「プロ独」否定し「ユーロコミュニズム」潮流へ
レフ・トロツキー
1919年、スパルタクス団はドイツ共産党を旗揚げするも、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの死で求心力を失いました。ペトログラードでの追悼集会でトロツキーは、次なる「第三インター」こそ、「殉教者」としての彼らの遺志を継ぎ、マルクス共産主義運動の拠点とすると宣言しました。
そもそもローザ・ルクセンブルクとレーニンでは、考え方が異なりロシア十月革命ではローザ、カウツキーら独立社民党は暴力革命による権力奪取を非難。
トロツキーの複雑な立場を「トロツキーは、早くから革命への熱狂と文筆の才とを身につけていた。彼はずっと『イースクラ』(党機関紙)グループの一員であり、レーニンの密接な協力者であったが、1904年以後、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキのどちらからも独立した立場を取った。労働者大衆の階級意識と活動に対する彼の楽観的見解は、革命的前衛政党の組織を強調するレーニンを拒絶させた」と『アフター・マルクス』は述べます。
トロツキーには、レーニンが「ロシアのロベスピエール」に見えました。ボリシェヴィキは「前衛党」としてプロレタリアートを「代行」するとしたのです。トロツキーは「まず最初に党の組織が、全体としての党を代行する。最後には一人の『独裁者』が中央委員会を代行する」と、既に出発点から、プロレタリア独裁の陥穽を予見したのです。レーニンは逆に、トロツキーを「メンシェヴィズム」だと痛烈に批判。
トロツキーは、「プロレタリアートによる権力の獲得を、現実的な任務に転換させた」恩人と見なしたパルヴスの考えを引き継ぎ、彼自身指導した1905年の革命で確証し、理論的枠組みを与え、「複合的不均等発展」という社会的・経済的理論と、政治的「永続革命論」とを唱えます。
新主流派を生んだレーニンの踏み絵
時代は下った1919年3月、革命達成後の首都モスクワで、共産主義インターナショナル(コミンテルン=第三インター)創立大会が開催。コミンテルン指導部は「ソビエトをめざす運動は…それは、プロレタリアートの独裁に、共産主義の完全な勝利に向けて前進する大きな一歩である…国際ソビエト共和国の創立は近づいている」と高らかに宣言しました。
社会主義・共産主義の「国際指導センター」(インターナショナル)は、別掲図のようにマルクス、次いでエンゲルスにより設立されるもいずれも頓挫。だからレーニンによって創設された「コミンテルン」は、「第3インター」と呼ばれます。この国際組織は「モデル国家・ソ連」を擁し、資金も潤沢でした。「革命の輸出」に際し、惨殺したニコライ2世一家の財宝が投入されることになったからだと言われています。
ロシアのソビエト政権主導のコミンテルン創設に、ドイツ社会民主党などロシアよりも歴史が古い西欧の共産主義政党が反対。同党のベルンシュタインやカウツキー、ローザ・ルクセンブルクもレーニンの主張する「プロレタリア独裁」に反対し、やがて「ユーロ・コミュニズム」と呼ばれる潮流を生むのです。
ボリシェヴィキを率いたレーニンは、コミンテルンを「世界革命の司令塔」に仕立てるため翌年7月の第2回大会では、コミンテルン加盟条件(21カ条)を採択し、「踏み絵」として世界の共産主義者に突きつけたのです。
その加盟条件とは主に、①プロレタリアート独裁容認②修正主義との訣別③合法・非合法闘争の結合④民主集中制の採用——から成り、各国共産党は「鉄の規律」として厳格な遵守が求められました。
こうしてコミンテルンから各国共産党が設立され、日本共産党(1922年創立)も上海の「コミンテルン極東委員会」の指導と資金により誕生したのです。
コミンテルンは1943年に解散するも、組織原則はその後も継承(47年に後継組織「コミンフォルム」が成立し56年まで存続。これら諸国がNATO=北大西洋条約機構の西側に対抗する「ワルシャワ条約」を結び、東西冷戦の両陣営となりました)。
厳密には、「コミンフォルム」は「コミンテルン」の復活ではなくコミンフォルムは単に情報交換と活動の調整を目的とした欧州地域だけの組織とされました。その後ユーゴスラビアの離脱や、ハンガリー動乱やチェコの「プラハの春」が起こり、社会主義体制を脅かす「反革命」として徹底弾圧。スターリン死後なお、ソ連の「共産主義帝国」ぶりが露わとなりました。
共産党は世界各地で「レーニンの呪縛」を継承し、「民族解放」の名の下で、70年代にベトナム・カンボジアやアフリカ各地が相次ぎ共産化され、79年にソ連がアフガニスタン侵略まで拡張、世界32カ国が共産化、総人口の36%が「収容所群島」化したのです。
トロツキーを懐柔して利用したレーニン
さて「新主流派」となったレーニンはトロツキーの「分派主義」を指弾しても、「粛清」はしませんでした。トロツキーの指導力を買い、利用したのでしょう。だからレーニンの遺言となった「最後の手紙」に、「(粗暴な)スターリン書記長」の選択が「ソ連帝国」を誤らせる結果に導く、と危惧したのです(「手紙」は公表されず)。レーニンは21年にコミンテルン第3回大会後の幹部委員会でトロツキー擁護の演説を行い、22年末の「大会への手紙」で、トロツキーを「現在の中央委員中で最も有能な男」と評価したのです。
結果的にトロツキーはレーニンの奉ずる「プロレタリア独裁・民主集中制」という「鉄の規律」を受け容れ、ソヴィエト連邦の誕生に奔走。革命後しばらく続いた内戦では、赤軍派を組織・統率します。しかし24年のレーニン没後、失脚。スターリン支配下のコミンテルンと訣別し、「第四インター」創設の道を探ることになります。
スターリンの策略に嵌められ失脚・暗殺
1924年、レーニンの死に際しトロツキーは、スターリンからその知らせを受けず、葬儀に参列できませんでした。「レーニン後」のボリシェヴィキは結局、書記長スターリン・ジノヴィエフ・カーメネフの「3人組」体制で進められます。そして「反革命」のレッテルを貼られ、国外追放の末にトロツキーは1940年、スターリンの刺客に暗殺されます。
こうした経緯からトロツキーに対する同情は、「判官贔屓」の感があリ、トロツキーは「悲劇のヒーロー」視され、日本の左翼運動でもスターリニズム批判の象徴となりました。
「レーニン主義」の使徒としてスターリンの「粗暴さ」は、「ボルシェヴィキの突然変異」とは決して言えません。スターリニズムは、トロツキーによる指摘を待つまでもなく、死後その後継者たるフルシチョフの批判で、国際的に暴露されました。
さてトロツキーは、「第四インター」設立に際した「過渡的綱領」の中で、「スターリニズムはボリシェヴィズムに対する裏切りである」としています。この時点でも、「レーニンはあくまで正しい」というレーニン無謬論です。スターリン体制をあれだけ非難しながら、レーニンに対し偶像視しています。ところが、軍事史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフがつまびらかにする実態は、「レーニン及びボルシェヴィキこそ諸悪の根源」と断言するのです。
トロツキーには『文学と革命』のように、「プロレタリア文化革命は誤り」と現実的なものの見方をする側面はありますが、レーニンとボルシェヴィキに対する態度は、彼自身が非常に矛盾しているのです。
トロツキーが「第四インター」を設立に際し採ったスタンスは、「スターリン体制の打倒」で、目指すは「複数政党制を認め根付かせる」点にあるからです。
ヴォルコゴーノフは、レーニン・トロツキー・スターリンという「革命三傑」の評伝を、機密文書を駆使し書きました。彼は「ボリシェヴィキ独裁がなぜ続き、ロシア民衆もなぜ容認したのか」を問いました。
ヴォルコゴーノフによればトロツキーは、ロシア革命の「立役者」であり、「卓越した組織力と人身掌握術」によって「赤軍」を指揮し、レーニンの「手先」で、おぞましいテロ「実行犯」だったと言えるのです。
これは、オウム真理教による一連のテロ事件に照らし合わせてみるとわかりやすいでしょう。個人的にはいくら殺人・テロは人道にもとると考えていたとしても、教祖・麻原の「鉄の規律」の前ではそんな思考は停止せざるを得ない。しかし、すべての責任は麻原だけなのかと言えば、実行部隊の責任者にはやはり死刑もしくは無期懲役という判決が出されています。
この大いなる矛盾を打開するために、トロツキーとしては「レーニンは正しい、悪いのはスターリン」と開き直るしかないのです。何しろ「永続革命論」を唱えるわけですから、「革命」の前にはテロでも何でも正当化されるのです。
しかし今日、トロツキーの第四インター派が、欧州で少数ながら勢力を保つのは、初期指導者が「反ナチズム」のレジスタンス運動に関わったことに起因します。EUから見るトロツキー像は、十月革命とその後の内戦における赤軍の指導者としてよりも、「反スターリニズムの旗手」としての方が強いのでしょう。
ヴォルコゴーノフによれば、トロツキーの第四インターも、ボリシェヴィキ=ソ連共産党の70年の支配も「幻想の中に生きていた」のです。ボリシェヴィキの下におけるトロツキーは、レーニンの意向に極めて忠実で、実行力のある実務者であり、決して「悲劇の英雄」ではありません。
(「思想新聞」2024年6月1日号より)