「エピステーメー」で近代論じサドを枢要な地位に
ミシェル・フーコー(下)
思考の場としての「エピステーメー」
プラトンやアリストテレス以来の古典的「体系哲学」では、認識や知覚に関する部門を「認識論」(エピステモロジー)と呼んできました。これは「知」(Knowledge)や「科学」(Science)を表すギリシャ語「エピステーメー」に由来しますが、フーコーはこの言葉に特殊な意味を与えます。
フーコーは、「思考の下地となり、思考を支える根源的な場=秩序となるもの」を「エピステーメー」と呼ぶことにしました。そして「それは抽象的な一般原理ではなく、歴史的な日付においても、地理的な広がりにおいても限定されたものである。エピステーメーはわれわれの文化や思考の台座となる深層の秩序をなしている」(内田隆三著『フーコー│主体の系譜学』)と考えました。
このフーコー独特の「ジャーゴン」(専門語)である「エピステーメー」とは、科学哲学では人口に膾炙しているトマス・クーンの「パラダイム」という概念と類似性があります。また、フーコーの師事したルイ・アルチュセールがG・バシュラールから受け継いだ「認識論的切断」という概念にも近いと言われます。いずれにせよ、彼の「エピステーメー」とは「知の枠組み」とも言い換えられるかもしれません。
博士論文として出版『狂気の歴史』
いかなる時代や社会においても、支配的な「思考の体系(秩序)」が存在することは理解できるでしょう。ただしそれは、科学で言う「パラダイム」ほどには「真理に近い考え」とは見なされません。そして世の人々が「理性」と奉じているものは、実はきわめてあやふやな思い込み(ドクサ)にすぎないのではないか、として疑義を突きつけるのがフーコーの立場です。すなわち、「狂気」というものも、「西欧近代の社会秩序」という枠組み(エピステーメー)からはじき出され排除された存在なのだと。
1961年にフーコーは博士論文『狂気の歴史』を出版します。これは、狂気そのものの原初的状態の復元ではなく、狂気を狂気として認定し、捉える時代的な制度や学問の全体がいかに構造的に成り立つのかを研究する「[狂人の]沈黙の考古学」でした。
ここでフーコーは、「阿呆船(愚か者の船)」を取り上げます。ルネサンス期、ライン河畔やフランドル地方の運河を航行した奇怪な船で、当時「狂人」は出自の町だけが面倒を見るのが自治の通例で「よそ者」は追放され船で連れ戻されたといいます。フーコーはこの「阿呆船」が15世紀の絵画や文学に頻繁に現れたのは、中世末期の西欧に現れた「不安の象徴」と見て、「死」から「狂気」が破局や終末の接近と捉えられたと結論づけます。
西欧中世では狂気は無秩序の象徴で、人間を楽しませるものでもあり、狂気と理性は相互に置換可能な関係にあると考えられ、モンテーニュやパスカルらは狂気を理性の一部として捉え、「狂気が人間に内在するものであり、排除の対象ではなかった」とします。その状況を一変させたのがデカルトで、「狂気は、思考の成立を不可能にする条件と見なし、ものを考え疑いを持つ人間主体は、狂気を排除するもの」と考えた、とフーコーは分析します。
「実在しない寓話」だった「阿呆船」
こうした『狂気の歴史』をアルチュセールが賞賛しましたが、『フーコー│主体の系譜学』(桜井哲夫著)では、フーコーの分析への反論をも紹介。特に「ルネサンス期には狂気を受容したが、古典主義時代は狂気を排除したというのは、あまりに単純化しすぎであり、フーコーのいう《阿呆船》は存在しなかった」(H・C・ミドルフォート)との指摘や、「阿呆船」の議論に疑問を抱き、フーコー自身を追及しても文献の根拠を示さず、スウェーデンのウプサラ図書館に照会し、15世紀の作家S・ブラントの『阿呆船』という小説で、あったことが判明し、根拠のないフィクションであることを突き止めた(バーバラ&ブレンダン・メイハー「阿呆船」)ことも紹介しています。
このように、「知の考古学」という大胆不敵なスローガンを標榜したにもかかわらず、フーコーの「歴史の考察」というものが、実は用意周到なものではなく論拠もあやふやなものにすぎなかったと言えます。
桜井氏はまた、フーコーの後輩にあたるジャック・デリダの批判的指摘も紹介。すなわち、「デカルトの近代的理性の概念が、狂気の追放を生んだ」としたフーコーに対し、デリダは「私が狂っていようといまいと《私は考え、私は存在する》のだ」と反論するのです。つまり、フーコーの議論があまりにも歴史的事実や文献、そして議論を単純化し図式化しすぎるということにほかなりません。
そのように考えると、フーコーによる西欧近代に至るまでの「エピステーメー(知の体系)」の「3つの局面」というものに、はたして如何ほどの説得力があるかということです。
フーコーが西欧近代を位置づけた「エピステーメーの3つの局面」とは次のようなものです(小阪修平『現代思想・入門』)。
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①ルネッサンス期とバロック期——言葉と事物が一致していた、「相似関係」の支配の時代から、この両者の間に裂け目が生じはじめ、事物(風車)を言葉(巨人)に一致させようとした「ドン=キホーテの物語」が、一種の悲喜劇として語られる時代。
②古典主義の時代——言葉と事物が分離し、言葉が事物の記号となった時代。つまり言葉は事物を表象する、「表象関係」の支配の時代。この時代の知は、「表象関係」の要求する秩序を完成するために、「話すこと」に対しては一般文法の成立が、「分類すること」に対しては博物誌が、「交換すること」に対しては、重農主義と功利主義が語られている。しかし、まだ表象関係は透明であり、理性の勝利がまだ信じられていた時代。
③19世紀のいわゆる近代——この時代はサドによって始まる。透明な理性は、サドが主題とした暴力と性に象徴されるような不透明な暗がりに突きあたった。この時代のエピステーメは、形式的に完成されうる数学や物理学、非連続的だがいまいった不透明な部分に関連した言語・生命・富の生産と分配に関連する諸科学、哲学的な反省の三つから成り立っている。
だが、近代におけるエピステーメはそれだけでは不十分であって、「人間」という中心的な観念を要求してきた。この三つの面は人間という観念によって統合されてきたのである。なぜなら、デカルト的な透明な理性の時代には、とりわけ人間について思考する必要はなかった。透明な理性が不透明な厚みにぶつかって初めて、人間が「玉座」に就いたのである。つまり、認識の客体でもあり主体でもあるような「人間」の登場である。そしてこの時代は「歴史」という概念が登場した時代でもあった。そこには、人間とはもはやこれらの不透明な部分とそれに対する人文諸科学的な知の主人公ではないにもかかわらず、人文諸科学がふたたび「歴史」のなかで根拠をもってしまうような逆転が起こるのだ。人文諸科学の可能性は、より無意識的な領域を扱う、言語学・精神分析学・文化人類学のなかにあるとフーコーは指摘する。
エピステーメとは、その時代、時代を基底している全体的な知のありようとでもいうべきものだ。フーコーがこのように近代という時代のエピステーメを明らかにしたのは、近代という私たちの時代の成立を「歴史的」に批判しようとしたからである。
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特にフーコーは18世紀末以降、近代のエピステーメーの「布置」(配置)は大きく変化したと説き、「第3の局面」として大きくクローズアップしたのが、「狂人」と言われ「性倒錯」の限りを尽くした作品を書きバスチーユ牢獄に囚われとなったサド侯爵でした。フーコー以前にもフランクフルト学派のホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』でもサドは重要な地位を与えられました。
フーコーが押し上げたサドについて、桜井氏の解説では次のように述べます。
「サドはその作品において、人間社会の理性と規範を破壊するような、あらゆる倒錯した欲望の形態を列挙し続ける。その理性や規範を保証するのが神の存在であるとするなら、彼はそこで涜神行為の「集大成」を行っているのである。……彼は恣意的な「欲望」にのみ憑かれた犯罪者ではない。また、不在という形で神を前提する「表象の世界」を単純に否定する革命家でもない。……サドは単純に神を否定する無神論者ではない。彼にとって無神論は裏返しの一神教にすぎない。彼は表象の空間の自律性の前提となった不在の神、正確にはそのような神の場所を確保する。だが、それはその場所に悪魔を座らせるためである」(『フーコー│主体の系譜学』)
最後の強烈な1文にある「神の場所に悪魔を座らせるため」サドは徹底的にキリスト教道徳を否定し尽くすのです。19世紀のダーウィニズム(ニーチェを含む)とマルクス主義に先んじて「倫理道徳の転覆」を企てたサドにフーコーが注目したのは、ある意味で当然だと言えます。
(「思想新聞」2026年10月1日号より)




















