管理・監視は悪で警察は敵か?
ミシェル・フーコー(上)
さる7月28日、熊本県で最大震度7の地震が起こり、38人が死亡し約7千人が酷暑の中避難生活を余儀なくされています。熊本では10年前も震度7の地震に襲われたばかりですが、改めて亡くなられた方々へ哀悼の意を表するとともに被災地の人々に心からお見舞いを申し上げます。
今回の令和8年熊本地震や2年前の能登半島地震、東日本大震災(2011年)、阪神淡路大震災(1995年)など激甚災害や新型コロナ・パンデミック(2019年)でその都度指摘されてきたのは、政府・行政の対応能力。特に阪神と東日本という2つの大震災ではもっと政府対応が早ければ救える命は格段に増えたのではと言われます。その適切な対応を迅速に行えるようにすることが「緊急事態」「国家緊急権」についての考えです。
さて、本連載は文化破壊の共産主義的思想系譜を人物中心にまとめてきましたが、今回から取り上げるのはミシェル・フーコーです。フーコーといえば、今や「市民権」を得て「常識」のようになった「LGBT運動」の先駆けとなり「ゲイの聖者」とも目されている人物こそ、フーコーであり、いわゆる反「TERF(=トランス排除的ラディカル・フェミニスト)」、つまり「トランス女性」を女性スペースや女性の権利の枠組みから除外すべきとする考えを糾弾することを唱えるジュディス・バトラー米UCB(カリフォルニア大学バークレー校)教授に決定的影響を与えているのです。
まず、このフーコーを研究する学者が、日常とは異なる緊急的状態を、どう考えているのかを紹介してみましょう。
フーコー学者の異様な「本音」
フランス現代思想の「核」とも言えるのが、「構造主義」あるいは「ポスト構造主義」の立場です。一般的にフランスの実存主義思潮(実存哲学)の中心的存在だったJ・P・サルトルの思想と鋭く対立しました。
構造主義を創始したレヴィ=ストロースが、文化的構造に着目し、「主体性の真理」を説くサルトルと論争を引き起こしたため、構造主義はマルクス主義べったりのサルトルの実存哲学とは異なった「新しい指標」と目されました。
ですが、サルトルの論敵だったフーコーの思想は、サルトルのマルクス主義実存哲学との隔たり以上にレヴィ=ストロースと隔たっているのです。
フーコーの著作、『監獄の誕生』『狂気の歴史』というタイトルにも表れているように、管理システムに対する糺弾が、フーコー思想の根底にあり、それを粉砕しようという姿勢が、やがて監獄解放運動(GIP)、同性愛者解放運動につながっていきます。元々フーコーは、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリエル)での師であるアルチュセールや、『存在と無』を著した実存哲学者として知られたサルトルと同様にフランス共産党に籍を置きました。ただ、サルトルやアルチュセールほどには、フーコーはマルクス主義のドグマ(教義)と政党には拘りませんでした。
フーコーの権力論は『監獄の誕生』以降本格化します。その『監獄の誕生』を軸としたフーコー哲学の入門書が、重田園江・明治大教授の『ミシェル・フーコー│近代を裏から読む』(ちくま新書)。ネットの書評を見ると、「難解なフーコー思想を分かりやすく解説」などと肯定的な評価が多い。が、重田教授の「本音」には、聞き捨てならない言説が散見されます。
防犯対策は不快で警察を敵視する異様さ
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道で警察に職質されたら不快だ。……不審者対策と称して腕章をつけた親が通学路を見回るのはうんざりだ。自分たちは善良な市民で敵は外にいると言わんばかりの態度に腹が立つ。防犯カメラ作動中のシールを玄関に貼るのはやめてほしい。私は毎日のように、こうしたことを……不快に思っている。
そんなとき、『監獄の誕生』をはじめとしてフーコーが書いたものを読むと涙が出そうになる。……権力は人の相互行為を通じて、戦略的に作用する。そして日々新たに犯罪者とそうでない人の境界線を引きなおし、被害者意識を醸成し、安全への際限ない欲望を煽る。……それが政治的な戦略を通じて固定化された道徳、ルールだとするなら、別に正義でも何でもないのだから。それどころか、犯罪と刑罰の歴史、道徳の歴史とは不正と欺瞞の歴史なのだ。……たくさんの人が、『監獄の誕生』やフーコーの意地悪で秩序転覆的な権力観に触れて、警察の仕事とは市民を監視することだという事実に気づき、また不快に思うべきことを不快に思い続ける力と元気をフーコーから引き出してほしいと願っている。
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こうした重田女史の認識がいかに独断的暴論か、具体例を挙げてみましょう。
2013年6月に起こった、東京・練馬区の小学校で、男子児童3人が首などを切りつけられ重軽傷を負いました。犯人の男は逃走し後に現行犯逮捕。下校時、ナイフで襲いかかる通り魔犯に児童を守るため交通安全の旗一本で立ち向かったのが、シルバー人材センターから派遣された交通安全指導員の男性(71)でした。
子供だけの下校で、もし交通安全指導員がいなかったら、児童の被害者はさらに広がったはずです。
また「オウム最後の逃亡犯」高橋克也容疑者の逮捕劇は、防犯カメラが決め手でした。「監視」あるいは「見守り」が、犯罪抑止や犯罪解決の決め手となるのは自明の理。ところがこうしたものは「正義漢ぶる者の論理を助長させるから必要ない」というのが重田女史の主張なのです。
上野千鶴子「お一人様」思想との共通点
このような議論は、自分たちは核の傘に守られどっぷりと平和を享受しながら、「日本の平和は憲法9条があったからで、軍隊は必要ない」と言うのと同じです。もちろん、軍隊や兵器がなければ人間が戦争で傷つくことがなくなると考えたくなる気持ちも理解できます。しかしそれは単なる願望で、同じ考えの人間ばかりではなく、無抵抗がかえって脅しやすいと考える者もいるのが現実です。
その意味でちょうど、上野千鶴子・東大名誉教授が「おひとり様万歳」と結婚(主婦)を敵視する背景に、自らの家族へのトラウマがあるのと同様に、重田教授もまた、「管理教育」で知られた愛知県の高校出身で、「管理」(という「権力の介入」)に対する強烈な怨恨感情を同書の中で図らずも吐露しているのです。
もっとも、フーコー自身の記述はもっと巧妙で用意周到。「おひとり様論争」で上野女史の歪つな家族観を指摘した内田樹氏は、主体性を礼賛するサルトルに抗し「主体の死」を説くフーコーはむしろ保守にさえ見えます。
J・ミラーの『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』には同性愛者間で聖人視されるフーコーがいかに「快楽」を重視し、晩年に「窮屈な」フランス社会を避けより偏見の少ない米国西海岸のゲイ共同体がつぶさに語られます。今日の「同性婚」容認の潮流はある意味「フーコー思想の浸透」と見なせるのです。
こうしたフーコーの「素顔」暴露は卑しい中傷だとし「フーコー愛」に耽溺する重田女史は同書でまた、高まる緊急事態の議論を牽制し、非常時を想定することが「日常を非常事態に比してゆるんだものとみなし人々の頽廃を非難する」などと独善的暴論を吐きます。ならば、大地震・津波、窮迫不正の武力侵攻などの事態も「想定するな」となるのです。これは実はテロ行為を正当化する極左過激派の論調とそっくりです。
(「思想新聞」2026年8月15日号より)




















