文化マルクス主義の群像~共産主義の新しいカタチ~(7)

「エンゲルス後」の対立から修正主義に

 

独社民党と第2インター《上》

 「マルクスの第2ヴァイオリン」を自任したF・エンゲルスは1895年に没し、周到な遺言が残されました。しかしそれは一つの時代の終わりであると同時に、マルクス主義者たちの間にくすぶり続けていた矛盾が一気に突出した、まさに新たな闘争の始まりでした。それはまた「もう一つの共産主義」が顕現する契機ともなったのです。

 エンゲルスの遺言は主に、マルクスとエンゲルスの遺稿の処理でした。まずマルクスの遺稿や手紙は、末娘エリノアに返還。エンゲルスのそれは、ドイツ社会民主党(マルクス主義政党)のアウグスト・ベーベル(1840〜1913)とエドゥアルト・ベルンシュタイン(1850〜1932)に委任。一方、エンゲルスの遺言執行人は、エンゲルスの友人のサムエル・ムアとベルンシュタイン、それにルイゼ・カウツキーの3人が指名されました。

ラサール派とアイゼナハ派とが対立

エドゥアルト・ベルンシュタイン

  ここでドイツ社民党に触れてみましょう。もともとドイツでは、社会的地位の向上を求める労働者層が同時に普通選挙などの政治的民主主義を要求していたことから、これらの主張が「社会民主主義」と呼ばれ、それがもとで後日、「ドイツ社会民主党」と称することになったのです。

 ドイツでのマルクス=エンゲルス思想の最初の共鳴者は、フェルディナント・ラサール(1825〜64)でした。彼は『共産党宣言』の出された48年にマルクスの影響下に社会民主主義を奉じ、63年に「全ドイツ労働者協会」を設立(これがドイツ社民党の最初の前身的組織となります)。1864年秋、マルクスらはロンドンで「国際労働者協会」つまり「第1インターナショナル」を創設、その直前にラサールは急死。ラサールはマルクスの影響で社会主義者になるも彼の考えは「革命」よりも「社会改良」を重視。労働運動を担う社会主義者らは、社会的地位の向上が何よりも重要と考え、国家が社会主義的政策を採用すれば評価しました(国家社会主義)。この考えはラサール死後も残り、国家社会主義的な「ラサール派」を形成します。

 一方、マルクスにとり「国家はあくまで支配階級の道具にすぎない」ので、国家が社会主義的政策を採用しても、それは労働者階級の懐柔策というわけです。この解釈を踏襲したのがベーベルとヴィルヘルム・リープクネヒト(1826〜1900)らで69年、マルクス主義を奉ずる社会民主労働党を結成(アイゼナハ派)。ベルンシュタインはこのアイゼナハ派に属します。

 このようにラサール派、アイゼナハ派の両派の考えは、相容れないものであれ、国家が労働者の言い分に耳を傾けない時代にあっては、両者は同じ「社会民主主義者」として共闘できたわけです。

 普仏戦争に勝利したプロシアを中心に1871年にドイツ帝国が成立、宰相ビスマルクがラサール派ら国家に期待感を持つ社会改良主義者を懐柔し党の分断を図り、「社会主義者鎮圧法」を成立させ、社民党はドイツ国内で表だった政治活動が困難になりました(施行=1878〜90)。

 だから分裂・抗争している状況でなくなり、75年に両派はドイツ中部ゴータに集まり合流。ここで「ゴータ綱領」を採択するもラサール派の影響が強いものでした。マルクスは綱領に激怒し、『ゴータ綱領批判』を執筆。かくして対立的な考えがドイツ社会民主党の底辺に流れていたのです。軌道修正されたアイゼナハ派は、マルクスの死後1891年の「エルフルト綱領」で主導権を握り、文字通り「正統マルクス主義」を打ち出すことになります。

べーベルとカウツキー軸に正統派を形成

  このように党内思想闘争がマルクス生前からあり、「ゴータ綱領」を経て、マルクス思想を体現したものとしてエンゲルスが「お墨付き」を与えた「エルフルト綱領」を91年に採択し名実共に「共産党」となったのです。

 そして、エンゲルスがマルクスと育てた党の「行く末」について述べたのが、「資料」に掲げた「政治的遺言」です。ドイツ社民党はマルクス=エンゲルスの遺志を継いだものの、エンゲルスの死後、マルクス主義解釈をめぐり党派抗争(修正主義論争)を展開。

 ベーベルはマルクスの「後継者」と目された反ビスマルクの国会議員で、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』以前に『婦人と社会主義』(1879)を著した理論家です。「社会主義革命なくして婦人の真の解放がない」と論じ、エンゲルスにも影響を与えたのです。

 一方、ルイゼ・カウツキーは、「ドイツ社民党の正統派」を自任する理論的指導者カール・カウツキー(1854〜1938)の前妻で、エンゲルスの晩年を助けました。彼女を信頼したエンゲルスは離婚をめぐりカール・カウツキーを嫌ったのです。しかし彼が後の共産主義運動へ与えた影響には多大なものがあります。

1871年、ドイツ帝国が成立

正統派の急先鋒だったベルンシュタイン

 カウツキーは思想面でベーベルと同調し、ベルンシュタインの修正主義に反対。しかし、レーニンのロシア革命によるプロレタリア独裁論を激しく批判し対峙することになります。

 ベルンシュタインは、ドイツ社会民主党で「修正主義の創始者」と呼ばれることになる人物です。実質的かつ有力なエンゲルスの後継者の一人であり、機関誌『社会民主(ゾツィアル・デモクラート)』の編集の中心メンバーでした。その意味で党の中核メンバーと目されながら、特にマルクスの「貧困増大の法則」を批判し、社会革命を否定、議会主義による漸進的社会主義の実現を提唱し、のちにヨーロッパの社会主義に大きな影響を与えました。

 ベーベルはこの「修正主義」に反対、さらに急進的共産主義者、特にローザ・ルクセンブルクらはこれを厳しく批判しました。しかし民主主義の本義からすれば、ベルンシュタインの判断の方が正しかった、ということは歴史が証言していると言えるのです。

 ベルンシュタインはベルリンで機関車運転手の子に生まれ、1872年にベーベルやW・リープクネヒトらの指導する社会民主党アイゼナハ派に入党。その動機は当時銀行員だった彼が、不正が横行する取引所の腐敗ぶりに幻滅したからです。その意味では、ベルンシュタインは「生え抜き」のマルクス主義者ではなかったと言えるでしょう。

 さてビスマルクがラサール派を懐柔し、成立させた「社会主義鎮圧法」によって国外生活を余儀なくされたベルンシュタインは、スイス・チューリッヒなどに移り住み、ロンドンのエンゲルスと緊密に連絡を取り合いながら、機関誌編集に携わります。この頃のベルンシュタインは誰の目にもエンゲルスの意向に忠実な「正統派」の急先鋒として映りました。

 「ベルンシュタインの急進的立場は、ビスマルクによる社会主義運動弾圧と資本主義早期崩壊への期待とを背景としていた」(『ベルンシュタイン 亡命と世紀末の思想』)と亀嶋庸一・成蹊大教授が述べるように、19世紀の最後の四半世紀における世界的大不況に見舞われていた社会的背景がマルクスの理論の正しさと資本主義の早期崩壊を実証しているかのように見なしていたようです。

 しかしそうした中にあっても、「マルクス主義正統派」の人々とは独自なものであった点は、革命をめざす「セクト集団」から「議会主義政党」への脱皮を試みていたということです(1884年の帝国議会選挙において、ドイツ社民党は議席を倍増させました。このような事実から、上に掲げたエンゲルスの「政治的遺言」がなされたことに注目すべきでしょう)。

(「思想新聞」2024年4月15日号より)

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