文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜(46)

「民主主義+社会主義」W革命を企図

パルミーロ・トリアッティ(下)

クレムリンの闘争が第2ステージへ

 レーニン亡き後のクレムリンにおける権力闘争は、ソ連のみならず、書記長に納まったトリアッティのイタリア共産党(PCI)をはじめコミンテルン加盟諸国の共産党指導部にも甚大な影響を与えました。

 クレムリンではスターリンがトロツキーとジノヴィエフを追い落とすと今度は、ジノヴィエフ失脚後にコミンテルン(第3インター)議長に収まったソ連共産党きっての理論派ブハーリンとスターリンとの路線対立が表面化します。

 しかもコミンテルン加盟諸国の信任が篤かったのはむしろブハーリンの方で、伊共産党としてもグラムシ逮捕もありトリアッティが書記長となり、盟友アンジェロ・タスカ(一八九二〜一九六〇)をコミンテルン本部に派遣しました。トリアッティは当初、個人的にも関係の深かったブハーリンを支持していました。PCI代表のタスカには、「あくまでVKP(ソ連共産党)内の権力・路線闘争であり、問題に深入りはしない」と指示しました。が、 ブハーリンの敗北が決定的となり、トリアッティはタスカに対し、スターリンに恭順の意を表するように書面で指令を出すもタスカはブハーリンとの誼みからこの説得を拒否、ついに1929年2月、VKPでブハーリン派を糾弾する決議が採択され、ブハーリンは失脚。そしてコミンテルンの指令で翌年タスカはPCIを除名となりました。

スターリン主義にあらずんば共産主義者にあらず

 山田薫氏の前掲書では、トリアッティは後年、スターリン指導部の誤りを認めつつ、「なぜ抵抗しなかったのか」との問いに、「そんなことをしたら、私は殺されていただろう。歴史は、死ぬか、あるいは党を守るために生きるか、いずれがましであったかを問うだろう」と答えを引き、「当時はスターリン主義者でなければ、少なくともそれを装わなければ、共産主義者であることは不可能であり、ボルシェヴィキ的前衛とは異なる社会主義的発展を観念化することも不可能であった」と論評しています。

 このようにして独裁者の地位を固めたスターリンは1930年代から、ソ連国内はもとよりコミンテルン加盟国に至るまで徹底的な粛清を行いました。

 このように、「スターリンの腰巾着」と見られ、日和見主義者と見られたトリアッティですが、独自路線を打ち出すまでには、1953年のスターリンの死まで待たねばなりません。

 1935年の第7回コミンテルン大会でしたが、実はこれが最後のコミンテルン大会でした。同大会においてトリアッティは、「反ファシズム」の旗下に「人民戦線」路線を貫くというコミンテルンの方針を積極的に立案・提言化します。

 しかしあれほど大きな影響力を持ち、世界を席巻したコンミテルンは、第2次世界大戦終結前の1943年、突然解散したからです。

ソ連スパイの巣窟化ルーズヴェルト政権

 これは当面の敵ナチス・ドイツとその同盟国に対する戦いをスターリンは重視し、ともかく米国、なかんずくルーズヴェルト大統領との関係構築に細心の注意を払ったのでした。

 その中から終戦後の青写真を描き、その戦後体制でソ連が強力な権限を賦与されること(国連での拒否権を持つ常任理事国となることなど)を確約させた上で、共産主義イデオロギーによる国際組織「コミンテルン」の解散を認めたのです。

 ルーズヴェルト政権にはともかく政権中枢にソ連スパイが数多くいました。クレムリンばかりではなく、中国共産党と毛沢東にべったりの親中共産勢力が、戦後の日本をすら動かすことになるのです。

コミンテルンの解消とコミンフォルムへ

 米国はソ連のコミンテルン解散で、得をしたと思っていたはずです。すなわち、ソ連が世界革命を名実ともに諦め、一国社会主義の道を突き進むにすぎないと見くびっていたのです。

 ところが、それは米国の希望的観測に過ぎませんでした。というのも、終戦後直ちにスターリンは新しい共産主義理念による国際組織「コミンフォルム」(共産党国際情報局)を結成したからです。

 このコミンフォルムを中心として、NATO(北大西洋条約機構)に対抗した「ワルシャワ条約機構」が結ばれることになり、ここに本格的な「冷戦時代」が到来することになったのです。この「コミンフォルム」にはもちろん、コミンテルン時代の各国共産党も参加しました。トリアッティの率いていたイタリア共産党もその例に漏れません。

 しかし、1950年代からすでに、コミンフォルム加盟諸国は「民族自決」など完全に無視するソ連の武断統治のやり方に疑問を抱いていました。

 その後スターリンの死によって求心力が低下し、コミンフォルムはスターリン批判と共に1956年に廃止ということになります。

スターリンだけでないソ連帝国体質

 トリアッティが新しく打ち出した「構造改革」論は、世界の左翼人士たちに少なからぬ衝撃をもたらしました。1953年のスターリンの死で、スターリン批判が「解禁」され、「デタント(雪解け)」の時代を迎えます。ところが実際には、専制独裁者が替わったとはいっても、一九五六年の「自由」を希求するハンガリーの人々の「反乱」は、フルシチョフの命令の下にソ連軍の戦車によって武力弾圧(ハンガリー動乱)。まさにこれが「NATO対抗」を謳った「ワルシャワ条約機構」すなわち「ソ連型帝国主義」の本質でした。

「民主主義+社会主義」W革命を企図

 レーニンの率いるボリシェヴィキが成し遂げた「ロシア十月革命」は、マルクスの「予言」(高度に発達した資本主義社会において社会主義革命が必然的に起こる、とした説)とは異なる結果をもたらした「故事」を引きながら、今度はレーニンの理論的言説にも「修正」が加えられることはあっても可ではないか、というトリアッティの「言い訳」は、責められるべきものではなく、同じ「社会主義」への道を歩もうとする点で、選択肢の一つだ、というものでした。

 こうした考え方は、冷戦の真只中においては、ソ連を「共産主義国家の総本山」と見たり、少なくとも一目を置く「スターリニスト」と呼ばれたソ連擁護派(日本では共産党)や、「世界革命」を唱えたトロツキーを評価し「反ソ・反スターリニズム」をスローガンとした「トロツキスト」勢力はともに「暴力革命」を否定することはありません。

 もちろん、ここでトリアッティも「暴力革命」を全否定するわけではありません。キューバ革命でのカストロ政権登場も積極的に評価しました。

議会的手段による社会主義達成の夢

  「イタリアが議会的手段で社会主義に到達する可能性」に、トリアッティは、次のように答えています。

 「社会主義的改造に反対している諸政党の中には、反民主的手段をもって、労働また民主運動の抑圧をもってまたファシストがなそうと試みたように公然たる暴力をもってさえ、進歩を阻止しようとする潮流が優勢となることはありうる」

 この言を踏まえ、山崎功・著『パルミーロ・トリアッティ その生涯と業績』では次のように述べます。
    ◇
 つまり相手が暴力に訴えるならば、それに応じる用意があるということである。……民主主義が徹底し、国会がそれを正当に反映する鏡であることが条件であり、さらに共産党が強力に組織され、また社会主義のためにたたかう諸政党が行動のうえで統一されることも条件となっている。これらの条件が実現されたとき、議会利用の可能性が生じるのであり、しかもなおかつ、これを阻止する反対勢力が、暴力の行使に及ぶという情勢が生じるならば、そのときには、その情勢に対応する措置をとるということなのである。
    ◇

ブルジョア民主主義と社会主義の同時革命

 「暴力革命」を留保しつつ、「レーニンの修正」をトリアッティが試みたのは、「民主主義・社会主義革命」であるというのです。

 「それはイタリア社会の経済構造および政治構造の二重性、南部農業の後進性と北伊工業の進歩性との対立、前者の後者に対する従属、後者の前者の搾取による繁栄、このうえに樹立された政治構造の複雑性、それからも生じている階級構成の特殊性、それらにからむ教権世界の支配、などに特徴づけられた状況から決定されたものであった。それは『資本主義的旧指導階級に対する闘争には、労働者階級と農民大衆との階級的政治的同盟が確立されるべきであったが、この分析は、労働者級と農民の中に、民主主義・社会主義革命の原動力を明らかにした。……後進地域の状態の中に、わが国の歴史的諸条件をはっきり見た。この諸条件こそは、この階級的同盟に特殊な内容を与えるものであり、……この階級的同盟の幅を、都市中小ブルジョアジーの広範なグループさえも包含するところまで広げる』ものとなる。

 ここでは、ブルジョア民主主義革命と社会主義革命とが同時に遂行されねばならぬのであり、両者の段階的対置はありえない。一方における民主主義革命への推進こそが他方における社会主義革命の成功を助成し、民主主義的任務も社会主義的任務も両者の同時的革命でしか遂行しえぬとする不可分の統一性は、イタリアの現在の歴史的局面によって与えられたとしている。それは労働者・勤労者階級の民主主義政府確立の闘争のための局面である」(『生涯と業績』)。

フランス革命とロシア革命の経緯

 すなわち、「構造改革路線の本質」とは、ズバリ「ブルジョア民主主義革命と社会主義革命の同時遂行」ということになるわけです。もっとも、ロシア革命やフランス革命の経緯を見ても、最初期には「ブルジョア革命」として始まり、それが暴力や恐怖政治による社会主義ないし共産主義による革命へと変貌したということが言えましょう。

 この点において、トリアッティは歴史をよく見ていたと言えます。しかし注意すべきは、民主的方法で権力を手にしても、「革命」は終わりではありません。それが「暴力的手段への留保」につながり、あくまで「共産主義革命」への道程に過ぎないと位置づけていることが窺えます。

(「思想新聞」2026年3月15日号より)

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