ライヒとフロムからフランクフルト学派へ
ウィルヘルム・ライヒ
文化共産主義において重要な「柱」の一つとなっているのが、「性解放」の思想です。宗教や道徳という観点を除いてフロイトにおいて初めて「性」の持つ重要性がクローズアップされるに至りましたが、それを「性解放」を具体的に共産主義政府の政策として実践しようとしたのが、ウィルヘルム・ライヒです。
「異端中の異端」とされた共産主義者

共産党シンパと共に政治運動に携わるライヒ(左から3人目=1927年、ウィーン)
ライヒはユダヤ系オーストリア人ですが、「フランクフルト学派」には属しません。共産党員にしてフロイトの下で精神分析を修めた「弟子」ですが、共産党からもフロイト派からも除名された、まさに「異端の共産主義者」でした。ライヒは戦後、活動の場所を求め渡米。ところがここで「性エネルギーと宇宙エネルギーを融合」するという「オルゴノミクス」理論を唱え、「採取装置」まで開発。このため怪しげな理論と装置で人々を惑わす「マッド・サイエンティスト」とされ1957年、獄中で憤死したとされます。
ところが1960年代に入り、ボリシェビズム即ちソ連型共産主義が「スターリン批判」として実態が暴かれると、モスクワに背を向けた「ユーロコミュニズム」(=西欧マルクス主義)が注目を集め、世界的な学生運動の原動力となります。そこで大きな位置を占めたのは「フランクフルト学派」の思想です。フランクフルト学派とフロイト学派を結びつけたのは、実はフロイトの弟子であるライヒであり、エーリッヒ・フロムでした。
この1960年代、左翼学生たちを魅了し「カリスマ」となったのが、「3M」と称された人々です。すなわち、中国の若者を「紅衛兵」として扇動し「文化大革命」の偶像ともなった毛沢東であり、ハイデガーの弟子からフランクフルト学派に「転向」し「反戦・性の解放」を唱えたヘルベルト・マルクーゼ、それに共産主義の「大本」であるカール・マルクスでした。
「性解放のバイブル」として「復活」
マルクーゼの性解放思想が米国を中心に一大センセーションを巻き起こすと、改めてクローズアップされたのが、ほかならぬライヒの『セックス・レボルーション』(中尾ハジメ訳=『性と文化の革命』勁草書房)でした。
1960年代末、現代日本の代表的な劇作家・寺山修司がドイツの大学で経験した印象を、次のように記しています。
「SDS(社会主義ドイツ学生連盟)の学生たちと酒場で飲みながら議論していたとき、彼等がしばしば引用したのはライヒの『セックス・レボルーション』の中の一節だった」と証言し、「ライヒは、政治的解放が所詮は『部分的な解放にすぎなくなってしまった』時代にあって、真に革命的な思想家である。……フロイトが精神分析によって言語化するにとどめたものを、よりアクチュアルな実践を通して社会化していったライヒは、ありありと今日有用の思想であると言っていいだろう」とし、ライヒをフロイトの「枠組み」を超え「革命」への実践と結びつけた思想家として最大級の評価を与えています。
寺山は今では高名な劇作家にして詩人と見なされますが、彼の主宰する演劇などは、過激で実験的な「アングラ」に類するもので、唐十郎らと共に「アングラの四天王」と呼ばれました。
ベルリンで「思想融合」の開拓を企てる
ライヒとフランクフルト学派との関わりについて触れると、フランクフルト学派における「フロイト受容」は、ナチズムを分析した『自由からの逃走』で知られるエーリヒ・フロムが「仲介者」となります。フロムが直接フロイトの「直系の弟子」ではなく、最初の妻フリーダ・ライヒマンを通じて精神分析を知ってからでした。
フロムが結婚後、夫婦関係と精神分析の師弟との両立が不可能と考え、助手を務めていたウィーンのフロイトを離れ、ベルリンで「精神分析研究所」を主宰するライヒに師事し、「分析医としての修行」を積んだのです。フロムの「ベルリン時代」こそ、「マルクスとフロイトの思想的融合」を試みたライヒの最も華々しい時代でした。
「精神分析」へと駆り立てる「事件」
1920年頃、ウィーン大学でフロイト派精神分析に触れ実践していたライヒは、「思春期における近親姦タブー突破の一つの事例について」なる処女論文を発表します。ここでライヒは、心理メカニズムの症例としてある患者の治療に当たったと書いているものの、その「患者」こそ実は自分自身だったこと(つまり自己分析)を、後に自分の長女に話したのです(『W・ライヒ』)。同論文はカムフラージュされてはいるものの、「決定的な細部はライヒが人に話した内容と正確に一致している」(前掲書)と見られます。
それは猜疑心の強い父の嫉妬が的中し、ライヒが12歳の頃、家庭教師と母との不倫の現場を目撃し、その事実を父が知り、母は服毒自殺。母の死後、父は鬱状態になり3年後に死亡。ライヒ少年は「自ら両親を死に追いやった」との呵責が、彼の「心的外傷」として生涯に影を落とします。ところが良心の呵責だけではなく、同時に母への「近親姦」願望(フロイトのエディプス・コンプレックス説にライヒ自身が納得)が、ライヒの特異性・異常性と言え、先輩分析者によるライヒの「教育分析」が幾度も中断されました。
父の死後は農場を受け継ぎますが第一次大戦で農場は壊滅、ライヒはオーストリア軍の中尉として従軍。1918年に復員したものの、両親と農場を喪ったライヒは、弟と交代で仕事に就くなど、苦学生活を送りました。ウィーン大学の法学部から医学部へ転部、退役軍人から4年で卒業します。
ウィーン大学でライヒはフロイトの精神分析に出会い、その「使徒」となります。学派の総帥であるフロイトは、「ウィーン協会で最も頭がきれる男」と評価し、俊秀のライヒを第一助手、後に副所長として起用します。それは他の弟子らの嫉妬も誘い、やがてライヒは、フロイト自身とも決定的に袂を分かつことになります。
つまりライヒ自身は後に「フロイト文化哲学の批判」を記します。
「フロイトの文化哲学の立場はいつも、文化は本能を抑圧し拒否することによって成り立つ、というものだ。根本的な考えは、文化的成就は性のエネルギーを昇華した結果だというものだ。これは論理的には、次のように続く。文化の発展には性を抑制し抑圧することがなくてはならないものだ。こういう公式が正しくないのは、歴史的な証拠からも言える。それから、性の抑制など全くなく、完全に自由な性の営みをしていて高度な文化を持った社会が現存している。
この理論で正しいことは、性を抑圧することが大衆心理的な基礎になり、ある種の文化、つまり家父長的権威主義文化を、そのいろいろな形すべてにわたってつくっている、ということだ。間違っているのは、性の抑制が全ての文化の基礎だ、という公式だ。どうやってフロイトはこういうふうに考えるようになったのか? 明らかに、政治的な意識的な理由のためでも世界観のためでもない。それどころか、『文化による性道徳』について書いたような初期の著作は、はっきりと性革命が必要だという立場から文化を批判するという方向を示していた。ところがフロイトは、こういう方向には進まなかった。それどころか、こういう方向に向かうような試みにはどれにも反対し、一度は、『精神分析の邪道』と呼んだりもした。フロイトと私の間にどうしようもない意見の違いが起きたのも、まさしく、私が初期の試みで文化批判を一緒にした性政策をめざしたためだった」(『性と文化の革命』)
大衆向け「性政治」を実践
マクレラン著『アフター・マルクス』では、ライヒが「女性と子供を味方にしようとした」と記しています。実際、当時の左翼運動というのは、プロレタリアートの権利やブルジョアとの階級闘争といった観点が主要な闘争目標であり、一般の中産市民にとってはついて行けない世界でした。それを、万民共通の関心事であり、共闘目標たり得るとライヒが提唱したのが、「性政治」(ゼクスポル)と「性経済」(ゼクスエコノミー)という概念でした。
具体的にどういうことかと言えば、このうち「性政治」とは、家族・結婚・出産に関する諸政策であり、実質的には婚姻制度の解体、家父長制的伝統の解消、避妊具の配布と避妊知識の啓蒙を通じた避妊や堕胎の自由化、「婚姻制度」ではなく「持続的な愛情関係による性交渉」を基本とするものでした。
この点について、前述のM・シャラフ著『ウィルヘルム・ライヒ〜生涯と業績〜』では、次のように説明しています。
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「一九二〇年代前半からライヒは様々な素人集団に対して精神分析の諸問題について話をしていた。しかし一九二七年に、彼はこの努力に対して自分自身不満を感じていた。人々には、例えば去勢コンプレックスといった複雑な心理学的問題がわからなかったのである。労働者たちは普通に言われているような精神分析に対して反応しなかったが、左翼の諸政党から示される純粋に経済学的な分析にも背を向けていた。彼らの興味を捉えるためにライヒは、彼ら自身の情緒的な欲求に関連のあるものに目を向けるように彼らを刺激する観点を求めた。…その一つのやり方は、話のテーマを精神分析のより理論的な側面から人々の性生活という具体的な問題に変えることであった。ここでライヒは後に『セックス・ポルつまり性政治』運動と呼ぶことになるものを始めたのである。それは複雑な理論的かつ実践的な努力で、第一に性の問題を抱えている大衆を助けることであり、第二に、正常な愛情生活を営みたいという性的欲求を、より大きな革命運動の枠組みの中で意味のある政治的問題にするということであった。性政治と育児の問題は、大衆の間に熱烈な関心を呼び覚ました」
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個人の精神分析を大衆へ適応試みる
フロイトを創始者とする精神分析的治療法(ユング派の分析心理学を含む)というものは、専ら「クライアント(患者)個人の無意識」の世界に分析家が没入し、その世界をレトルト・パッケージのような「器」に入れ、封をする作業にしばしばたとえられます。
ですから、ライヒが「個人」ではなくて「大衆」を相手に、「性政治」(ないしは「性科学」)という看板の下に「精神分析」を展開しようとしたことは、ウィーンのフロイトや彼の他の弟子たちにとっては、明らかに「無謀」のように映ったことでしょう。
一九二〇年代の前半にライヒにとっての知的・情熱的支えとなったものとして、シャラフは前掲書で「フロイトと青年運動と精神分析の同僚たちがいた。彼らによって心理学、特に性の心理学に対して芽生えたばかりの彼の興味が方向づけられることになったのである。全般的な政情不安定と結びついてではあるが、ライヒがオーガズム機能を解明して、より広い社会的な観点に向かっていた一九二〇年代後半に、彼はマルクス主義の社会的威力と革命的希望を発見した。情緒的かつ社会的に彼は多くの労働者たちの中に、開かれた心と単純さを見出した。それこそ、より『教養のある』友人や同僚の間で必至に求めながら得られなかったものである」と述べています。
ライヒはまた、「性経済」の成立の源泉について、「性経済学は父が精神分析であり、母が社会学(マルクス主義)である」と『ファシズムの大衆心理』序文で述べていますが、「性経済」とは具体的には「有機体内部の生物学的エネルギーの経済、その配分に関わる学問」としました。シャラフの伝記では「経済という語を用いたことに、マルクス主義の影響が反映されている」と指摘しています。
「移動式相談所」で避妊具実演も
さてライヒは、ウィーンで性知識の啓蒙を目的とする「相談所」を設け、パンフレットを作成し、市民に配布しました。次女ローレが生まれた一九二八年、「性相談と性科学研究のための社会主義協会」を設立、一九三〇年まで運営し、一九二九年には、「労働者と雇用者のための性衛生相談所」をつくり、妊娠調節、育児、性教育などの情報を提供し、公開討論会も開きました。
ただし「相談所」と言っても実際は幌付きトラックによる移動式のものでした。シャラフの記述によれば、一九二八〜二九年の春と夏の間ライヒは、小児科医、産婦人科医、それに友達のリア・ラスツキ(妻子あるライヒと不倫関係にあった)と週に何日かウィーン周辺の郊外や田舎に幌付き貨物自動車で出かけ、地域の公園に集まった人々に向かい、ライヒらは、性的な事柄について話をしました(ライヒは思春期の青少年や大人の男たち、産婦人科医は女性たちと、保育園教師のリアは子供たちと)。産婦人科医は、避妊具を処方したり装着する実演を行いました。そして性情報に関するパンフレット・小冊子を一軒一軒配布して歩きました。
共産主義による大衆救済に期待
臨床的かつ社会的双方の期待を統合しようというライヒ独自の企ては次のようなものでした。
「性格分析が個人を内的抑圧から解放して、自然のエネルギーが自由に流れるようにすることができるのと同様に、ラディカルな社会主義者と共産主義者なら大衆を外的抑圧から救って、自然な社会的調和、すなわち『階級のない』社会を生み出せるのではないか。ライヒはそのように期待した。少し言い方を変えるなら、政治的左翼に強く働きかけたいというライヒの希望は、個人の急速な変化をもたらす方策はないだろうかという彼の臨床的探究と並行していた。それゆえ、性器的突破があれば、たとえ心理的葛藤が未解決であっても分析を長引かせることなく患者は自由になることができるはずである。同様に、決断力に富む指導者に社会革命が唱道されるなら、市民の間でいろいろな心配や矛盾があっても、社会的に突破が起こるであろう」(M・シャラフ『ウィルヘルム・ライヒ』)
しかし、ライヒは共産党と結びついたゆえオーストリア社民党から除名され、フロイトの弟子たちとの確執などから、一九三〇年にフロイトの「お膝元」のウィーンを離れ、ベルリンに移住。ここで開業したライヒは、エーリッヒ・フロムをはじめフロイト派の若手精神分析家らに少なからぬ影響を与えました。ワイマール体制下のドイツでライヒは、社民党から分かれ第三勢力となっていた共産党と歩調を共にします。
(「思想新聞」2024年9月15日号より)