「心霊」への科学的アプローチ
ウォレスと「精神世界」
前回では「進化論」を発表したチャールズ・ダーウィンはしだいに(『人間の由来』以降)、人間の脳や精神、道徳性も「動物から(目的もなく自然選択によって)進化したもの」と考えることで、生物学的にはエルンスト・ヘッケルらの発生学と結びつき、「生命ではない元素から有機化合物、さらには生命体への《進化》」、「サル(類人猿)から人間(ヒト=ホモ・サピエンス)への《進化》」が一般的に進化論と受け止められます。そして、ヒトの間にも「類人猿に近い人種から最高度に発達した白人種」だとの考え方が19〜20世紀の欧米世界では「普通の人間観」でした。
それがある意味で人種差別的な価値観を正当化してきたとも言えますが、その極致とも言えるのがまさに「優生思想」「優生学」で、これを英国を中心に担ったのが、ほかならぬゴルトンやレナード・ダーウィンなどの「ダーウィン一族」だったことを紹介しました。ダーウィン家は学者や医師、投資家などまさにブルジョア上流階級でした。
測量士から教師、昆虫学の研究者へ

アルフレッド・ラッセル・ウォレス
一方、後にダーウィンと進化論の論文の「共同提出者」となるアルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823〜1913)の生涯は、実に興味深いものがあり、今回はウォレスが「霊的存在としての人間」を科学的に迫ろうとしたことについて論じてみましょう。
ダーウィンが華麗なるインテリ階級出身なのに比べ、ウォレスは中流階級出身ですが生活は貧しく、実業学校に進み見習い測量士となり専門的な生物学の教育は受けませんでした。測量士や教師の職業に就きながら、やがて天才的昆虫学者のヘンリー・ベイツと出合い、1848〜52年にかけ昆虫の標本採集のために南米を共同で旅行。その後自ら研究者となり、54〜63年にかけてマレー諸島を探検。この間、動物相の世界的地理分布である東洋区とオーストラリア区の境界線を発見し、これは今でも「ウォレス線」と呼ばれています。
ウォレスはまた、ダーウィンのようにマルサス『人口論』を読み自然選択を思い付きます。つまり生物はすべて生まれる数に比べ、成体となる数はわずかで、熾烈な生存闘争の果てに適応的に少しでも有利な形質を持った個体が、優先的に生き残る可能性が高く、それが「生物種の変化」をもたらすという考えです。
しかし、ウォレスは自分と同じ考えを持つダーウィンの存在を伝え聞き、謙虚にもダーウィンに「お伺い」を立て、自分の論文を発表する了解を得ようとします。ダーウィンは、すでに1830年代には自然選択説を思い付いてましたが、20年以上も自説を公表せず、さまざまな反論を予測し、自説を裏付ける証拠を集めていたためのようです。
自然選択説をめぐるダーウィンとの確執
しかし、前回も述べたように、ダーウィンは友人の地震学者ライエルに仲裁を依頼し、2人の論文は1858年のリンネ学会で同時に発表されたのです。そして翌59年に『種の起源』が刊行されました。
ウォレスは、測量士出身で職人気質から、厳密にデータのみを分析し、科学理論に思想性を持ち込むことを嫌うという態度が、逆にやがて「科学の限界性」を実感することになったと言えるかもしれません。
2人の立場の違いは、「人間の進化」をめぐり決定的となります。ウォレスは、「人間の知性の由来は自然選択では説明できない」と主張。彼は旅行先で出会った未開人の脳の潜在能力が、文明人と全く差がないことに気付いた。実際に彼らを英国に連れて行くと、すぐに英語を覚え文明生活にも馴染み、数学や哲学さえも理解することができました。つまり未開人は、「知的に劣っているのではなく、その能力を使っていないだけ」だったのです。
人類のみに自然法則以外の法則が働く?

19世紀末の欧米では空前の心霊ブームが起こり、降霊会や空中浮揚などがしきりに行われた
自然選択説では、使用しない形質あるいは機能は進化したりしません。そこでウォレスは、「人類の知性の進化には、自然法則以外の目に見えない霊的な法則が働いている」と考えるようになります。そして、人間の霊性をより高次へと導く「指導霊」(つまりは神?)が存在すると考えました。
しかもウォレスは、実は若い頃から「心霊現象」に関心を持ち、「降霊会」にも頻繁に足を運んでいたと言われます。彼自身は霊能者ではありませんが、降霊会で目の当たりにした霊現象を事実として認め、それを科学的に解明しようと意図していたのです。19世紀後半といえば、思想的には物質中心主義が広く蔓延し始める時代でしたが、その反面、降霊会なども各地で盛んに行われていました。
こうしたウォレスと精神世界、つまり心霊主義(スピリチュアリズム)については、デボラ・ブラム著『幽霊を捕まえようとした科学者たち』でも仔細に述べられています。
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初めてロンドンの降霊会に参加してみて、科学的証拠たりうるものは何もないのがわかった。どの降霊会も、希望を持てる程度には不可思議だった。何はともあれ、不可解なことが起きるのは見たと主張できた。科学の法則ではこれまで説明できなかった——おそらくこれからもできない——ことが起きるのは見たと。…(中略)…
多くの前人と同じく、ウォレスもダニエル・ダングラス・ヒュームの降霊会にはとりわけショックを受けた。いくつかの現象は「事実という確固たる基盤を与えてくれた」として、ほかの科学者たちにも自分とともに調査を続けるよう求めた。「説明できないからといって科学が無視してきた」謎について、自分のように頭を悩ませている知識人は、他にも大勢いるに違いない。彼はそう書いた。
ダーウィンは直ちに、君は自分たちを批判する陣営に誤ったメッセージを送り、霊の力というものに不当な信用を与えようとしている、とウォレスに警告した。ダーウィンが危惧したのは、進化論の提唱者の一人が、科学を捨てて迷信に味方したという印象を、世間に与えてしまうことだった。
「君はまるで(幼虫へと)変態した博物学者だ」とダーウィンは強い調子で書いている。「君が自説を覆すことは私が許さない」 しかし、ダーウィンは激高のあまり重大な点を見逃していた。アルフレッド・ラッセル・ウォレスが進化論に背を向けたことは、後にも先にも一度としてなかった。ウォレスは進化論を普及させ、一生をかけてさらに磨き上げていく。一八八二年に没するダーウィンを遙かに超えて、二十世紀の声を聞くまで。
ウォレスは自分の理論を否定したわけではなかった。ただ、満足のいくものではないと気づいたのである。素朴な適者生存と、機械的な進化だけでは十分ではないと。
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このようにウォレスの言動が、当時のアカデミズムから「科学の正道を逸脱している」と思われたことは想像に難くありません。実際ダーウィンは引用文のように、ウォレスの態度に心を悩ませ、ダーウィンの友人、トマス・ヘンリー・ハクスリーは、公然とウォレスを非難したのです。
中流階級出身で独学で知識を身につけたウォレスは、マレー諸島の生物の生態系を具さに調べ、ダーウィンとは独自に進化のシステムがあるという結論に至ります。ところが帰国後、ダーウィンの自然淘汰説を自ら「ダーウィニズム」と命名し、その「布教」のため国中を回る中で文明社会の暗部を目にしたウォレスは、マレーの「未開文化」と英国の先進文明とでは、実は倫理道徳という点で何ら「進歩」とは関係ないと痛感します。
折しもニーチェの「神は死んだ」と進化論思想がキリスト教世界観に与えた衝撃は測り知れないものでした。その一方で、教条的なキリスト教に収まりきれないが、死後の世界や霊魂の存在を認める人々は、精神世界と心霊研究に俄然注目していたのです。
キリスト教的世界観と言わずとも、ウォレスは「宇宙に一つの道徳的な力が働いている可能性」について考え始めます。この「高次の力」が存在する可能性まで科学が否定してしまえば、無道徳状態に陥り、社会を破壊する。そうしないため「自然の物理的側面だけでなく道徳的側面をも」研究するのが科学者の責務と信じたことから、ウォレスは1865年に「降霊会」に参加します。「盟友」のはずのダーウィンは激怒し、「霊の力に不当な信用を与える暴挙」と非難しますが、ウォレスは己れの信念を貫きます。
「知的設計者」の考えの先駆者に
ウォレスは、人類の肉体については、確かに自然淘汰説で説明できるものの、精神については違うと見て、知性や道徳・心は、別の道筋をたどって発展し、特に「良心」は発見されざる何らかの力の導きによって創られたのではないか、と考えました。宇宙の目的とは、精神の進化を促し、「地球の物質的な不完全性」さえ、無作為ではなく目的があり、何らかの「高次の力によって計画されている」のではないか、と。
そして人間に特有な崇高の感情について、「冬の寒風や夏の灼熱も、火山も、つむじ風や洪水も、不毛の砂漠も、暗い森も、すべてが〝刺激〟として働き、人間の知性を発達させ、鍛えてきたのではないか。その一方で、世界中のどこにでも常に存在する抑圧と不正、無知と犯罪、悲嘆と苦痛は、正義や、憐れみや、思いやりや、愛といった、より高邁な感情を訓練して鍛える手段だったのではないか。それらの感情は、人間が自らの最も崇高な特質と考えるもので、他の手段で発達してきたと考えるのはまず不可能だ」とし、「こういう見事な計画者が存在する」証拠を探すため、超常現象を調査したのです。
このウォレスの考えはまさに、「20世紀の創造説」ともいうべき「知的設計」(インテリジェント・デザイン)の理念そのものと言えましょう。まさに彼は機械的還元主義の限界を見通していたのです。
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ここで、ウォレスが心霊主義に傾倒したことを記したデボラ・ブラムの『幽霊を捕まえようとした科学者たち』についてもう少し論じてみましょう。
同書の原題は『ゴーストハンターズ』で、主人公は、プラグマティズムで著名な哲学者ウィリアム・ジェームズ。プラグマティズムと言っても、デューイのような「即物的道具主義」ではなく、ジェームズがいかに科学的あるいは論理的に、彼岸の世界(霊界)や霊的存在を真剣に記述しようとしたのかが描かれます。
ハーバード大教授の地位を顧みず「心霊研究」に没頭したジェームズ、そしてダーウィンの「警告」を制して心霊研究に没頭したウォレス、物理学者でSPR(心霊現象研究会)設立者のW・バレットやノーベル物理学賞受賞のキュリー夫人、血清療法の生みの親シャルル・リシェなどの著名科学者、さらにコナン・ドイルやマーク・トウェインなどの文豪や霊能者に身近に接していた深層心理学のユングなども、こうした「ゴーストハンター」に名を連ねているのです。
その一方で、ダーウィンをはじめ電磁気学の権威だったマイケル・ファラデーや稀代の発明家トマス・エジソンらは、まさに唯物的な「アンチ・ゴーストハンター」と位置づけ、本書を、「科学思想上の闘争史」としての一面を浮き彫りにしている点が興味深いと言えましょう(ただし、エジソンは1910年にジェームズが没し、ジェームズの霊魂が地上に降臨したと世情で話題になった時、「人間は細胞の集合に過ぎず、脳は素晴らしい機械に過ぎない」と唯物論者でしたが、後に晩年は死者との通信機を試みるなど心霊研究に没入した「転向者」)。
その時代背景としては、19世紀末から20世紀前半にかけての出来事で、後世のいわゆる「インテリジェント・デザイン」(「神」や「サムシング・グレート」など「知的設計者による創造」を認める考え)に与するのが前者の「ゴーストハンター」であり、「進化論」をさらに敷衍した現代版「アンチ・ゴーストハンター」の代表が「利己的遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンス博士で、彼は「神は妄想である」という本まで書いて「唯物無神論」の「伝道者」となっているのです。その意味で「有神論」か「無神論」かという「科学思想上の闘争史」は、今なお古くて新しい問題であると言えるでしょう。
(「思想新聞」2024年12月15日号より、加筆)