えれば、「それ以外のもの(人)をもっては取り替えることのできない価値」を有した存在だということです。それは前回も述べたように、「私にとって大切な人(存在)」というのは、それは「私にとっての存在そのものが価値を持っている、そのような存在」だということです。だからこそ、親や子や配偶者(夫や妻)という存在が、「欠けがえのない価値」をもつと言えるのです。

(「思想新聞」2025年5月15日号より)

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