新渡戸稲造(国際連盟事務次長)

「太平洋の懸橋たらん」

新渡戸稲造(岩手県出身 1862~1933年)

 

 夏草繁る、岩手県盛岡市の岩手公園。中央に「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」と刻まれた石碑がひっそりとたたずんでいる。

 東洋と西洋の「執成者」と、グリッフィスに称えられた新渡戸稲造。旧「五千円札の肖像」と紹介した方が分かりやすいが、『武士道』の著者として世界に知られている。この本は、日本が世界に知られていない日露戦争前の1901年、アメリカで発行され大評判になった名著。以後、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ハンガリー語、ロシア語、中国語、アラビア語などに翻訳され、世界の人々が、日本を知る絶好の参考書として読み継がれている。

 文久2(1862)年、南部藩士の7人兄弟の末っ子として誕生。少年時代は、母親がたびたび近所をわびて回るほどのわんぱくだった。
14歳で東京英語学校へ。16歳で札幌農学校に入り「少年よ大志を抱け」のクラーク博士の下で学び、クリスチャンに。その後、東大に入学、ここで生涯の目標「太平洋の懸橋たらん」と決意。

 23歳の時、アメリカへ留学。アルバイトに新聞の切り抜きなどをし、妻となるメリーと出会い、7年後に結婚。39歳の時、台湾の農業振興に尽力、砂糖の一大産地にする。

 また京大、東大などの教授を務め「女性にも教育を」と東京女子大の初代学長に。そして国際連盟の事務次長に就任。ユネスコの前身「国際知的協力委員会」をつくるなど活躍。“ジュネーブの星” “連盟の良心”と呼ばれる。

 晩年、関東軍の暴走により満州事変が起きると、戦争回避のため、病身を押してアメリカへ渡り、日本の立場を訴えるが、病気は悪化。翌年、無念のうちに72歳で没す。命懸けの「戦争阻止」はできなかったが、稲造の願った「世界平和」は、今、後継者たちの手により達成されつつある。

「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」と刻まれた石碑が建つ岩手公園

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