文化マルクス主義の群像〜共産主義の新しいカタチ〜(51)

マルクスとフロイトとの融合を仲保

エーリッヒ・フロム(上)

 ファシズム成立の心理状況を「自由の放棄」という視点で著した『自由からの逃走』で知られるエーリッヒ・フロムはフランクフルト学派の1人となりました。つまり、「マルクス主義とフロイト精神分析学との融合」という学派挙げての試みに主導的役割を担ったのであり、下部構造ではなく上部構造の分析をフロイト思想を用いて理論づけようとしたのです。

ルカーチの『歴史と階級意識』端緒

 フランクフルト学派について今一度おさらいをすると、ドイツのフランクフルト大学の社会研究所がその発祥です。ドイツ屈指の金融街を持ち最もユダヤ人と親和性の高いフランクフルトに設置された大学の研究機関として付置されたのが「社会研究所」 (Institut fur Sozial-forschung) で、「マルクス主義による新たな社会科学研究」を標榜し1923年にスタートします。

 その中核となったのが、ゲーラベルクで開催された「マルクス主義研究週間」で、ハンガリー共産党のジョルジ・ルカーチ、後にコミンテルンの大物スパイとなるリヒャルト・ゾルゲ、マルクス主義歴史家のカール・ウィットフォーゲル、日本共産党員でドイツ遊学し「福本イズム」で党を席巻した福本和夫、評議会共産主義者のカール・コルシュらが参画しました。

 このシンポジウムで「新しいマルクス主義」の可能性をもたらす思想として「バイブル」視されたのがルカーチの『歴史と階級意識』です。経済論中心のマルクス主義から文化・精神的側面での階級意識の変革による「革命への新たな地平」を拓くものでした。

 そして学派の構想を担ったのが、1930年に2代目の所長となったマックス・ホルクハイマー。彼が標榜したのは「学際的唯物論」と呼ばれるもので、「マルクス主義によるあらゆる学問の体系化」を目指すものでした。

 当時は、「ドイツ革命の失敗」と「ロシア革命の成功」によるボリシェヴィズムへの「限界」と「反省」を踏まえた中から、マルクス主義の模索が試みられた背景があり、そこでホルクハイマーが注目したのは、人間の深層心理に斬り込むフロイトの精神分析学とマルクスとの融合というテーマだったのです。

フロイト〜ライヒ〜フロムという繋がり

 1933年、ナチス政権成立で、ホルクハイマーをはじめメンバーの多くが亡命し、活動拠点が米国へと移りました。ホルクハイマーやアドルノらは大戦後ドイツに帰国する一方、ヘルベルト・マルクーゼらは米国に留まります。学派の活動は再びドイツが中心となり、1960年代に世界的な大学紛争の渦が巻き起こると、反ソ・反スターリニズムを掲げる新左翼運動の理論的支柱となりました。

 さて、初めてフロイトとマルクスの融合を説いたのは、フロイトの「高弟」にして共産党員のヴィルヘルム・ライヒが嚆矢でした。ライヒは直接的な「フランクフルト学派」との結びつきはありませんが、ライヒとフランクフルト学派を結びつけた仲保者こそが、ファシズムと「権威主義的性格」を結びつけたフロイト左派の1人エーリッヒ・フロムなのです。

妻フリーダも共産党員で精神分析家

 フロムはユダヤ教正統派の両親の間にフランクフルトに誕生。ハイデルベルク大学でアルフレート・ヴェーバー(マックス・ヴェーバーの弟)、カール・ヤスパース、ハインリヒ・リッケルトらに師事し学位取得。ミュンヘン大学、ベルリン精神分析研究所で精神分析の訓練を受けました。

 当時、ベルリンでフロムに精神分析を指導したのが、ウィーンのフロイトからベルリンに「暖簾分け」されたライヒでした。ライヒは学生時代から共産党員で、学祖・フロイトの「性的抑圧と昇華」という理論的な枠組みを遙かに突き抜け、「一切の性的抑圧からの解放=性解放」を唱えたその人でした。

 1926年に共産党員にして精神分析家だったフリーダ・ライヒマンと結婚しますが、このライヒのベルリン精神分析研究所とフリーダの影響に関し、徳永恂氏が『フランクフルト学派の展開』(新曜社)で次のように述べています。
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「既にフリーダのサナトリウム運動が、貧困階層の救済という社会的色彩を持ち、マルクス主義への傾斜を示していたのだが、フロムが30年から本格的な分析医としての修行を積んだ『ベルリン精神分析研究・診療所』は、当時マルクス主義と精神分析の結合を目指す先端的試行の牙城だった。とりわけそこで出会ったライヒの影響は││後にフロムは沈黙し、ライヒはフロムへの失望を表明しているが││極めて大きかった。精神分析とマルクス主義の理論的結合点としての『性格』理論、とりわけ『サド・マゾヒズム的性格』論の発想を、フロムがライヒから受け継いでいることは否定しようもない。こうしてフロムにおけるユダヤ教→精神分析→マルクス主義という展開が行われる。『自由ユダヤ学院』でフロムを教えたことのあるショーレムは、『最後までユダヤ教正統派に止まっていた』フロムが、ベルリンで会った時には、『熱狂的なトロツキストになっていた』と記している」
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 フロムはベルリンを離れた後、フランクフルト大学精神分析研究所で講師、ホルクハイマーの社会研究所にも所属。ナチス政権成立で同研究所が閉鎖に追い込まれ米国に亡命、コロンビア大学などで教鞭を執ることになります。

 フリーダは「ゲシュタルト療法」を確立したクルト・ゴールトシュタインに精神医学を師事し、ゴールトシュタイン教授の許でフランクフルト大学で2年間助手を務めます。その後、フリーダは精神分析学を学び、1924年にハイデルベルクで診療所(サナトリウム)を開業します。

 徳永氏によれば、フリーダのこのサナトリウムは「ユダヤ教的色彩が強く」、「ユダヤ教療法所」とも呼ばれていたと言いますが、「フリーダ自身の個性的魅力と相まって、フランクフルト界隈の学生や若い知識層を惹きつけ、一種の知的革新運動の拠点になっていた」、つまりフリーダのユダヤ人に寛容な街フランクフルトの「若者の知的サロン」と化していたというわけです。このサナトリウムで精神分析を受けた一人がE・フロムであったことはもちろん、進んで精神分析を彼女から受けた青年たちが多くいたのです。

 フロムは10歳年上のフリーダとサナトリウム開業2年後の1926年に結婚。結婚生活は実質4年だけでしたが、離婚後も「精神分析の同志」として、長く交友関係を保ちました。

 ところが実は結婚当初から、「分析関係と夫婦関係は両立しない」ために、フロムは「精神分析の修行」を別の「師匠」、ライヒに求めたのです。

ホルクハイマーとフロムとを結んだ契機

 フロムがさらに次に精神分析(教育分析)を受けたカール・ランダウアーを主宰として精神分析の研究会を始めますが、これがやがて「フランクフルト精神分析研究所」となります。このフランクフルトにおける活動が、やがて「フランクフルト学派の総帥」であるマックス・ホルクハイマーの知るところとなり、フロムを「フランクフルト学派の研究員」として迎えるきっかけとなるのです。

 そもそも、後にナチスの強制収容所で非業の死を遂げるランダウアーに、ホルクハイマー自身が、「精神分析」を受けたクライアントだったようです。

 とにかくこうした縁から、ランダウアーを所長とする精神分析研究所が、社会研究所の建物の中に「寄留する形」で設立されることになり、フロムとホルクハイマーの本格的「共同作業」が、ここからスタートすることになりました。つまり、ホルクハイマーの「学際的唯物論」研究プロジェクトの、大きな目玉となったと言えるのです。


学派のフロイト受容を橋渡しするフロム

 フランクフルト学派の知的起源はマルクスとフロイトだと言われている。ホルクハイマーの場合にはショーペンハウアー、アドルノの場合にはニーチェというふうに、さらに個性的特色が加わるが、このことはほぼ一般に通じる学派の基本的傾向と言えよう。既に『啓蒙の弁証法』においても、人間は外的自然への支配を内的自然の抑圧を通じて購ったのだという認識などに、人は後期フロイトの発想の影響を認めることができよう。しかしもともとフランクフルト学派に「フロイト問題」を導入し、30年代を通じてそれを展開する上で主だった役割を果たしたのはフロムであった。

 フロムはt……敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ち、青年期をローゼンツヴァイクやブーバーたちのユダヤ精神運動の中で過ごした。しかし1920年代半ばにフロイト思想に触れることによって信仰を捨てる、最初期の彼の仕事は、宗教的な教義や慣習をフロイト理論によって説明しようとする「宗教心理学」的な研究に捧げられている。やがて彼はマルクスに触れることによって、精神分析とマルクスとを結びつける独特の「社会心理学」を企図するようになる。

 フランクフルト学派は、社会学の面では、ありのままの事実を価値評価抜きで研究することに満足する実証主義的態度に反対し、正しい社会はいかにあるべきかという理念に照らして、現実を批判することを課題とする「社会の批判的理論」を旗印とする。こういう立場に基づいて、ファシズム批判や、後の「管理社会」批判が展開されることになるが、その場合にフランクフルト学派は、従来のマルクス主義のように経済学的説明一本槍で済ませるのではなく、進んで心理学その他の新しい科学を取り入れていこうとする……要求に応えるものとして、マルクスとフロイトを統合しようとしていたフロムがこの学派に迎え入れられたのであろう。(徳永惇『フランクフルト学派の展開』新曜社)

(「思想新聞」2026年6月1日号より)

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