文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜(30)

「シーニュ」体系とは「文化の体系」

フェルディナン・ド・ソシュール(中)

概念と音響イメージで構成されるコトバ

晩年のソシュール(1857〜1913)

 前回のおさらいをすると、ソシュールは「コトバはモノの名前である」と考える「言語名称目録観」(一般的な言語観)ではなく、「シーニュ(記号)が結びつけているのは、概念と音響イメージである」と主張したと説明しました。この概念のことを「シニフィエ」(意味されるもの)、音響イメージを「シニフィアン」(意味するもの)として、コトバと呼ばれるものは、これらから構成される「複合的な単位」のことで、この複合的単位のことを「シーニュ」(記号)であるとしました。

 私たちが「イヌ」と言うとき、頭の中に浮かぶ「音響イメージ」を連想し、「イヌ」という概念が、例えば「イエ」でも「イカ」でも「イス」でも、「イケ」でも「イモ」でもない別のものとして区分されながら立ち現れてくるのだといいました。

 

人間が慣習的に言語習得する「差異」

 ここで、具体例を挙げてみましょう。ソフトバンクのスマートフォンなどの通信機器のCMに登場する「家族(白戸家)」では、なぜか白いイヌ(柴犬?)の姿をしているのが、子供たちに説教したりする「お父さん」ということになっています。この「お父さん」が、マスコット・キャラクター的存在で、販促プレミアグッズも「お父さんグッズ」となっています。

 しかし、このCMの背景にある物語や内容を知らない人にとっては、これはただの「しゃべるイヌ」にしか見えないはずです。このことを、ソシュール的に解釈すれば、このCMはある種の共通の「地盤」(ルール・解釈)を要求する「言語」のような働きをしていることになります。

 ソシュールは、「イヌ」が「イヌ」と呼ばれる必然性は全くないといいます。「イヌ」が「ネコ」と呼ばれたり「わんわん」と呼ばれたりするように、テレビCMを繰り返し見た幼児が、イヌを指して「おとーさん」と呼ぶ可能性もあるわけです。
これをソシュールは「言語の恣意性」と呼びました。この「言語の恣意性」については後述します。

 このソフトバンクのCMの例が奇妙に見えるのは、「私たちの言語に対する慣れが関係していると思われる。言い換えれば、私たちは日頃、自分たちの言語の使用について、それほど無自覚に生活している」(『現代思想のパフォーマンス』)からです。

 私たちは、古来からヒトが家畜やペットとして飼い慣らしてきたオオカミの仲間であるその動物を、「イヌ」と呼びますが、通常は誰しも博物学・動物学の厳密な分類を踏まえて「イヌ」と認識しているわけではなく、歩き始めたばかりの幼児ですら、「イヌ」でなくとも「わんわん」として他の動物と容易に識別します。その識別方法は、学術的に絶対的な定義でもって「イヌ」という概念を、人間は生得的ないし後天的に採り入れるのではなく、ソシュールの考えによると、それは端的に言えば、他の動物との「違い」「差異」から識別するようになる、というわけです。ソシュールにおける「差異」概念が重要であるゆえんです。

文化的背景により言語対応が異なる

ロラン・バルト

 さらに、「記号」としての言葉というものは、必ずしも一対一で対応しているわけではない、とソシュールは主張します。

 例えば、日本ではファッション用語で「羊皮」という場合、フランス語のmouton(ムートン)という言葉を使います。生きている家畜の「ヒツジ」は英語でsheep(シープ)ですが、これが食肉として食卓に上がると、lamb(ラム=子羊)やmutton(マトン=成羊)〔moutonに由来〕と呼び方が変わります。「ウシ」はcow(カウ=雌牛)またはbull(ブル=雄牛)がbeef(ビーフ)〔フランス語のboeufに由来〕となりますし、「ブタ」はpig(ピッグ)がpork(ポーク)〔フランス語のporcに由来〕となります。

 これは食肉用の語彙がフランス語・ラテン語から英語に入ってきたことを物語っていますが、英語の場合、最も身近な例外が「ニワトリ」、すなわちchicken(チキン)で、生きた家畜も、食肉も同じ呼称となっており、英国(あるいは英語圏)における食文化の原型というものが、垣間見えると言えるかもしれません。

 このような食文化についての英語の「使い分け」表現と同様な「分け方」というものが、例えば日本の「コメ文化」の言語表現にも当てはまります。

 それはつまり、こういうことです。日本では、水田で栽培されるものを「イネ」、秋に刈り入れて脱穀したものを「コメ」、さらにそれを炊いたものを「メシ」と呼び使い分けています。ところがコメを主食としない米国では、日本人がコメと呼ぶ植物は、田に生えていようが、脱穀なり精米なりしようが、調理しようが、「ライス(rice)」以外の呼称はありません。このことからだけ見ても、言葉は一対一で対応しているわけではないことがわかります(『現代思想のパフォーマンス』参照)。

 だからこそ、ソシュールは、「シーニュ(記号)の体系」としての「言語」(ラング)を、単なる言語表現手段の「道具」としたのではなく、まさに「文化の体系」というものを見ていた、と言えるのです。

 それは、ソシュール記号学の理論を20世紀後半に蘇らせた、フランス構造主義哲学者のロラン・バルト(1915〜80)が、日本文化を『シーニュ(表徴)の帝国』としたユニークな文化論を著したことからも窺えるのです。

大正時代の日本の田植え風景。日本では「コメ」「イネ」「メシ」と様々にコトバを使い分けるが英語ではすべて「rice」だけだ

風船が割れ他のコトバが空間占める

  さて、「記号としてのコトバ」が生成・区分されるとはどのようなことを指すのか、前出の『現代思想のパフォーマンス』がモデル模式図を用い説明しているので、次に引用してみます。

 記号としてのコトバによる世界の区分……それを知るには、丸山圭三郎が『ソシュールの思想』で用いた「箱」の例が便利なので、それをここでも利用することにしよう(図)

 この図の四角の部分を、動物という名称を持つ箱だと仮定してもらいたい。その箱の中には、いくつもの風船が、膨らんだ状態で入っている。それぞれの風船には、「イヌ」「オオカミ」「キツネ」「タヌキ」という名称がついている。

 今ここで「オオカミ」の風船を割ってみる。そうすると、この箱全体から「オオカミ」の風船が消えて、それと共に、それ以外の風船が、それまで「オオカミ」の風船があった空間を占めるように広がる。その結果、かつて「オオカミ」と呼ばれていた動物は、もはや「オオカミ」として存在しなくなり、それ以外の名称によって呼ばれ始める。

 この例から窺える通り、「オオカミ」という動物は、最初から存在していたのではなく、動物を記号で区分する方法に応じて、「オオカミ」として現れていたに過ぎない。そのため、ある文化圏で「オオカミ」と呼ばれていた動物が、別の文化圏では「イヌ」と呼ばれることが起こる(実際、世界にはそうした事例がある)。

 これに対して、「たとえオオカミをイヌと呼んでいる人たちがいるとしても、それは彼らが動物について正しい知識を持っていないからではないか」という反論があるかもしれない。しかし、動物に関する知識もまた、誰かによって作られたものである以上、それを構成しているルールがあるはずである。

 例えば動物学者たちは、彼らなりの方法で動物を区分して、動物に関する知識を作り上げている。とかく私たちは、専門家の権威に押されて、それを「正しい知識」と思い込みやすい。しかしソシュールなら、それは大きな誤解だと言うだろう。これを別の例で確認しておこう。

 オーストラリアの都市部では、ほとんど雪が降らない。雪を見たことのないオーストラリア人がたくさんいる。たとえ雪を見たことがあるオーストラリア人でも、雪は「スノウ(snow)」である。しかし日本では各地で雪が降るし、場所によっては何種類もの雪が降る(と考えられている)。中でも粉雪や牡丹雪は、よく知られている。例えば津軽では、新沼謙治の歌を信じれば、「七つの雪が降る」。しかしイヌイットの人たちの住む地域では、その何倍もの種類の雪が降るらしい。

 どうやら私たちは、雪との関係に応じて、雪の種類を区分しているらしい。つまり、何種類もの雪が最初からあったというより、私たちが雪との親密度に合わせて雪を区分するにつれて、その種類の雪が現れるわけである。

 だから、雪を見たこともなく、雪を記号で細分化する方法も知らない外国人が日本へ来ても、彼らには「雪」は見えても、「粉雪」や「牡丹雪」は見えない理屈である。それと同じく、一般の日本人がイヌイットの人たちの住む地域を訪れても、彼らの雪の区分の方法を習得しなければ、それまでの生活で身に着けた雪の種類しか見えないだろう。……(中略)……

 これまで見てきたとおり、ソシュールの言語観では、動物でも雪でも食物でも、何種類かのモノそのものが最初から存在して、コトバで名づけられるのを待っているわけではない。動物や雪や食物を記号によって区分するからこそ、それに応じて、それぞれのモノが存在し始めるのである。それゆえ、ソシュールに言わせれば、一般にコトバと呼ばれているものは、世界を区分する記号としての語のことであり、言語とは、記号としての語の相互関係から構成される体系のことにほかならない。

  ◇
 このように、「コメ」の様態を表わす日本語が多様であるというばかりでなく、「雪の種類」に関する言語表現も、文化背景によって全く異なってくるということになります。

 今日、「イヌ」と呼ばれている動物は、野生の「オオカミ」が長い年月をかけ家畜化され「イヌ」となった、と一般的に考えられています。実際、同じネコ目イヌ科イヌ属にカテゴライズされる哺乳類であり、上の写真だけ見れば「オオカミ」を「イヌ」と知覚する人は少なくないでしょう。

 

 

(「思想新聞」2025年5月1日号より)

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