農業版文革を露わにしたルイセンコ事件
ラマルク進化説と共産主義
遺伝子決定論と文化決定論との論争
今日のLGBTなどジェンダー論では遺伝的な議論が極力排除される傾向にあります。一般的に現代の人類学ではDNA解析がほとんどですが、20世紀前半の文化人類学は、ある意味ジェンダー論の奔りとも言えます(M・ミード『サモアの思春期』など)。遺伝的要素よりも後天的要素、つまり「氏より育ち」を重視したのです。これは生物学の進化説で言えばラマルキズムとダーウィニズムの対立とも言えるものでした(特にダーウィンの従弟ゴールトンの優生学)。
ダーウィンの『種の起源』(1859年)のちょうど半世紀前にジャン=バティスト・ラマルクの主著『動物哲学』が著されました。ラマルクは「生物学」という学術用語を初めて用いた生物学者で、彼の進化説も独特のものでした。
ラマルクの説く進化説は、①生物がよく使用する器官は発達し、使わない器官は退化するという「用不用説」と、②個々の個体が得た形質(獲得形質)がその子孫に遺伝するという「獲得形質の遺伝」を2本柱とするものでした。またラマルクは生物の進化は、その生物の求める方向へ進むもの(定向進化)と考え、生物の「主体的な進化」を認めたものです。
このため、厳密な意味でラマルクは遺伝について否定したわけではありませんが、今日のダーウィニズムは、G・メンデルの「遺伝の法則」やド・フリースらの「突然変異」の発見によって補強され、「ネオ・ダーウィニズム」と呼ばれるようになりました。そしてさらに、DNAの発見でより遺伝学の精度が高まったのです。
また、優生学をはじめとする遺伝決定論者が全面的にダーウィニズム(自然淘汰=適者生存説)を採用し、ラマルキズムの「獲得形質・用不用説」を退け、逆に文化人類学をはじめとする文化決定論者がラマルキズムに近づいていったと言えます。
それは、遺伝決定論者のアウグスト・ヴァイスマンが、ネズミの尾を切っても、それが子に遺伝しないことを実験で証明し、「ラマルキズムの獲得形質は遺伝しない」と「進化論におけるラマルキズムの敗北」を宣言し、それはもはや雌雄を決したと見なされたからです。ただ、ヴァイスマンの実験は、ネズミが望んでしっぽを失ったわけではなく、生物の主体性重視の用不用説への完全な反証とは言えませんでした。
ルイセンコが科学をイデオロギーの僕に
しかし、このラマルクの進化論の拙劣さは、別の形で露わにされ、20世紀の共産主義を標榜したソ連=スターリン体制下において大失敗を引き起こすことになります。それがいわゆる「ルイセンコ事件」です。
これは、ウクライナ出身の植物育種家トロフィム・ルイセンコによる農業の「文化革命」と言えるもので、ラマルキズムに基づく農業法(ヤロビ農法)を提唱したイワン・ミチューリンの学説をさらにイデオロギー的に強化。「ダーウィニズムの自然淘汰説はブルジョアジーの搾取や帝国主義を正当化する反動イデオロギーであり、ラマルキズムこそがプロレタリアートのための革命的学説だ」というものです。
そして実際、このルイセンコの説によりラマルキズムの理論に基づいて農業政策が行われました。
すなわち、寒さに強い品種とは、極寒の環境に置けば置くほど強くなるはずだとして、雪の上に麻の種子を蒔かせたのです。しかし当然、種子は水分を吸収してふくれてカビが生え、すべて駄目になって、広大な耕地が1年間も空地のままにおかれたというのです(ソルジェニーツィン『収容所群島』)。
「寒さに強い形質」を後天的に獲得するという考え方からすると、どんな品種でも、寒い環境に置けば寒さに強くなる適応性を獲得することになります。
これに対し、ダーウィンの「自然選択説」の考え方では、寒い環境に適用できない品種は死に絶え、適応できる品種のみ生き残っていく、と考えます。弱者は死に絶え、強者のみが生き残り子孫を残していくという考え方が、「プロレタリア革命」のイデオロギーには「反動的帝国主義」と映ったからです。
こうしたルイセンコによる「革命的提言」によって推し進められた、ソ連の農業政策は完全に失敗し、壊滅的打撃を被りました。
オデッサ遺伝淘汰学研究所所長だったルイセンコはスターリンに見出され、1939年には全ソ連・アカデミー会員および農業アカデミー総裁など多くの政治的要職を歴任しましたが、農業に壊滅的打撃を与えただけではありません。今や品種改良では常識の「遺伝の法則」への攻撃です。
ルイセンコは1948年の会議で、「メンデル的思考は〝反動的かつ退廃的〟であり、メンデリズム信奉者は〝ソビエト人民の敵〟」とする熱狂的演説を行ない、彼自身の意見が党中央委員会にも支持されたとして独裁的権力を握ります。
その一方、遺伝学者や、自然選択を支持してラマルキズムを拒否した多くの科学者たちが、権力に屈して「自己批判と党の知恵の正しさ」を告白する文書を書くか、さもなければ粛清や強制収容所に送られたり、消息不明となり、ソ連社会から抹殺されたのです。このもう一つの「プロレタリア文化革命」は、ルイセンコの「政治指導」の下に行われたのです。
こうした「ルイセンコ主義」によって、科学は「適切に調整され実験に基づき説明される理論」ではなく、「望ましいイデオロギー」の枠にはめ込まれる、つまり、科学はソビエト国家に奉仕する、というよりも「共産主義イデオロギーに奉仕するもの」に堕してしまったのです(The Skep-tics Dictionary 参照)。ただ、だからといってダーウィンが正しいというわけではありません。
(「思想新聞」2024年11月15日号より)