文化マルクス主義の群像~共産主義の新しいカタチ~(11)

「上部構造の変革」促す「文化共産主義宣言」

 

ジェルジ・ルカーチ

ジェルジ・ルカーチ(1885〜1971)

 「ロシア・マルクス主義の異端児」トロツキーに続くのは、「ユーロ・コミュニズム」の思想家たちです。その筆頭には、「フランクフルト学派」の成立に深く関わったジェルジ・ルカーチが挙げられます。

 ハンガリー(当時ハプスブルク帝国領、正式:オーストリア=ハンガリー二重帝国)のユダヤ人銀行家の家系に生まれたルカーチの人生は、マルクスのたどった境涯を彷彿させます。

 芸術家らを庇護するほどの裕福な家庭環境で、ルカーチは、独墺系の様々な大学に遊学し学位を取得するものの、マルクスと同様ユダヤ系の出自のため教授職を得られませんでした。後に、1946年にブダペスト大学美学教授となることで実現します。ルカーチは遊学時代、W・ディルタイやG・ジンメル、マックス・ウェーバーらの影響を受けました。

 ヘーゲル哲学をマルクス主義に採り入れたルカーチは、「ユダのようにキリストを十字架にかけることが共産主義者の天職」と考え、かつてマルクスが神に復讐を誓った故事を彷彿させます。それはまさに、ヘーゲル哲学の「転倒」にほかならず、「転倒されたメシアニズム」つまり「神なきユートピア」とも言い換えられるでしょう。ここから1923年、共産主義者としての重要な著作、『歴史と階級意識』を書き上げます。

文化人民委員として家族崩壊政策を推進

 米国保守派の大立者P・ブキャナンは、ルカーチについて「『歴史と階級意識』でマルクスに比肩する思想家と認められたコミンテルン指導者。《社会を変える唯一無二の手段は革命による破壊》だと彼は言った。《古い価値の根絶と、革命による新しい価値の創造なくして世界共通の価値転覆は起こりえない》と。ベラ・クン体制で教育人民委員代理となったルカーチは自らの《天才的》アイデアを実践に移し、《文化テロリズム》をもたらした」(『滅びゆく西洋 病むアメリカ』)と述べています。

 この「文化テロ」とは、ルカーチは「ハンガリー・タナーチ(=評議会)共和国」と呼ばれたハンガリー共産党のベラ・クン政権において文化人民委員として行った文化革命的な政策で、次のようなものでした。

 「彼は過激な性教育制度を実施。ハンガリーの子供たちは学校で自由恋愛思想、セックスの仕方、中産階級の家族倫理や一夫一婦婚の古臭さ、人間の快楽をすべて奪おうとする宗教理念の浅はかさについて教わった。女性も当時の性道徳に反抗するよう呼びかけられた。こうした女性と子供の放縦路線は西洋文化の核である家族の崩壊を目的としていた」(同書)

 一時的であれ、共産政権の最高幹部の一人でした。ところが、革命政府の政策はあらゆる点で国民の不興を買いました。警察・憲兵隊の解散と新軍隊編成、大中規の企業の国有化、大規模所有地を没収される一方、自作農育成策もないものでした。加えて社会的には反教会・反宗教の嵐が吹き荒れ、教育政策では恐るべき過激性教育が実施されます。伝統的価値観を重んじる国民の不満・不安が増大したゆえんです。

 この後、ルカーチはコミンテルンにおける理論家として名を馳せます。特に指摘すべきは、彼の主著『歴史と階級意識』がフランクフルト学派の成立に重要な契機となったことです。

 いわゆるフランクフルト学派はホルクハイマーを中心に結成されますが、当初はユダヤ資本を元にフランクフルト大学「社会研究所」として発足しました。

上部構造を変革してこそ革命が成就

 ルカーチが自任したのは、マルクスが残した未解決の課題を発展的に敷衍すること、つまり下部構造だけでは成就できなかった革命を「上部構造の変革」で完成させることでした。これがまさに、「文化共産主義」の理論的出発点と言えるのです。

 「労働者が生産の領域で実行していること、これを魂の生の領域で行うのが教育の使命。つまり階級差を廃棄すること」(「共産主義の道徳的基盤」)
「共産主義社会の目標は階級差を廃棄することである。階級差の廃棄とは、経済秩序の、生産の変更を意味する。今プロレタリアートが携わるこの新しい生産秩序の創出は、しかしまだその過程を閉じ得ていない。内面の、教育に応じた、文化的、等々の特権は、生産秩序の変化によって存在をやめたわけではない。この変更も単に一つの可能性を、内面の平等の可能性を創るだけなのだ。この可能性の実現は、別の仕事の、教育の仕事の課題である」(「文化の本当の占有」)

 以上のルカーチの要諦、「下部構造(生産の領域)の変革は単なる条件にすぎず、上部構造(魂の領域)の変革を遂げてこそ革命は完結する」というものです。特に見逃せないのは、「内面の平等の可能性」という表現であり、彼の「教育の目的」はまさにそこにあります。これがまさしく、「文化共産主義の宣言文」と言えるものでしょう。

 さてルカーチは「タナーチ共和国」崩壊でウィーン亡命後、政治的立場を失うのと逆に、共産主義理論家として「深化」を遂げ、フランクフルト学派に決定的な影響を与えた主著『歴史と階級意識』を著しました。

 ルカーチは同著で、ヘーゲルの影響下だった「青年マルクス」を「封印」してきたエンゲルスを中心とした「正統派」の「難点」を批判。このアポリアとは、①過去20年にわたる社会主義的労働組合(第2インター)の指導者により実践されてきた「経済主義」②過去のマルクス主義哲学者たち(エンゲルスら)の科学主義に顕著に見られた自然必然性の強調——という二つの方向性でした(『アフター・マルクス』)。

エンゲルスを批判し弁証法を再定義

 ここで指摘したいポイントは、1920年代のマルクス主義思想に、①客観主義的・科学主義的傾向②主体(主観)主義・哲学的(弁証法的)傾向——という二つの潮流が存在し、ルカーチは紛れもなく②を代表する人物だったことです。

 この立場からルカーチは、エンゲルスが強調した「自然弁証法」と認識論上の「反映論」について「弁証法理解が不十分」とし、『反デューリング論』を厳しく批判します。

「エンゲルスは……歴史的過程における主体と客体との間の弁証法的関係に言及しておらず……全ての形而上学においては、対象は手をつけられないままで、かつ変革されないままで置かれ、その結果思惟は観想的なものにとどまって、実践的なものになり得ない」(『歴史と階級意識』)

マルクス主義認識論では「反映論」は模写説と言い、「客観的実在が意識に反映することにより認識される」としますが、ルカーチはエンゲルスは「真の弁証法」ではないというのです。

 ルカーチはまた、マルクスの「階級意識」に関する記述が不十分だったとし、プロレタリアートの現実の主観的意識を超え「帰属された」階級意識、つまりある階級が固有の利害を十分自覚する場合に持つ意識のことを語りました。つまり『歴史と階級意識』の主題は、標題の2語、「歴史=階級意識が実は同一のもの」だということを意味しているのです。

 『歴史と階級意識』で最重要とされる「物象化とプロレタリアートの意識」の章で、ルカーチ独自の「物象化論」が展開されます。

疎外論を敷衍するも成功しない物象化論

 この「物象化」とは何でしょうか。マルクス自身も『資本論』で「商品の物神(崇拝)的性格」を展開しますが、ルカーチは「階級意識」と同様、さらに敷衍しようと試みるのです。

 労働者が労働過程でつくった商品には、労働者の人格・精神性も含まれるはずが、資本主義社会では、商品をつくる能力しか評価されない。商品は価格が付与され貨幣に象徴される「交換価値」にしか還元されない、つまり労働そのものも交換価値に還元され、疎外されていくのが資本主義社会の宿命と断じています。

 さらに物象化の結果、「全体像の破壊」が到来——労働が歯車化され、原子化される世界は、主体を失った客体性が全面的に支配する世界だとしました。

 そうした中で、真に主体性を持ちつつ「総体性」の視点に立てるのは唯一、プロレタリアート階級だけであって、この階級こそが理論と実践の弁証法的統一を可能とする——というわけで、従来の議論の一切は、結局のところ「階級論」に帰してしまい、哲学上の「本体論」(本質論)的には、「汎階級論」になります。

現代社会に生きる人格としての「ブランド力」

 ルカーチは『歴史と階級意識』で、資本主義の歯車の中で労働者個人は「アトム化」されてしまっている、と断じました。しかし商品が買い手にとって交換価値のみであり、商品に労働者の人格が現れない、とは言いきれません。

 つまり商品には「労働者の総体」としての「法人格」という「人格」が備わっており、今日的表現では「ブランド力」とも言えます。トヨタやソニー、アップルといったブランドへの評価は「信用」と言い換えられます。そうした企業で働く労働者は、企業ブランドの矜恃を背負った立場で働いているのです。

 ですから「どこで作った製品も同じ」の古い資本主義観の時代から「ブランドを選択する時代」へと質的に転換したのです。この転換が「競争力」「市場の活性化」を生み、社会主義経済を打ち負かしました。ある意味、「物象化の宿命」に押し潰されたのは、社会主義経済の方なのです。

 「ブランド力」を説明するには、そうした交換価値と使用価値とも違う「第三の軸」が必要です。それは「信頼価値」と言えるものかもしれません。ルカーチは資本主義市場は「金で買える価値」だけと見なしましたが、例えば株式市場では、株自体は金で買えたとしても、その値には「金で買えない価値」すなわち「ブランド力(愛)」が大きく反映されるのです。

 こうしたある人のブランドに対する「信頼」は、ある種「嗜好」「趣味」という次元ばかりか、「愛」という領域にまで及んだりもしますが、「実用価値」という概念ではうまく説明ができません。

(「思想新聞」2024年6月15日号より)

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